07/12/23

なにやらUFO議論が熱いようだ。政府の公式見解によると、UFOの存在は確認していないらしい。しかし、UFOとはそもそも未確認飛行物体という意味だから、未確認のものを確認できないというのもおかしな話だ。UFOの定義そのものが間違っているのだろう。

政府の見解としては、「宇宙人が乗っているエイリアン・クラフトとしてのUFOは存在しない」ということだろう。そんなこと当たり前だ。いちいち政府の見解として発表しなくてもよろしい。そんなレベルの低い発表なんてしていたら、他の国から笑われてしまう。第一、UFOを信じている大人なんていまどきいない。

と思っていたら、大真面目に信じている人もいるから驚いた。そんな人が官房長官なのだからさらに驚いた。本当にこの人は、宇宙人がUFOに乗って地球に来ていると思っているのだろうか。ナスカの地上絵うんぬんと言っているから、きっと大真面目に信じているのだろう。いろんな意味で、ちょっと怖い。

まず、地球という存在自体が奇跡に近いくらいの存在だということを認識する必要がある。生命が誕生するためにはさまざまな条件が必要で、それらの条件が同時に満たされる確率を(A)とする。次に、UFOが飛来できるくらいの距離にそうした奇跡の星が地球のほかに存在するという確率を(B)とする。

さらに、UFOを開発できるくらいの文明のレベルに達するまでの時間も必要だ。地球が誕生してから約50億年が経つが、月に降り立ったのはここ数十年のことでしかない。こうした高度な文明が、2つの星でシンクロする確率を(C)とする。

ほかにもさまざまな条件があるだろうが、(A)×(B)×(C)だけでも、UFOが存在する確率は限りなくゼロに近くなることは明らかだ。UFOの存在について公人が発言する場合、「個人的にはいると思う」というレベルの発言ではなく、こうした条件を論理的に説明できるくらいの説得力がほしい。

もちろん、宇宙全体で知的生命体は地球にしか存在しないと断言しているわけではない。宇宙は無限に広いわけだから、地球のような星は必ず存在するし、そこには当然人間のような知的生命体が存在すると思う。しかし、それはまさに別の世界の話だ。地球の周りに宇宙人が存在する確率は、限りなくゼロに近い。



07/12/16

毎朝品川駅で乗り換えるときに、駅構内のトイレを利用している。そのトイレでは、「右が女子トイレ、左が男子トイレ、手前が滝のおトイレです」という自動アナウンスが流れているのだが、この「滝のおトイレ」とは何か、その正体にずっと悩んでいた。

「滝のおトイレ」というのは、車椅子でも入ることができる、あの広々とした個室トイレのことだ。この個室がなぜ「滝のおトイレ」なのか、毎朝そのアナウンスを聞くたびに疑問に思っていた。今までに300回以上はこのアナウンスを聞いているから、300回以上も疑問に思っていたことになる。時間に直すと約1年半だ。

最初は、日本庭園風に個室の中を滝が流れる仕掛けになっているのかと考えた。もちろん、そんなことはありえない。次に考えたのが、便座に座ったときに、カモフラージュとして滝の音が流れる仕組みになっているのではないかということだ。これならありうる。「音姫」などという商品と同じようなものだろう。

トイレごときに「お」なんてつけるなよ、などと思いながら、とりあえずこの説を採用して納得していた。もちろん心の底ではまったく納得していないのだが、「滝のおトイレ」としか聞こえない以上は、何らかの理由をつけて納得するしかない。しかし、地元駅のトイレを利用したときに、このモヤモヤはスッキリと解消された。

地元駅のトイレでも最近になってアナウンスが流れるようになったらしく、「手前が滝のおトイレです」と言っているのだ。思わずその声に振り向くと、「多機能トイレ」と書いてあるではないか。しばしその場に立ち尽くし、そのあと心の中で「ガッテン!(×3)」した。

自分と同じように勘違いしていた人もいるはずだと思い、「滝のおトイレ」でググってみたところ、案の定かなりの件数がヒットした。これほどおバカな間違いをしていたのが自分だけではないことがわかって嬉しい。しかし、1年半もの長きににわたって勘違いしていたのは、どうやら自分だけのようだ。

