11/03/12

帰宅難民の苦悶

最初は比較的大人しい揺れだったから、ああ、またか、くらいにしか思っていなかったが、次第に横揺れが激しくなり、最後にはこれまでに経験したことのない大きな揺れになった。机の下に避難しながら、ついに関東大震災が襲ってきたのかと思ったくらいだ。これまでの人生において、机の下に避難したのは初めてのことだ。

会社から解散指示が出たのはそれからすぐのことだった。各自注意して帰るようにとの指示だが、電車は地下鉄も含めてすべて止まっているから、帰れと言われても困る。しかし、ただ困っているだけでは何も解決しないから、とりあえず千葉方面に向けて歩き出した。

自分の場合、こうした状況ではその場でじっと固まっているのではなく、とにかく歩き出すことにしている。歩いているうちに状況が好転するかもしれないし、何かいいアイデアが浮かぶかもしれない。状況が変わるのをじっと待っているだけというのは、せっかちな自分にはどうも性に合わない。

しかし、歩き出したのはいいものの、とにかく人が多くてなかなか前に進まない。人波を縫うように歩いても、すぐに信号待ちで人波に飲み込まれてしまう。地震のせいで携帯電話がつながりにくくなっているらしく、道路わきの公衆電話も長蛇の列で、電話一本かけるのも一苦労だ。

そんな感じで人波に飲み込まれながら都内を歩いていたのだが、会社から千葉市内の自宅までは優に40キロ以上ある。おそらくフルマラソンくらいの距離はあるだろう。このペースで歩いていたら、いったい何時に帰れるのだろうと不安になってくる。そもそも、この距離を歩きとおせるのかどうかすらわからない。

そうは言っても、自分は楽観的な人間だから(単に何も考えていないだけという話もあるが)、歩き続ければなんとかなるだろうと軽い気持ちで考えていた。しかし、何本かある大きな川を渡るときは参った。橋の上は風を遮るものが何もないから、強い北風にさらされるとたちまち身体が冷えてくる。

真正面から猛烈な北風を受けながら江戸川の土手を北上したときは、さすがにキツかった。都内からずっと国道14号を歩いてきたのだが、この道は途中で枝分かれしていて、知らないうちに南側を通る14号線のほうを歩いていたのだ。それに気付いて、あわてて江戸川の土手を北上したというわけだ。

そのおかげで、新小岩駅から市川駅までのたった2駅を歩くのに2時間もかかってしまった。いったい何キロ分を無駄に歩いたのだろう。身体が冷え切ったので、温かいラーメンでもすすろうと思ってラーメン屋に入ったのだが、いざ食べようと箸を持ったところ、手がすっかりかじかんでしまってうまく箸が持てない。

両手に手袋をしてコートのポケットに突っ込んで歩いていたのに、それでもかじかんでしまうくらいに強い風だったということだ。熱々のラーメンにコショーを目一杯ふりかけてすするのだが、冷え切った身体はほとんど暖まらない。足も痛いし、そろそろ限界だと感じて、駅の周辺でどこか泊まれるところはないかと探してみた。

しかし、考えることはみんな同じらしく、頼みの綱のネットカフェやサウナやカプセルホテルはどこも満員で、待っていても休めそうな雰囲気ではない。しばらくの間途方に暮れるが、こんなときにじっとしていても何も解決しないので、とにかくまた歩き出した。時間はかなり遅くなっているが、歩道を歩く人たちの列はまだまだ途切れることがない。

しかし、歩き始めの頃よりは人も減ってだいぶ歩きやすくなり、自分と同じペースの人の後ろについて歩くと楽に歩けることを発見した。知らない人たちばかりとはいえ、国民総出のウオーキング大会みたいな感じでなんだか楽しい。特に話をするわけでもないのに、ある種の連帯感みたいなものが生まれてくるから不思議だ。

ただ、いくらかでも楽しかったのは船橋あたりまでで、このあたりを過ぎると人数もかなり少なくなってくる。そうなると、なんだか心細く感じて体力的にもキツくなる。しかし、ここまで歩きとおしてきた人は、まさに「帰宅難民エリート」といってもいいだろう。エリートとしては、こんなところで挫けるわけにはいかない。

幕張あたりまで来ると、足だけでなく腰にまで痛みが登ってきた。軽く咳払いをしただけでも、腰に鋭い痛みが走る。どこかの店に入って腰を下ろし、温かいものでも食べたいと思うのだが、一度座ったら最後、二度と立ち上がれなくなるような気がして、ほとんど気力だけで歩き続けた。

一緒に歩き続ける人も、いつの間にか数えるくらいになって、みんな辛そうに歩いている。信号待ちのたびに屈伸運動をしたり、ふくらはぎや腿をマッサージしている。道路わきにへたり込んでいる人もいて、さすがのエリートたちも青息吐息といった感じだ。そういう自分も、かなりおかしな歩き方になっているのが自分でわかる。

最後には本当に足が上がらなくなった。家まであと少しなのに、本当に足が前に進まない。歩くたびに「うぅ」とか「くぅ」みたいな苦悶の声が漏れる。バカみたいに腕を大きく振ってなんとか足を動かして家にたどり着いたのに、エレベーターが止まっているのを発見したときには泣きそうになった。

結局、15時半に歩き始めて、家にたどり着いたときには夜中の3時半になっていた。実に12時間もかかったことになる。途中で大きく回り道をしたことを考えると、おそらく50キロ近くを歩いたことになると思う。散歩のプロを自称する自分だが、さすがにここまでの長距離を歩いたのは初めてのことだ。

少し眠ってから体重計に乗ってみたところ、体重が1キロ減って、体脂肪率が8.5パーセントになっていた。これまでに一度だけ9.9パーセントになったことはあるが、さすがにこの数字には驚いた。ノロノロ歩いたとはいえ、これだけ歩くとやはり相当なエネルギーを使うものらしい。とりあえず、「帰宅難民ダイエット」と名付けてみたい。

などとふざけたことを書けるのも、今回は深刻な被害に遭わなかったおかげだ。家の中の物は、奇跡的に無傷で済んだ。家に帰ったら、割れた食器やガラスなどが散乱しているかもしれないと思っていたから、これにはホッとした。それだけに、地震の被害の様子をテレビで見ると心が痛む。



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