16/01/31

ドッジボールと組体操

最近、「ドッジボールはイジメにつながる」という理由で、小学校の体育の授業では禁止すべきだという意見が出ているらしい。実際にアメリカでは、一部の学校でドッジボールが禁止されているようだ。一般人でも平気で銃を所持している国なのに、ドッジボールが野蛮だという理由で禁止するなんて、あまりにも過保護でアンバランスなところが面白い。

こうした意見が出てくるまで、ドッジボールがイジメにつながるなんて考えたことはなかった。たしかに、相手の身体に直接ボールをぶつけるという意味では、他の球技よりも暴力的な要素は強いのかもしれない。運動神経の鈍い子供が集中的に狙われるということもあるから、特定の子供に対するイジメにつながるという意見もわからないでもない。

しかし、そんなことを言ったら、スポーツなんて何もできなくなってしまう。運動神経の鈍い子が辛い思いをするのは、ドッジボールに限らずどんな運動でも同じことだ。この理屈でいくと、足の遅い子は徒競走で辛い思いをするから、体育の授業から徒競走をなくすべきだということになるけれど、さすがにそれはやりすぎだろう。「走る」というすべての基本となる能力まで否定してしまったらどうしようもない。

自分の場合、ドッジボールはけっこう好きだった。自分ひとりだけがコートに残り、敵のボールを見事にキャッチしてそこから大逆転して勝ったときなど、なんとも言えない高揚感を覚えたものだ。特別に運動神経がよかったわけではなく、どちらかといえば運動神経は鈍い方だったと思うが、それでも、ドッジボールでヒーローになれるチャンスはあったわけだ。

イジメにつながるということで言えば、ドッジボールよりもかくれんぼなどの遊びの方が、ずっとイジメの要素が強いと思う。実際に、ちょっと気に入らない子を鬼役にして、自分たちはグルになり、延々とその子に鬼役を続けさせたこともあった。かくれんぼというのは、隠れる側が協力すれば簡単に勝てるルールになっているから、延々と鬼役を続けさせることはまったく難しくない。

当時は、イジメてやろうと意識していたわけではなかったけれど、いまから考えると、やっぱりどこかにそういう気持ちがあったのかもしれないと思う。逆に、自分が鬼になったときに同じようにターゲットにされたこともあったが、何度か鬼役を続けるうちにバカらしくなって、そのままゲームを放棄して家に帰ったことがある。昔から、嫌なことには真正面から取り組まず、すぐに逃げ出してしまう性格だったわけだ。

ドッジボールよりもタチが悪いと感じるのは、組体操だ。自分が小学生の頃は、学校に通う子供の数が少なかったから、大勢の人数を必要とする組体操を経験したことはないけれど、なんとなく大変そうだなという気がする。何が大変そうかといえば、ピラミッドの下で支える子供たちだ。実際に経験がないからよくわからないけれど、大勢の体重を長時間支える一番下の子供たちの負担はけっこう大きいのではないだろうか。

組体操に取り組む理由としては、一体感だとか達成感などの理由が挙げられるけれど、本当にそうなのかなと思ってしまう。ピラミッドの下層を支える子たちは、「重いなあ、早く終わらないかなあ」などと考えるだけで、組体操が完成した姿を実際に見ることはできなわけだから、達成感もクソもないだろう。感じるとすれば、やれやれ、やっと終わった、くらいのことだろう。

組体操で達成感を覚えることができるのは、ピラミッドの頂上でポーズを決める子供と、それを見ながら悦に入る教師だけだ。このたった二人の達成感のために、その他大勢の子供たちが犠牲を強いられるわけだ。なんという不公平な仕組みなんだろう。しかも、ピラミッドが崩れたときのことを考えると、ケガのリスクもかなり高い。ドッジボールの是非を問うヒマがあったら、組体操を廃止しろと言いたい。

結局、すべての子供たちが辛い思いをすることなく平等に楽しめるスポーツやゲームなんてないということだ。だれかがおいしい思いをすれば、その陰で引き立て役になるだれかが必ず存在する。それが、集中的に狙われてボールを当てられる子だったり、ピラミッドの最下層でみんなの体重を支えながらじっと我慢している子だったりするわけだ。

そもそも、世の中というのは不公平な仕組みになっている。才能のない人間は才能のある人間には勝てないし、才能があっても家庭環境などの理由でその才能を発揮できない人間もいるし、大した才能もないくせに容姿がいいという理由だけで器用に世渡りをする人間もいる。真面目に努力している人間が報われる世の中なんていうのは、絶対に実現しない理想論だ。



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