12/05/06

幻のヘッドハンティング

さて、前回の覚書ではソウルオリンピックにまつわる思い出を書いたので、今回はバルセロナオリンピックから思い出を辿っていきたい。このときの自分は25歳で、新卒で入社した会社で4回目の夏を迎えていたことになる。入社4年目というのは、会社の仕事も一通り覚え、かわいい後輩もできたりして、ちょっと偉そうにふるまってみたくなるお年頃だ。

自分も、きっとそんな感じだったと思う。実際には大した仕事もしていないくせに、一人前に仕事をしているような気になっていた。開発しているシステムの納期直前には、会社に泊まり込んで仕事したりして、「忙しく働く自分」に酔っていたりした。いまから思うと、穴があったら入りたい気分だ。自分に酔うヒマがあったら、もっと効率的に仕事しろって。

ただ、入社4〜5年目というのはかなり微妙なお年頃で、一通り仕事を覚えて充実した会社生活を送る一方で、いまの仕事は本当に自分に合っているんだろうか、みたいな悩みも抱え始めたりする。当時の自分もまさにそんな感じで、会社から一人前の扱いを受けて喜んでいる一方で、システムエンジニアという職業は自分には合っていないのではないかと思い悩むことも増えてきていた。

そんなある日のこと、会社に一本の電話がかかってきた。真剣な表情でキーボードを叩きながら、実は頭の中では仕事以外のことを考えている自分に、隣の席に座る後輩の女子が、「名前は名乗らないんですけど、女性から永橋さん宛ての電話です」と言って受話器を差し出す。「女性から」という言葉に過敏に反応しながら、なぜか小声で「もしもし」と応えてみる。

その後の、電話口から聞こえてきた声は、いまでも忘れない。だって、いきなり、「これは、ヘッドハンティングの電話です」と言ったのだから。

もちろん、ヘッドハンティングという言葉自体は知っているから、それが何を意味するのかは理解できるのだが、その当事者が自分であるということがどうにもピンとこない。とにかく、電話でこんな話をするのもアレなので、どこかで会って話をしましょうということになった。相手は会社の近くまで来ているということだったので、その日のお昼に喫茶店で会うことになった。

受話器を置いてからも、なぜ自分がヘッドハンティングなんてされるのだろうと、そればかりを考えていた。いくらお気楽な自分でも、自分が他社からの引き抜きにあうほど優秀な人間だとは思っていない。それどころか、最近ではシステムエンジニアを続けていくということ自体に疑問を感じ始めていたくらいだ。

そんなことをあれこれ考えながら、指定された駅前のお店に入っていくと、30歳前後の女子が椅子から立ち上がって手を挙げた。なるほど、自分はこの人とは初対面だけれど、相手は少なくともこちらの外見については予習済みだということか。写真か何かを持っているのか、だとしたらそれをどこから入手したのか、疑問は次から次へと湧いてくる。

席について一通りの社交辞令を済ませると、早速相手が今回の経緯について話し始めた。その人は人材関係の会社に勤めていて、とある人からの紹介がきっかけでこういう話になったらしい。「とある人」がその人材会社に永橋という人間を紹介したのか、それとも人材会社のほうから「とある人」に適当な人材がいないかどうかを打診したのか、そのたあたりことはわからないが、とにかくそういうことらしい。

その「とある人」っていったい誰なんですかと訊いてみると、それは守秘義務の関係で教えられませんと言われてしまった。「とある人」は自分の名前を出してもらってもかまわないと言っているらしいのだが、その人材会社の方針として、情報元となる人物については一切教えられないというきまりになっているらしい。

そう言われてしまうと、あとの質問は一切できなくなる。情報元が誰なのかを聞くことができなければ、そこからつながる情報についても一切わからないままということで、なんとも蛇の生殺しのような状態だ。そもそも、その「とある人」なる人物が本当に実在するのかどうかすらわからない。

話の内容としては、外資系の製薬会社でシステムエンジニアを募集していて、そこのリーダー職のポストにどうかという話だった。上司はアメリカ人だったかイギリス人だったか、細かい部分は忘れてしまったが、とにかく英語圏の人間で、普段のコミュニケーションでも英語が必要になるという。

仕事で英語と聞いて少し戸惑ったが、その当時はそれほど英語に対するアレルギーは持っていなかった。高校生の頃はそこそこ英語は得意だったから、仕事で話すくらいはなんとかなるだろうと考えた。無知とは恐ろしいもので、多少なりとも英語を勉強したいまとなっては、英会話が必要になる仕事なんて、全力で拒否するだろう。

そんな感じで話をしている途中で、相手が「永橋さんの名刺をいただけますか」と言ってきた。こちらのことはかなり予習しているみたいなのに、いきなり名刺をくれというのもおかしな気がしたが、とりあえず名刺入れの中から名刺を取り出して渡した。名刺を受取った相手は、その裏をひっくり返したときに「あら」みたいな小さな声を出した。

よく見ると、余白の部分に何やら電話番号が書いてある。しまった、かなり前にどこかの女子と合コンしたときに聞いた電話番号だ。それに気付いた自分はあわてて別の名刺と交換したのだが、相手の女子は何を想像しているのか、口元に含み笑いを残したままだ。おそらく、あなたのその想像は当たっています。ヘッドハンティングの現場にしては、なんだかマヌケな光景だ。

とりあえず考えてみますと答えてその日の話は終わったのだが、自分の中では新しい会社に行くのも悪くはないなという気持ちが芽生えていた。というか、こんな自分でも評価してくれる人がいるというのは嬉しいことだ。その期待に応えたいと考えるのは、ごく自然なことだし、悪いことでもない。

それから一週間ほどして連絡が来たのだが、この話はなかったことにしてくれと言われてしまった。先方と給与の交渉をしたのだが、現在の会社の給与を上回る額を引き出せなかったというのだ。具体的な金額を聞いてみると、たしかにいまの会社の給料よりは少し安い。というか、自分の具体的な給料を相手に話した覚えはないのだが、どうやらそこまで調べ上げているらしい。なんだか少し怖い。

そんなこんなで、このヘッドハンティングの話は幻に終わってしまった。結局のところ、この話は何だったのだろうかと考えてみたのだが、答えは出ない。ひょっとしたら何か新手の詐欺だろうかとも考えたのだが、実際に被害に遭っているわけでもない。自分のことを目障りに思う社内の人間が仕組んだことだろうかとも考えたが、そんな手の込んだことをする人間がいるというのも考えにくい。

ということで、このときのヘッドハンティングについては、いまだに謎のままだ。もしかしたら、実際に会ってみた印象があまりにもしょぼかったために、相手の女子が「こりゃ使えないな」と判断したというのが正解かもしれない。もしそうだとすると、名刺の裏に書かれた電話番号が決定打になったのかもしれないと考えるわけだ。

今週はバルセロナオリンピックの思い出について書くつもりだったのに、いつの間にかとんでない方向に話が逸れてしまった。ということで、バルセロナオリンピック以降の思い出については、また次回ということで。




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