12/09/15

文鮮明の死去について思うこと

少し古いニュースになってしまうが、文鮮明が死んだらしい。文鮮明といっても、最近では統一教会が話題になることはほとんどなかったから、いまの若い人は知らないかもしれない。しかし、40歳代から上の世代にとっては、良くも悪くもかなりの有名人であることは間違いない。桜田淳子や山崎浩子が連日ワイドショーを賑わせていた頃が統一教会のピークだったと思う。

自分はとにかくインチキくさいことが大好きで、インチキくさいオカルトやインチキくさい新興宗教の話題さえあれば、ドンブリ飯3杯は軽くいけるくらいのインチキフリークだ。どうして人間という生き物は、かくもインチキくさいことに簡単にだまされてしまうのかということに非常に興味がある。だれがどう考えても怪しいのに、それでもだまされてしまう人が後を絶たないのはなぜなのか、そのあたりに興味がある。

これは何もオカルトや宗教に限ったことではなくて、たとえばアムウェイやニュースキンといったネズミ講まがいのインチキビジネスについても同じような匂いを感じる。普通に考えればどう頑張っても儲かりそうにないことくらいはわかるはずなのに、それでもこうしたインチキビジネスにはまる人が後を絶たないのはなぜか。

なんだか話が逸れてしまった。ネズミ講まがいのインチキビジネスについてはいろいろと思うところがあるので、別の機会に詳しく書くことにして、今回は統一教会に絞って書いてみたい。改めて考えてみると、自分がこんな感じでインチキくさいことに興味を持つようになったきっかけは、実は統一教会が原因かもしれない。

統一教会の存在をはじめて知ったのは、高校生の頃だった。大学受験から帰ってきた兄貴が、たまたまキャンパスで配られていたビラをもらってきたのだが、そこには「原理研」とか「勝共連合」といった文字が躍っていた。なんだかよくわからないまま読んでみると、「原理研」とか「勝共連合」と呼ばれる団体がいろいろと問題を起こしているから注意しろという内容だった。

そのときは、やっぱり佐渡みたいな田舎とは違って、都会の大学ではいろいろと怖いこともあるんだなあと思っただけで、「原理研」や「勝共連合」が統一教会の別団体だということまでは知らなかった。しかし、自分が大学を受験したときにも、やっぱり同じように「原理研」や「勝共連合」と書かれたビラが配られていて、その存在に改めて注目するようになった。

「原理研」イコール「統一教会」と認識できたのは、飯星景子やら桜田淳子やら山崎浩子やらが連日ワイドショーを賑わせていた1992年の頃だ。当時は、テレビを点ければこの話題でもちきりだったから、自分も自然とこの話題を追いかけるようになった。絶対に娘を脱会させると宣言して、その言葉のとおりに脱会させた飯干晃一を見て、「やっぱり『仁義なき戦い』を書いただけのことはあるなあ」と感心したものだ。

「洗脳」や「マインドコントロール」という言葉が世間一般に浸透したのも、この頃だと思う。テレビ画面に映し出される(脱会前の)飯星景子や山崎浩子の表情は、なんだか冷たくて険しくて、だけど無表情で、ああ、これがマインドコントロールされた人間の表情なのかと、勝手に納得していた。自分は絶対にこんな冷たい表情を持った人間にはなりたくないと思った。

当時は、自分の周りにも統一教会にはまってしまった人間が何人かいた。小学生のときに一緒に遊んだ女の子が、あの「合同結婚式」で韓国に嫁いでしまったということを知人から聞いたのは、自分が社会人になって数年後のことだと思う。つまりは、飯星景子やら、桜田淳子やら、山崎浩子やらが連日ワイドショーを賑わせていた1992年あたりのことだ。

また、大学に入学して、最初の頃は楽しく遊んでいたのに、いつの間にか連絡が取れなくなったヤツもいた。ようやく連絡がきたと思って喜んで会いにいったら、いきなり「手相を見せろ」と言われ、なんだかよくわからない話をいろいろと聞かされた後で、「とにかく、これを読んでみろよ」と言われて、分厚いハードカバーの本を渡されたこともあった。

そのときに渡されたのは「原理講論」という本で、統一教会のバイブル的なものらしかった。最初の3ページくらいは真面目に読もうとしたのだが、あまりの難解さに(というか、あまりの文章の下手さに)、あっさりとギブアップした。こんなにくだらない本をありがたがって読むなんて、アイツはもうすっかり向こう側の人間になってしまったんだなと、淋しく思ったことを覚えている。

こうしたこともあって、「どうして人は宗教にハマるのだろう」と考えるようになった。自分が無宗教な人間だから、余計に気になってしまう。

それ以来、いろいろと考えているのだけれど、いまだに明確な答えは見つかっていない。ただ、「ちょっとした現実逃避みたいなもの」かもしれないとは思う。現実の社会ではいろんな辛いことがあって、できればそこから逃げ出したいけれど、いきなり会社を辞めてひきこもるわけにはいかない。そもそも、そんなことは自分のプライドが許さない。

でも、宗教ならどうだろう。別に現実から逃避するわけじゃない。むしろ、現実の世界よりもっと崇高な何かを探し求めるわけだから、決して恥ずかしくはない。いや、恥ずかしいどころか、むしろ積極的にこの精神世界を追及すべきなのではないか。そう、こんな煩悩だらけの俗世にはもううんざりだ。

かなり乱暴かもしれないが、宗教にハマる人の思考回路は案外こんな感じではないかと思う。というか、自分もこんな感じで物事を考えるところがないこともない。いや、たぶんあると思う。あるんじゃないかな。ま、ちょっとはあると思う。

ただ、こうして自覚できている間は大丈夫だと思う。宗教を気晴らしの手段として利用している間は、特に問題はない。「今日は仕事で嫌なことがあったから、少しだけ宗教しちゃおっと♪」くらいなノリだったらいいと思う。こんな感じの宗教なら、自分も積極的に利用したい。仕事に疲れて帰ってきて、冷えたビールをグイっと飲むようなものだ。

しかし、信仰が生活の大部分を占めるようになると危ない。最初はちょっとした気晴らしの手段だったのに、いつの間にかそれが生活の中心になってしまい、信仰の世界こそが理想で、現実の世界は虚構にすぎない、なんてことを考え始めたらもう赤信号だ。この状態は、「冷えたビールをグイっと飲む」だけでは済まなくて、「常にアルコールに浸っていないと落ち着かない」というアル中状態になっている。

いつもの悪い癖で、なんだか話がまとまらなくなってきた。このテーマについては、いろいろと書きたいことがあるので、また改めて書いてみたい。とりあえず、今回はこんなところで失礼します。




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