13/02/11

アルジャーノンに花束を

とある帰り道で、若いカップルの会話が聞こえてきた。年の頃なら20代前半といったところだろうか、ルックス的にはごく普通の若者だが、仲のよさそうな二人だ。会話の流れはわからないが、男子が女子に向って笑いながら、「本当にお前は鬼畜米兵だよな」と言うと、女子も、「そうだよ、あたしは鬼畜米兵だよ」と笑顔で答えていた。

うーん、惜しい。近いところまで来ているのだが、「鬼畜米兵」ではなく、正しくは「鬼畜米英」だ。しかし、鬼畜米兵でもまったくの間違いというわけではない。むしろ、この若さでこうした言葉をうろ覚えながらも知っているということに拍手を送りたい。でも、きっとこの二人の間で「鬼畜米兵」というのはかなりイケてる言葉として使われているのだろう。そう思うと、やっぱりちょっとだけ笑える。

さて、例によってそんな前フリとはまったく関係なく、今回は「アルジャーノンに花束を」について書いてみたい。ものすごく唐突な感じがするかもしれないが、自分もアルジャーノンについて書こうなんて、まったく考えていなかった。今回は別のネタを用意していたのだが、昨日思いがけずアルジャーノンの映画を観たのだ。

丸ちゃん号でポタリングをしていたときに、たまたま図書館を見つけたので入ってみた。自分は図書館とか郷土資料館などの施設が大好きで、散歩やポタリングの途中でこうした施設を見つけると、つい立ち寄ってしまう。昨日もそんな感じで図書館に入ったのだが、その図書館はかなり大きくて、2階に視聴覚室があり、その日はたまたま月に1回の映画上映会の日だった。

自分はあまり映画好きではないのだけれど、特に嫌いというわけでもない。それに、アルジャーノンなら以前にペーパーバックで読んだこともあるし、それなりに面白かったから、改めて映画を観るのも悪くないと考えた。まあ、ペーパーバックで読んだとは言っても、もう20年近く前のことだから、細かいストーリーについては覚えていない。

この小説についてまったく知らない人もいるだろうから、思い切り乱暴にあらすじを紹介すると、知能障害を持つ青年が脳の手術を受け、短期間のうちにIQが60から190まで上がってものすごい天才になるのだが、その手術には一時的な効果しかなく、せっかく獲得した知能をまた失ってしまう、といった感じのお話しだ。

昨日観たのはフランスで製作された映画で、主人公の名前も原作では「チャーリー」だが、映画の中では「シャルル」になっていたり、主人公が受けたのは脳手術ではなく、注射による新薬の投与だったりと、細部についてはかなり違うのだが、おおまかなストーリーについてはほぼ同じだった。というか、原作のストーリーについては、たったいまググって調べたんだけどね。

映画の感想については、ラストの展開があまりにも唐突で、せっかくのストーリーが台無しだった。知能が失われていく過程をもっとゆっくり見たかったのに、IQ190の状態からいきなりIQ60になってしまっては興ざめだ。号泣する準備はできていたのに、あれ? もうそうなっちゃうの? みたいな感じで肩透かしをくらってしまった。

しかし、せっかく時間をかけて映画を観たんだから、自分なりに考えてみようと思い、丸ちゃん号のペダルを回しながらあれこれと考えてみた。まず、知能が高いということは人間にとって重要かどうかという点だ。これは改めて考えるまでもない。人間を人間たらしめているのは、その知能だ。人間である以上、知能が高いというのはそれだけで価値のあることなのだ。

だから、知能が高い方がいいに決まっている。自分だって、頭がよくなる薬があるんだったら試してみたい。一度でいいから天才と呼ばれてみたい。しかし、この映画でも表現されているように、過ぎたるは及ばざるがごとしで、あまりに突き抜けてしまうのもどうかと思う。周りの人間がすべてバカに見えるというのも、実はかなり辛い状況だと思う。

結局のところ、周囲の人よりも多少頭がいいというくらいが、一番いいような気がする。つまり、自分が属する集団の中では、自分が知的レベルにおいて上位にいるという状態だ。これならば、自分の自尊心を大いに満たしながら、周りの人間がすべてバカに見えるという悲しい状況に陥ることもない。なにしろ、その集団の外には、自分よりも頭のいい人間がいっぱいいるわけだから。

社会というのはうまくできていて、知的レベルの同じ人間が集まるような仕組みになっている。小学校や中学校はともかく、高校あたりから知的レベルによる選別が始まり、大学では完全に知的レベルでランク分けされ、そのまま社会へと出ていく。条件のいい仕事に就いた人間は、そのまま上流階級へと進み、選別に漏れた人間は条件の悪い仕事に甘んじることになる。

こうしてうまい具合にランク分けされ、人間はそれぞれの集団の中でトップを目指していくわけだ。おおまかにはこういう仕組みになっていて、多くの場合はこれでうまく機能しているのだが、中には例外もある。たとえば、ものすごく頭がいいのに、なぜか条件の悪い仕事に就いている人や、その逆に、勉強はできないのになぜか事業のセンスだけはあって、金銭的に成功している人などだ。

自分が学生時代に肉体労働のバイトをしていたときも、司法試験の合格を目指してフリーターをしている人がいたが、職場では思い切り浮いていた。それもそのはずで、その職場には刑務所帰りの人もいたりして、知的レベルとしてはかなり低い職場だった。司法試験にチャレンジするくらいの優秀な頭脳を持った人間が、そんな環境になじめるはずがない。

その逆に、不動産や株などで大儲けをした成金というのも、かなり異質な存在だ。テレビを見ていると、こういう人たちがセレブ扱いで出演していることがときどきあるけれど、なんとも言えない下品さを感じる。そもそも、本当のセレブであれば、低俗なテレビ番組に出て自らの生活を自慢するなんていう下品なことはしないだろう。

ということで、人間というのは、自分の知的レベルに合った集団に属し、その集団に合った社会的な生活を送るのが一番幸せだということになる。突き抜けた知能というのは、人間の幸せという観点から見た場合、不要なだけでなく、妨げになるとさえ思う。アルジャーノンを観た感想としては、結局のところ、中の上くらいが一番いいんじゃないだろうかということだ。



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