言い訳ではないが、少なからぬ人が聞き間違っているということは、「多機能トイレ」というネーミングにも問題があると思う。トイレというのは排泄をするためだけの場所だから、それ以外の機能は必要ない。歌って踊れるトイレなんて要らない。あったら困る。



07/12/09

先週の日曜日にミシュラン・デビューを果たした。おだやかに晴れて暖かい日だったので、愛車の流星号にまたがって出かけることにした。流星号はロードバイクなので、タイヤの空気圧はかなり高めにしなければならない。出かける前には必ず空気圧を確認する。

しかしこの日は、少し走ったところで違和感を覚えた。ちょっとした段差を越えるときに、いつもは感じない衝撃が伝わってくるのだ。タイヤの空気圧を指で押して確認したところ、少しだけ指が沈む。出がけに空気を入れたときに、もしかしたら虫ゴムが緩んだままになっていたのかもしれない。

とりあえず、虫ゴムをきつく締め直して走り出した。昼飯を食べて流星号に乗ろうとしたところ、今度は明らかにタイヤの空気が抜けていた。完全にパンクである。このゆるやかな空気の抜け具合から判断すると、釘やガラスの破片などを踏んだのではなく、チューブの劣化によるものだろう。

流星号を買ってから現在まで3,000キロ近く走っているから、そろそろ危ないかなとは思っていたのだ。なにはともあれ、パンクを修理しなければならない。流星号を引いて自転車屋を探すが、これがなかなか見つからない。いや、本当に驚くくらいに見つからない。

10キロ以上も歩いて、結局は自宅近くの自転車屋まで戻ってきてしまった。さすがに少しだけ疲れた。疲れながら見てもらったところ、やはりチューブの疲労によるパンクだったので、ついでだからと前後輪ともにタイヤとチューブを交換してもらった。新品のミシュラン製タイヤは前後輪あわせて10,000円也。

ということで、世の中には2種類の人間が存在する。一方はこのパンクに懲りてサイクリングの際には必ずパンク修理キットを携帯する人間、もう一方はまったく学習せず何度もパンクを繰り返す人間だ。おそらく、いや間違いなく、自分は後者の人間だと思う。

失敗に学んでこそ、人間としての成長があるということはわかっているが、面倒なことってやりたくないんだよね。数多くある自分の欠点の中でもこれが一番の欠点だと自覚しているが、もしかしたら一番のチャームポイントかもしれないと思っている。おそらく死ぬまでこのままだろう。



07/12/02

朝青龍が謝罪したらしい。モンゴルの空気に触れてすっかり改心したのか、横綱審議委員の内館牧子氏によると、「いつものふてぶてしさはなかった」らしい。人間としての品格うんぬんまで問われてしまうのだから、横綱という商売も大変だと思う。

それにしても、「あなたには品格がない」と言い切ってしまうことのできる横綱審議委員はすごいと思う。内館氏の執拗なまでの朝青龍批判を見ていると、この人の品格を逆に疑ってしまう。それって、単なる個人的な好みじゃないの、と言いたくなってしまうのだ。

とにかく、なにがなんでも謝罪させなければ気がすまないという執念深さには恐怖すら覚える。今回の騒動に限らず、亀田一家やエリカ様に対するバッシングなどにも同じようなことを感じる。ちょっとでもはみ出した言動をしようものなら、まるで集団ヒステリーのごとくに集中攻撃が始まるのだ。

テレビ画面に映る言動に対してだけでなく、ブログなどでの不用意な発言に対してもこうした攻撃が起こるから怖い。つい最近も、香川県での殺人事件に関して不適切な発言をしたことが原因で、1年間の芸能活動休止に追い込まれた女子がいた。

たしかにこの女子は頭の悪い発言をしてしまったと思うが、これほど重大なことでなくても、少しでも世論と違うことを書いたりすると、たちまち炎上してしまうブログは数え切れないくらいに存在する。いや、実際に数えたことはないけど、たぶん両手両足では数え切れないくらいはあるんジャマイカ。

以前はこれほどまでに執拗な攻撃はなかった気がする。やはりこれは、インターネットという新しいメディアによるところが大きいのだろう。ネットを見れば現在の世論がどうなっているかがすぐにわかるので、それを見た人がすぐにその意見に乗ってしまい、さらに勢いを増して世論が形成されていくのだろう。

