13/03/03

原書を読むことの意味

突然だが、「ペスカトーレ」と「カレーペースト」はよく似ているということに最近気付いた。街を散歩していて「ペスカトーレ」という文字を目にすると、かなりの確率で「カレーペースト」と頭の中で誤変換されてしまう。「ペスカトーレ」をアナグラムすると「カレーペスト」になり、わずかに横棒一本だけ足りないのがなんとも惜しい。

パスタ関連で強引に話を展開すると、「カルボナーラ」なのか「カルボラーナ」なのか、いまだに迷うことがよくある。あれ、どっちだったっけ、と思ったときには、ためしに「カルボラーナ」でググってみると、グーグル先生が「もしかして: カルボナーラ」と親切に教えてくれる。しかし、「カルボラーナ」という誤記のままネット上で情報発信している人も多い。いっそのこと、「カルボラーナ」も正式名称として認めたらどうだろう。

さて、今回は原書を読むことの意味について書いてみたい。自分はそれなりに本を読む人間で、一年間に70〜80冊くらいは読むだろうか。そのうち、洋書は20〜30冊といったところだ。以前はもっと読んでいたのだが、最近は視力が落ちてきたせいもあって、以前よりも読書量が減っている。いずれにしろ、これくらいの読書量では自慢にもならない。

本を読むのは子供の頃から好きだった。熱を出して学校を休んでいるときなど、少し体調がよくなってくると寝てばかりいては退屈だから、布団の中で本を読んでいた。親戚からもらって何度も読み返した名作集などを読むのだが、何度も読んでいて飽きているはずなのに、結局何度も繰り返し読んでいた。きっと、その頃から活字好きになったのだろう。

中学生になると、3つ年上の兄貴の本棚から文庫本を借りて読むようになった。島崎藤村の「破戒」や、三島由紀夫の「仮面の告白」や、小林多喜二の「蟹工船」など、いわゆる名作と呼ばれるものは、すべて兄貴の本棚から借りて読んだ。中学生や高校生くらいの年齢では、まだ難しくてよく理解できない作品も多かったが、それでも精一杯背伸びをして読んでいた。

兄貴の本棚には、こうした日本の名作だけでなく、海外の翻訳作品もいくつかあった。せっかくだからと、こうした作品も読もうとしたのだが、あの翻訳調の文章にどうしてもなじめなくて、三分の一も読まないうちに挫折した。ほかにも何冊か翻訳本に挑戦したのだが、結局どれも読み切ることができず、このときの体験が原因で、それ以降は決定的に翻訳本が嫌いになった。

まあ、これは当時の翻訳の質が低かったということにも原因があるのだろう。正直に言って、読めたもんじゃなかった。なにしろ、まだ文章の良し悪しすらよくわかっていない中学生が、「この文章はひどいなあ」と感じて放り出すくらいだから、そのレベルは推して知るべしだ。しかし、最近では翻訳の質はかなり上がってきていると感じる。

自分が読んだ中で素晴らしいと思ったのは、サイモン・シンが書いた「暗号解読」、「フェルマーの最終定理」、「ビッグバン宇宙論」という3冊の科学ノンフィクションだ(それぞれの作品の感想については、こちらこちらを参照)。これらの作品は、すべて青木薫という人が翻訳しているのだが、この翻訳が素晴らしい。まったく翻訳臭を感じさせることなく、ストレスフリーで読むことができる。

だから、最近では翻訳本に対する苦手意識も薄れてきて、文章さえまともなら少しくらいは読んでみようかなと考えるようになってきた。そんな感じで最近読んだのが、「脱出記」というノンフィクションだ。最近といっても、読んでから3〜4年くらいは経っているだろうか。この歳になると、記憶があいまいになってきて、正確な時期を思い出すのが難しい。そんなことはともかく、あらすじを以下に記しておこう。

ポーランド人のスラヴォミールは、1940年に無実の罪でソビエト軍に逮捕されてしまう。刑務所での過酷な取り調べと、理不尽な裁判により、懲役20年の判決を受けたスラヴォミールは、他の受刑者たちとともにシベリアの収容所に送られる。過酷な環境で懲役生活を送るスラヴォミールは、収容所の責任者であるソビエト将校からラジオの修理を依頼されたことがきっかけで、将校の夫人と知り合う。幾度か夫人と会話を重ねていくうちに、収容所から脱走してはどうかと夫人が切り出す。スラヴォミールは、6人の仲間を集め、夫人の協力を得て、真冬のシベリアへと脱出する。脱走の途中で、集団農場から逃げ出した少女に出会った一行は、総勢8名となり、はるか南のインドを目指して過酷なロングウォークを続ける。

自分は、こうした脱走やサバイバルといった分野のノンフィクションが大好物で、これさえあればドンブリ飯3杯は軽くいけるというくらい好きだ。しかし、この本は面白くなかった。いや、そこそこは面白くて、途中で放り出すこともなく最後まで読んだのだけれど、内容に入り込んで夢中になるということはなかった。それというのも、翻訳がヘタクソだったからだ。

それで、この本のことはすぐに忘れてしまったのだが、この前図書館で借りてきた「The Long Walk」というペーパーバックを何ページか読むうちに、これは以前に読んだ「脱出記」の原書だということに気付いた。一度読んでしまった本だけれど、せっかくだから原書でも読んでみようと思って読み進めたところ、激しく面白かった。

特に、一行のアイドル的な存在だった少女が、ゴビ砂漠で力尽きる場面は、涙なしには読めない。この場面は電車の中で読んでいたので、泣いているのを周りに気付かれないようにするのに苦労した。まったく、今年は花粉が飛び始めるのが早いなあ、みたいなフリをして、目を指でこすったりしてごまかした。いや、自分は花粉症ではないんだけどね。

同じ場面でも、翻訳本ではなんとも思わなかったのに、原書を読むことによって感動を新たにしたということだ。これだけ見ても、いかに文章の巧拙が読み手に与える印象を大きく左右するかということがわかる。日本語のネイティブが日本語で読んでもまったく感動しなかった場面を、英語で読んでみて初めて感動するというのだから、なんとも面白い。

原書を読むことの意味は、まさにここにあると思う。結局のところ、どんなに素晴らしい内容であっても、ヘタクソな翻訳では、読み手には伝わらないということだ。だったら、そんなヘタクソな翻訳に頼るのではなく、自分で原書を読んだ方が早いし確実だ。今回のような経験をすると、英語を勉強しておいてよかったとつくづく思う。



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