12/10/14

ノーベル文学賞なんて必要ない

山中教授がノーベル医学賞を受賞した。おめでとうございます。日本人として誇らしい限りだ。研究資金の問題などで、優秀な研究者は海外に出てしまう傾向があるらしいが、日本にとどまって困難な研究を続ける山中教授は素晴らしい。それにしても、山中さんはものすごく頭のよさそうな顔をしている。日本人が思い浮かべる「頭のよさそうな顔」を集約すると、山中さんみたいな顔になるのではないか。

一方、ノーベル文学賞の最右翼と目されていた村上春樹は、残念ながら今年も受賞を逃した。まあ、彼の場合は、今年受賞を逃したところで、近い将来に受賞することは間違いないだろうから、大したことはない。そもそも、ノーベル文学賞自体が大したことのない賞だから、受賞しようが受賞しまいが、大差ない。

この覚書でも何回か書いているが、自分は文学に大した価値はないと思っている。「文学」などと、「学」という文字を付けることさえおこがましいと思っているくらいだ。文明の発展という観点から見た場合、すべては医学や物理学や化学といった理系学問のおかげで、文学など、これっぽっちも文明の発展には寄与していない。

理系学問の研究者が世の中からすべていなくなってしまったら、きっとどうしようもないことになってしまうだろうが、小説家が世の中からすべていなくなっても、大した影響はないと思う。自分はそれなりに活字を読む人間だけれど、電車での暇つぶしに困るくらいだ。本の代わりにスマホでも買えばいいかと思うくらいの重要度でしかない。

だから、ノーベル賞に文学賞なんて必要ないと思う。だいたい、ノーベル賞作家の書いた小説なんて、小難しいだけで少しも面白くない。わざと難しく書いているのかと思うくらいにわけのわからない作品が多い。世の中、そんなに頭のいい人ばかりではなくて、自分のように感じる人が大半だと思うのだが、そういう普通の人たちには理解できない作品こそが、素晴らしい作品だと評価されるらしい。

これまでに自分が読んだことのあるノーベル賞作家を年代順に挙げると、パール・バック、ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョン・スタインベック、川端康成、トニ・モリソン、大江健三郎、ということになる。これまでに90人以上が受賞しているのに、その1割にも満たない人数しか読んでいないわけだ。改めて数えてみると、なんともしょぼい数字だ。

これは、自分が翻訳本が嫌いだからという理由が大きい。以前からあの翻訳調の文体が嫌いで、積極的に読もうとはしなかった。英語の勉強をしたおかげで、ようやく原書を読めるようになったから何冊か読んだだけのことで、英語が読めるようになっていなければ、自分が読んだことのあるノーベル賞作家は川端康成と大江健三郎だけという、さらに悲惨なことになっていただろう。

この中で一番読みやすいのが、パール・バックだ。文章もそれほど難しくないし、ちゃんとしたストーリーもあるから、普通に読むことができる。日本ではあまり有名な作家ではないけれど、図書館に行けば何冊かは著作があるから、ノーベル賞作家の作品を読んで感想文を書くという課題が出されたら、まずはバックの作品を読むことをお勧めする。そんな課題が出されるとは思わないけど。

スタインベックも、そこそこ読みやすい。社会派の作家というイメージが強く、作品のテーマもアメリカの下層労働者を扱ったものが多いので、そうしたテーマに興味がある人なら引き込まれるだろう。自分も、「怒りの葡萄」と「ハツカネズミと人間」は面白いと思った。ノーベル賞作家ということを抜きにしても、お勧めできる作家だ。

残りの作家については、難しくてよくわからないというのが正直なところだ。特に、フォークナーの「Absalom, Absalom!」なんて、あまりの難しさに何かの罰ゲームかと思ったくらいだ。これまでに読んだ洋書の中で、ダントツの難しさだった。これを日本語に翻訳した人はさぞ大変だったことだろう。心の底から尊敬する。

トニ・モリソンも、最初に読んだ「The Bluest Eye」こそ面白かったが、その勢いで読んだ他の2冊はクソみたいにつまらなくて、怒りすら覚えた。ちゃんと面白い作品だって書けるのに、なぜこんなに難解でつまらない作品を書くのか、その意図が理解できなかった。「こんなにも高尚な小説を書ける自分」というものを自慢したいのだろうか。

川端康成と大江健三郎も同じような印象だ。いくつか面白い作品もあるが、何が言いたいのかさっぱりわからないと感じるような作品の方が多いので、結局は、「小難しい小説を書く作家」という印象になってしまう。話のネタに、川端康成と大江健三郎くらいは読んでおかなきゃ、と思って読むのだが、頭の悪い自分には理解できなかった。

最近読んだペーパーバックに「How I Became a Famous Novelist」という作品があって、これは、ある青年がベストセラー作家を目指して小説を書くというコメディなのだが、その中で、フォークナーやヘミングウェイといった有名な作家をさんざんこき下ろす場面があり、自分としては非常に共感できて面白かった。

この作品の中で、「読者が小説に求めているのは高尚な文章ではなく、面白いストーリーだ」という主人公の主張が出てくるのだが、まったくもってそのとおりだと思う。自分が好きなサマセット・モームも、「小説とは、わかりやすい文章で面白くなければならない」という考えを持っていた。作家としては当たり前の考え方だと思うが、堂々と主張できるところが素晴らしい。

結論としては、ごく一部の頭のいい人にしか理解できないような高尚な小説なんて、小説としてはほとんど価値がないということだ。誰にも伝わらない、作家の自己満足だけで書いたような作品を、ノーベル賞を受賞したからという理由だけで、ありがたがって読む必要なんてない。いっそのこと、ノーベル文学賞なんてなくしたらどうだろう。受賞して喜ぶのは、作家と出版業界だけなんだから。




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