インターネットのおかげで、著名人だけでなく一般人も簡単に自分の意見を言えるようになったが、そのせいで安易に多数派の意見に流される人が多くなっているような気がする。ちょっとでも世論に反する意見を唱えようものなら、攻撃のターゲットになるのは今度は自分かもしれないのだから。



07/11/25

関東の平野部でもようやく木々が色づいてきた。今年の秋はなかなか寒くならなかったので、紅葉もいつもの年に比べて若干遅れ気味な気がする。そろそろ紅葉して一気に落葉してもらわないと、安心してクリスマスを迎えることができない。

都内の紅葉スポットといえば、神宮外苑のイチョウ並木や六義園などが有名だ。六義園のライトアップされた紅葉はイマイチだが、神宮外苑のイチョウ並木は素晴らしいと思う。会社が近くにあった頃は、毎日のように神宮外苑を昼休みに散歩したものだ。

しかし個人的にお勧めなのは、等々力渓谷の紅葉だ。まず、23区内に渓谷があるということ自体が素晴らしい。夏に初めてこの渓谷を訪れたときには、その緑の深さに感動した。今の時期には、その緑の中にもみじの紅が加わって、それは見事な景色になる。どこに紅葉狩りに行こうか迷っているあなたにお勧めしたい。

それにしても、以前は紅葉などほとんど興味がなかった。そもそも、自然というものに興味がなかった。20代の頃は、桜が咲いても、若葉が萌えても、紅葉しても、それが何か? としか思わなかった。しかし、30歳を迎えた頃から、四季のうつろいに敏感になった。

どうやら人間というものは、年齢を重ねるにつれて自然が好きになるものらしい。子供たちが見過ごしてしまう自然の美しさに感動できるのは、大人ならではの特権なのだろう。その証拠に、きれいに色づいたもみじを見上げながら感動のため息をもらしている小学生なんて見たことがない。

美しい自然に感動する心の中には、四季のうつろいを自分自身に重ねている部分があるような気がする。桜には幼い頃の自分への郷愁、若葉には若かった頃の自分への憧憬、紅葉にはこれから訪れる年老いた自分への恐れ、などの思いを重ね合わせて見るからこそ、感動するのではないだろうか。

紅葉が終わればすっかり葉を落とした裸木だけが残るが、それも春が来るまでのことだ。冬来たりなば春遠からじ、月曜来たりなば金曜遠からじ、人間万事塞翁が馬、ということで、とりあえず一句詠んでおくか。「裸木に とまるツバメの 空青し」



07/11/18

守屋氏の証言によると、額賀氏と久間氏を宴席に呼んで接待したらしいが、当の本人たちは「記憶にない」と言っている。また政治家の十八番である「「記憶にない」作戦かよ、と少々うんざりするが、よく考えてみると本当に記憶にないのかもしれない。

「三日前の晩御飯に何を食べましたか?」と訊かれたら、はたして何人が即答できるだろうか。昨日はサンマの開きで、その前はたしかしょうが焼きだったな、その前はなんだったっけ、となる人が多いのではないだろうか。これが一週間前になると、ほとんどの人がお手上げになるだろう。

だから、数年前に呼ばれた宴席のメンバーのことなど覚えていなくても無理はないと思う。怪しい宴席と晩御飯を同じレベルで語るのは無理があるという反論もあるだろうが、政治家にすれば接待を受けることなど日常茶飯事だ。彼らにとって、宴席と晩御飯は大差ない。

そもそも、人間の記憶ほどあてにならないものはない。ちょっとした暗示やミスリードを与えるだけで、見ていないものを見たと思い込むというのは、いろんな実験から証明されている事実だ。たったいま目の前で起きたことですらそうなのだから、時間が経てば経つほど記憶があいまいになっていくのも無理はない。

さらに、額賀氏も久間氏も還暦を過ぎている。これくらいの年齢になればさらに記憶力は低下しているだろう。40歳の自分だって、最近とみに記憶力の低下を実感している。テレビを見ていて、「この芸能人、なんていう名前だっけ」と考えることが本当に増えた。

