12/06/16

死刑制度について改めて考えてみる

ついに高橋克也くんがタイーホされたらしい。自分が勤務している会社がたまたま蒲田にあって、高橋くんがタイーホされた場所がたまたま目と鼻の先だったので、その日の蒲田は、テレビ局のスタッフや警察官や野次馬やらが大集合で、なんだか大賑わいだった。いつもお昼に食べている立ち食いソバ屋や牛丼屋がある場所だったので、ちょっとだけビクーリだ。

ビクーリといえば、大阪で発生した通り魔事件にも驚いた。なにしろ犯行の動機が、「自殺しようとしたけど死にきれなかったので、人を殺せば死刑になると思った」という理由だから怖すぎる。大阪府知事も言っていたが、死にたいなら一人で死んでくれと思う。自殺する勇気がないのに、他人を殺す勇気があるというのも、よく理解できない。

この事件をニュースで見たときに、真っ先に思い浮かんだのが、あの宅間守だ。本当の動機はいまだによくわからないけれど、「死刑になりたいから殺した」みたいなことを宅間は言っていた。裁判所もその言葉を真に受けたわけでもないだろうが、異例の早さで宅間守は死刑になった。今回の通り魔も、こうした展開を期待しての犯行なのだろうか。

だとしたら、死刑制度の根幹が揺らいでしまうことにもなりかねない。なにしろ、死刑制度の大義名分は「凶悪犯罪の抑止力」なわけだから、今回のように死刑を望んで凶悪犯罪を犯す人が出てきたら、それは死刑制度の矛盾につながってしまう。自殺の手段として死刑制度を利用する人間がこの先も出てこないとは限らない。

しかし、自分としてはやっぱり死刑制度は必要だと思う。凶悪犯罪の抑止力としては疑問符が付くけれど、人の命を奪った罪は自分の命で償うというのは、それほど無茶な理屈でもないと思う。もちろん、一生罪を背負いながら償うという方法もあるけれど、人を殺しておきながら自分はのうのうと生きていくというのも、被害者の遺族としては辛いのではないだろうか。

それに、どうにも救いようのない、生まれながらの犯罪者というべき人間も存在する。自分は死刑制度や凶悪犯罪に関するノンフィクションが大好物で、以前からそうした本をいろいろと読んでいるのだが、実際の受刑者が書いた本を読むと、自分の犯した罪を心の底から悔いて反省している受刑者なんてほとんどいないらしい。

逆に、被害者のことを口汚くののしったり、被害者のせいで自分が服役するはめになったとか、そんな自分こそ被害者だとか、そういうことを悪びれもせず真顔で言うヤツばかりらしい。こういう人たちには、そもそも反省する能力が決定的に欠けているのだろう。こんな人間に更生を期待するのは無理な話で、だったら国家権力によって死刑にするという選択肢は残しておくべきだろう。

被害者の遺族の感情を考えた場合も、やっぱり死刑制度は必要だと思う。自分の大事な家族を奪った犯人に対して、死刑にしてほしいと願うのは当然のことで、だれもそれを責めることはできない。以前は死刑制度に反対していた人権派の弁護士が、自分の妻を殺害されたことがきっかけで死刑制度支持派に転向した例があるが、人間の感情なんてそんなものだと思う。

しかし、死刑制度にも当然ながら問題点はあって、それは絶対に判決を間違ってはいけないということだ。処刑の後で真犯人が出てきた、ということだけは絶対に避けなければならない。幸いにも、日本では処刑後に冤罪が証明されたケースはないが、帝銀事件や袴田事件や毒ぶどう酒事件など、冤罪が疑われている死刑確定事件はいくつかある。

しかし、どれだけ冤罪が疑われていても、こうした事件が再審になる可能性はほとんどない。再審を認めるということは、それまで裁判に関わってきた裁判官たちが間違っていたことを認めることになるからだ。暴力的な取り調べで自白を強要し、適当な証拠をでっちあげて冤罪を作る警察や検察にも頭にくるけれど、だれがどう見ても冤罪なのに、自らのメンツにこだわって再審を認めない裁判所にも腹が立つ。

また、死刑確定後の減刑制度がないという点も問題だと思う。死刑判決を受けるくらいに重大な罪を犯した人間だから、そのほとんどはどうしようない悪人だとは思うが、それでも中には自分の犯した罪を反省して立派に更生する人間がいないとも限らない。たとえば、バーメッカ事件の正田昭などは立派に更生して、それは見事な最期だったという。

過去には、恩赦によって何人かの死刑囚が無期懲役に減刑された例はあるけれど、恩赦なんてめったにあるものではない。そうしたあやふやな制度ではなくて、死刑判決を受けた人間であっても、更生したことが認められれば減刑もありうるという、そんな希望を与える制度が必要なのではないかと思う。

自分たち一般人が死刑囚に望むことというのは、裁判ですべてを明らかにし、遺族に対して心から謝罪し、自分の犯した罪を深く反省し、心静かに処刑台に立つ、ということだと思うが、これってあまりにも残酷なことではないだろうか。そこまで反省した人間を、結局は処刑するしかないなんて、あまりにも救いのない制度ではないだろうか。

自分が以前に読んだペーパーバックで、ジョージ・オーウェルの「Nineteen Eighty-Four」という作品があるが、これを読んだときには、その内容に怖くなった覚えがある。この作品では、徹底した管理社会に反発する若い男女が反政府組織のメンバーとして活動するのだが、それが政府にバレて死刑判決を受けてしまう。

しかし、すぐに処刑されるのではなく、政府の正当性と管理社会の正しさを徹底的に教育され、その正しさを心の底から理解できたときに、ようやく処刑されるという内容だった。どうだろう、ものすごく残酷でものすごく怖い話だと感じないだろうか。自分たちが死刑囚に望んでいることも、これと同じくらいに残酷なことなんじゃないだろうか。

だから、せめて何か死刑囚の希望になるような減刑制度があればいいのにと思うのも、それほどおかしな考え方ではないと思う。いずれにしても、現在の死刑制度は、冤罪事件における再審へのあまりにも遠い道のりと、死刑確定後の減刑制度が存在しないところが問題だと思う。まあ、死刑確定後の減刑は実際には難しいだろうが、あまりにも高すぎる再審の壁だけはなんとかしてもらいたい。

自分の考えがイマイチまとまっていないので、なんだか要領を得ない文章になってしまったが、いろいろな問題があるにせよ、死刑制度は必要ではないかと思う。今回のように、自殺の手段として死刑制度を利用されてはたまらないが、そういうとんでもない人間にふさわしい刑罰はやっぱり死刑しかないというパラドックスに陥っていくわけだ。




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