15/05/10

読書量と文章力との関係

ということで、足掛け15年で500冊のペーパーバックを読んだわけだけれど、これは一般的な感覚からするとけっこうすごい数字なのかもしれない。冷静に考えると、1年間で30冊強のペースだから、実際にはそれほどすごい数字ではないけれど、「これまでにペーパーバックを500冊読みますた」なんて言うと、へえ、そりゃすごい、なんていう反応が返ってきそうだ。

特に、最近ではスマホの普及などもあって活字離れが進んでいるから、本を読む人の絶対数も減っているのだろう。電車の中でスマホをいじっている人と本を読んでいる人の数を比べてみれば、それがよくわかる。まあ、スマホにキンドルなどのアプリを入れて本を読んでいる人もたまにいるけれど、それを差し引いても電車の中で本を読んでいる人はそれほど多くない。

そういう人たちと比べれば、1年で100冊くらいの本を読む自分は「本をたくさん読む人」ということになるのだろう。だからといって、別に読書量を自慢するつもりはない。だいたい、本をたくさん読んでいるからといって、自慢できるような効能や効果は特にない。本をたくさん読んでいるおかげで、ものすごく博学になりますた、みたいなことは一切ない。

そもそも、どれくらいの量を読めば「本をたくさん読んでいる人」になるのだろうか。区切りのいいところで、年間100冊というのが一つの目安になるかもしれないが、いまの時代は50冊くらいでも十分に多いと思う。年間50冊といっても、週に1冊のペースだから、いつもスマホばかりいじっている人からすれば大変な量だ。

以前勤めていた職場に、年間50冊くらいは読みますよと自慢げに話していた若い男子がいた。聞いてみると、そのほとんどがミステリー小説らしい。年間50冊という読書量よりも、世の中にはそんなにミステリー小説があふれているのかということに驚いた覚えがある。毎年50冊もミステリーばかり読んでいて飽きることがないというのは、世の中にいかに大量のミステリー小説が存在するかということだ。

それはともかく、その男子の書く文章はお世辞にも上手いとは言えず、読書量と文章力とは関係ないんだなと思った。主語と目的語が一致していなかったり、助詞の使い方がおかしかったり、すんなりと読めないような文章が多かった。たとえば、「どこそこのスーパーでは、卵1パックが100円で売っている」みたいな文章を平気で書いたりする。

説明するまでもなく、これは「卵が100円で売られている」とするか、「卵を100円で売っている」としなければならない。元の文章をそのまま読むと、「スーパーで卵が100円の何かを売っている」という意味になってしまう。もちろん、何を言いたいのかはわかるけれど、少し頭が悪い人が書いたのかなと思われてもしかたがない。

これは翻訳でも同じことで、あれ? と思うような訳文を書く人がけっこう多い。たとえば、「This softwear runs on a remote host.」という原文を、「このソフトウェアはリモートホスト上で実行します」という訳文を書く人が少なくないのだ。これをそのまま読むと、「だれがリモートホスト上でソフトウェアを実行するのだろう」と考えてしまう。

これは、「リモートホスト上で実行されます」とするか、「リモートホスト上で稼働します」としなければならない。文法的な説明をすると、他動詞と自動詞の違いだとか、そういう小難しい話になるのだろうけれど、自分はそういう難しい理屈はわからない。ただ、読んだ瞬間にものすごく気持ち悪い文章だなと感じるだけだ。こういう文章を読んで何も感じない人は、言葉に関するセンスが決定的に欠けている。

なんだか話が逸れてしまったが、読書量と文章力とはあまり関係ないということだ。たくさん本を読んでいても「てにをは」すら怪しい文章を書く人はいるし、本なんてほとんど読まないのにしっかりとした文章を書く人もいる。結局のところ、言葉に対するセンスがあるかどうかで、文章の巧拙が決まると言ってもいいと思う。

そうは言っても、一般的な傾向として、まったく本を読まない人よりは、たくさん本を読む人の方がまともな文章を書くのは間違いない。ただ、文章を書く力を伸ばしたかったら、たくさん本を読むよりも、たくさん文章を書いた方が手っ取り早い。英語を話したければ、リスニングの勉強をするよりもスピーキングの勉強をした方がいいのと同じことだ。

ただ、いくら文章を書いてもさっぱり上手くならないという人も中にはいる。こういう人は、残念ながら文章を書くセンスが欠けているのだろう。芸術的なセンスや数学的なセンスと同じで、文章にもやっぱりセンスというものが存在する。そしてそのセンスは、どれだけたくさんの本を読んだとしても、決して磨くことができないものだと思う。



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