余談になるが、人の名前がなかなか思い出せなくなった代わりに、人の顔は不思議なくらいに鮮明に思い出すことができるようになった。以前は逆で、名前は反射的に思い浮かぶのに、顔がうまく思い出せなかった。この現象は加齢とリンクしているのだろうか。

ということで、政治家の十八番である「記憶にない」という逃げ台詞は、嘘ばかりでもないということが実感として理解できるようになった。ただし今回の件については、守屋氏の証言が嘘とは思えない。「記憶にない」というのはまるっきりの嘘ではないが、都合のいい時間かせぎといったところだろう。



07/11/11

突然ですが、みなさんはどうやって目玉焼きを食べますか。そう、あのプルプルと震えながら食べられるのを待っている可愛い目玉焼きである。おそらく、これほどシンプルでありながら、これほど奥の深い食べ物は目玉焼きのほかにはないだろう。

まずは、焼き方である。今にも黄身が流れ出しそうなくらいの半熟加減でお願いします、という人もいれば、箸を突き立てても跳ね返されるくらいにカチカチに焼き固めてください、という人もいる。自分としては、皿を揺らしたときに黄身が軽くプルプルと震えるくらいの半熟加減がいい。

次に問題となるのが、調味料である。目玉焼きにはやっぱり醤油でしょ、という人、何言ってるの、目玉焼きはソースに決まってるじゃん、という人、いやいや、目玉焼きにはケチャップがベストマッチです、という人まで、まさに千差万別である。中にはマヨネーズで食べる人もいるらしい。

そして、一番問題となるのが食べ方である。いきなり黄身をチュルッといっちゃいます、という人、黄身を突き崩して白身と混ぜて食べるのがうまいんだよ、という人、白身を黄身につけながら食べるのが普通でしょ、という人など、これまたさまざまである。

こうして考えた場合、いったい目玉焼きの食べ方というのはどれくらいのパターンが存在するのだろうか。焼き方、調味料、食べ方をそれぞれ異なった組み合わせで試してみる場合、毎日飽きずに目玉焼きを食べたとしても、すべてのパターンを試すのは1年かけても難しいのではないだろうか。

ちなみに自分の場合、フライパンを超弱火でじっくりと暖め、そのまま超弱火でミディアムレアになるまでじっくりと焼き、塩コショーを軽く振って醤油を回しかけ、白身の外周から箸で切り分けて食べ、最後に残った半熟の黄身をご飯にかけていただく。今のところ、これが一番美味い食べ方だと信じている。

この目玉焼きネタというのは、5〜6人くらいのグループで討論すると盛り上がる。絶対と言っていいくらい、一人として自分と同じ意見になる人はいない。これからの忘年会シーズン、ちょっと盛り上がりに欠けるなと感じたら、このネタを振ることをお勧めする。



07/11/04

今週もNOVAネタになってしまうが、今回の騒動の一番の犠牲者は外国人講師だろうと思う。なんと言っても、「私の口座には1円しか残っていません」というあの悲痛な叫びに胸を打たれた。ただし、自分はこの人たちに同情する気にはなれない。

黄金の国ジパングの最大手英会話スクールということで、この人たちは何の疑いもなく日本にやって来たのだろう。ニホンにクレば、まねーのシンパイはアリマセーン、ニホンのジョシにもモテモテデース、なんて思っていたのだろう。それが甘い。赤福餅の餡より甘い。

そもそも、NOVAの不評はずっと以前から言われていることだ。希望の時間になかなかレッスンが受けられないといった受講生からの不評とともに、外人講師の待遇が極めて悪いという内部からの不評も、同じようにずっと以前から言われていた。ネットでちょこっと検索すれば、その手の情報はすぐ手に入るはずだ。

にも関わらず、これほど多くの外人講師が職場としてNOVAを選んでいるのは、そもそも日本語を勉強していないからだろう。日本語さえ読めれば、こういう情報はすぐ手に入る。異国の地で仕事をしようというのだから、パソコンに日本語環境を整えて、これから自分が働こうとする職場の情報を収集するのが当然だ。

それすらしないということは、結局は日本をなめているということだろう。ヘタクソな英語を話す日本人生徒に対して、もっともらしく教えるフリをしているだけで金になると考えているからだろう。そうでなければ、日本で仕事をするのに日本語を勉強しようとしない彼らの傲慢さが説明できない。

しかし、ここまで英語ネイティブを増長させた原因は日本人にもある。英語で道を訊かれてオロオロとうろたえているのは、道を尋ねる外人ではなく尋ねられた日本人のほうだ。なんとも情けない。英語が話せなかったら、日本語で堂々と「英語は話せません」と答えればいいだけのことだ。

そういう理由で、今回の件では外人講師に同情する気にはなれないのだ。今回のことを教訓にして、少しは英語ネイティブ特有の傲慢さを改めてもらいたい。とはいえ、こういう人たちは反省なんてしないのだろう。おそらく、英語ネイティブとはそういう人種だ。



07/10/28

NOVAが会社更生法の適用を申請したらしい。ネット上ではずいぶん前からNOVAの不評が上がっていたから、いずれこうなるとは思っていたので特に驚きもしないが、前金で多額の受講料を振り込んでしまった受講生はお気の毒というしかない。

そんな受講生のことを悪く言うつもりはないが、そもそも英会話を人に教えてもらおうという発想が間違っている。というか、勉強というものは人に教えてもらうものではなく、自分自身で学ぶものだ。勉強を人に教えてもらうのは小中学校の義務教育までで充分で、それから先は独学でもいけると個人的には思っている。

自分が高校生のときは、授業など聞いてはいなかった。最初の頃は頑張って聞こうとするのだが、すぐに内容が難しくなってついていけなくなるので、あとは黒板の内容をノートに書き写すだけのマシーンになっていた。現国以外の授業はすべてこの調子だった。

試験の2週間前になって、ようやく教科書とノートを開いて本格的に勉強を始める。まずは自分の苦手な数学の勉強から始めるのだが、ノートの記述をヒントにして教科書の問題を解いていくことで、解法のパターンを覚えこんでいく。試験の3日前までは、ひたすら数学の勉強だけに没頭する。

残りの教科は完全に一夜漬けで、すべて丸暗記で乗り切った。現国だけはまったく準備しなかったが、「ここで作者は何を感じたか、50字以内で述べよ」みたいな問題など、準備できるわけがない。作者が何を感じたかなんて、そんなもん知るか。文章を読むときに大事なのは、自分が何を感じるかだ。

こんな調子だったから、試験が終わると勉強した内容はきれいに忘れてしまって、受験のときには苦労した。受験ばかりは丸暗記で乗り切るわけにはいかないから、今度こそ必死に勉強した(英語と日本史だけ)。このとき、ようやく勉強というものの本質を理解できたような気がする。

つまり、勉強というものは自分でその気になってやらない限り、絶対に身につかないということだ。高校教育まで終えた時点で必要な知識は身についているはずだから、あとはすべて独学でいける。少なくとも、英会話くらいは独学でいけると思う。



07/10/21

休日の楽しみは、やっぱり朝寝坊だ。目覚まし時計を気にせずに寝られる朝は、何物にも代えがたい。寝ぼけ眼をこすりながら時計の針を確認し、天にまします我らが神よ、あと5分でいいから寝かせてください、などとにわかクリスチャンになる必要はないのだ。

平日の朝は、いつも5時55分に目覚まし時計をセットしている。なぜこの時間なのかと言えば、「Go, Go, Go!」みたいな感じでちょっとだけ前向きかなと思うからだ。生活態度全般において若干後ろ向きだと自覚しているので、目覚めの時間くらいは前向きになってみようと思ったのだ。

ほとんどの場合、目覚ましが鳴る前に目を覚ますのだが、最近は目覚ましに起こされることが多くなってきた。自分の寝室は東向きなので、夜明けの早い春や夏は朝陽のおかげで目が覚めるのだが、秋から冬にかけてはどうしても目覚めが遅くなってしまう。自分の場合、「春眠暁を覚えず」ではなく、「秋眠暁を覚えず」なのだ。

一般的には早起きの部類に入るのだと思うが、以前は朝は苦手だった。ギリギリまで寝て、朝食を摂らずに出勤するという毎日だった。これではダメだということで、今の朝型のスタイルに変更してから10年以上が経つ。やっぱり、夜型よりは朝型のほうがいいと思う。

早起きが体調管理にいいことは間違いないと思うが、度を越しては逆効果だとも思う。以前、出勤前に早朝の散歩を試したことがあるのだが、その日は一日中身体がだるかった。朝のウォーキングにはものすごく健康的なイメージがあっただけに、意外な発見だった。

このとき、子供の頃にやった朝のラジオ体操のことを思い出した。毎日辛い思いをしてラジオ体操に通っていたが、体操から帰ってくるとすぐに横になっていた。子供心にも、早起きしたって結局はまた寝るんだから逆効果じゃん、と思っていた。こんなことならグレてやると思い、盗んだバイクで走り出したこともあった。

どうやら自分は、早起きは苦にならないが、朝からいきなり運動することは苦手らしい。人それぞれいろんなタイプがいて、早起きそのものが苦手な人もいるだろうが、とりあえず早起きをして損はないと思う。全身に朝陽を浴びるのは、想像以上に気持ちいい。



07/10/14

それにしても、ものすごい叩かれっぷりだな、亀田一家は。自分もあの試合は録画して観たが、たしかにひどい試合だった。大毅くんのケンカ腰の試合運びはもちろん、セコンドの暴走ぶりもすごかった。とにかく、史郎パパが面白すぎる。

11ラウンドが始まる前のインタバールで指示があったとされる「急所を狙え」発言はよく聴き取れなかったが、最終ラウンドの史郎パパによる「「投げろ! 投げろ!」発言はクリアに聞こえた。試合後に「反則は大毅の未熟さによるもの」という言い訳をしていたが、しっかり自分で指示してるじゃん。笑いすぎで腹が痛い。

史郎パパは永久追放にすべし、などの厳しい意見も出ているようだが、自分としてはこんなに面白い生き物が見られなくなるのは惜しい。この先も史郎パパの暴走ぶりを生暖かく見守っていけるよう、もっと生ぬるい処分にしてもらいたい。これほどまでに面白い生き物は貴重だから、みんなで面白がればいいと思う。

正直なところ、この一家は単純に頭が悪いというだけで、それほど叩く必要はないと思っている。一番叩くべきはTBSだ。視聴率さえ取れればなんでもオッケー、みたいな姿勢は本当にいやらしい。試合に呼ばれたゲストも解説者も一様に亀田寄りの発言で、観ていてかなり不愉快だった。

TBSに持ち上げられなければ、亀田一家もこれほど増長することはなかっただろう。放っておけば単なる頭の悪い一家で済んだのに、テレビに出演させて持ち上げたりするから、手の付けられないバカ一家になってしまったのだ。この一点だけでも、TBSの責任は重い。

今回の騒動を受けて、今後TBSがどんな対応を取るのか見ものだ。しかし、3兄弟ともまだまだ若いから、これからも金づるとしていいように使っていくのだろう。TBSに良心を求めてはいけない。TBSで好感が持てる番組は、「花まるマーケット」だけだ。

それにしても、今回の騒動でエリカ様へのバッシングはすっかり下火になった感じだ。というか、すでに忘れ去られたような気さえする。今回の騒動で一番得をしたのは、実はエリカ様かもしれない。結論としては、諸悪の根源はすべてTBSにあるということだ。



07/10/07

L&Gが激しく怪しいらしい。社長の風体も相当怪しいが、"L&G"という社名の由来が"Ladies and Gentlemen"だというからさらに怪しい。自分としては、"Lucrative and Genocide"(儲けておいて皆殺し)の"L&G"のほうがピッタリくると思うのだが。

それにしても、こういう悪徳商法はなくならないものだ。この世から戦争がなくならないのと同じくらいに、この世から悪徳商法もなくならない。それだけだまされる人が多いということだろう。最近では、「だますほうも悪いが、だまされるほうも悪い」という論調が多くなってきているように感じるが、本当にそうだろうか。

だまされてしまう人というのはどんな場面でもだまされてしまうのだろうと思う。少しでも怪しいと感じれば、ネットでちょこっとググってみればいいだけの話だ。それすらせずに怪しげな話を頭から信じてしまう人というのは、世の中に一定数の割合で必ず存在する。

こういう人たちは、おそらく一生だまされ続けていく運命なのだろう。1回や2回だまさたくらいでは学習しない。そうでなければ、ここまで悪徳商法がなくならないことの説明がつかない。だから、「だまされるほうも悪い」という言葉は、こういう人たちにとっては酷だ。おそらく、底抜けに素直なだけなのだから。

当たり前の話だが、こういう詐欺事件はだますほうが一義的に悪い。しかし、話はそれだけでは終わらない。こういうマルチ商法のやっかいなところは、だまされた人間が自分でも意識しないうちに、次の瞬間にはだます側の人間になってしまうということだ。

マルチ商法は、次々に新しいカモを誘い続けなければならないというシステムに問題がある。今回のようにあきらかに詐欺的な手法の場合はもちろん、合法的なマルチ商法の場合も同じだ。どんどん自分の下に人をつけていかないと絶対に儲からない。だから無理をして勧誘して、友人や知人を巻き込んでしまう。

結論としては、世の中に底抜けに素直な人間が存在する限り、悪徳商法もなくならないということだ。だから、悪徳商法が存在する今の世の中は、ある意味正しい姿なのだろう。悪徳商法を信じないような人間ばかりの世の中なんて、逆に怖くて生きていけない。



07/09/30

このサイトも開設から7年が経った。この7年間に、世の中の流れはサイトからブログへと完全に移行した感じだが、このサイトはこれからもこの形で続けていきたい。というか、いまさらブログだなんだと新しいものに手を出す気がしないだけなのだが。

サイトやブログの寿命はどれくらいなのだろう。正確なデータはないが、思い切り大雑把な感覚で3年から5年くらいが一般的なサイトの寿命なような気がする。だとすると、7年というのはWebの世界では長寿の部類に入るのだろう。たった7年でもうベテランとは、Webの世界はなんともせっかちだ。

サイトの更新をやめてしまう理由はいろいろあると思うが、一番多いのは「ネタ枯れ」だと思う。開設当初はものすごい勢いで更新していたのに、次第に更新頻度が落ちてきて、気付いたらぱったりと更新が止まっていたというサイトは山ほどある。

こういうサイトは、ひとつのテーマを深く掘り下げたサイトに多いような気がする。手持ちのネタがあるうちは更新が続くが、それが切れると日記のページを追加して必死に延命を図るというパターンをよく見る。こういうワンテーマのサイトで日記のページが追加されたら、ネタ枯れ間近と見て間違いないだろう。

これとは逆に、雑多なテーマをネタにしたサイトというのは比較的長く続くような気がする。サイトのテーマをひとつに限定せず、自分の興味のあるものをつらつらと日記のように綴っていくサイトだ。つまりは、ブログ形式で好き勝手にネタを書いていくようなサイトである。

自分のサイトは、この2つのパターンのうち、どちらに当てはまるのだろう。一応「英語学習」にテーマを絞ってはいるが、定期的に更新しているのはこの覚書のページとペーパーバックのページだけである。つまり、表玄関であるワンテーマのページはすでに寿命を終え、日記のページでなんとか延命を図っているということになるのだろう。

いずれにしろ、文章を書くことが好きでなければサイト運営は永くは続かないと思う。自分も文章を書くのが好きだから、ここまで更新が続いているのだろう。棺桶に片足を突っ込んでいるようなサイトだが、この覚書だけは更新を続けていくつもりなので、これからもよろしくお願いします。



07/09/23

何も予定がない日曜日のお昼は、NHK教育テレビの将棋番組を見ることがある。見ていても何がどうなっているのかよくわからないのだが、なんとなく勝負の緊迫感のようなものは伝わってくるから、細かいところはわからなくても意外に面白い。

自分も一応将棋は指せるが、本当に駒の動かし方がわかるくらいのレベルだ。3手詰めなどの思い切り簡単な詰め将棋すら解けないレベルだから、段や級で自分の実力を表すと、おそらく150級くらいだと思う。なんだか150キロの剛速球みたいでカッコいい。

将棋は子供の頃に、3歳上の兄貴から教わって覚えた。学校から帰って夕食までの間に兄貴と将棋を指すのだが、飛車角落ちはおろか、香車、桂馬、銀落ちですら勝てなかった。これは決して兄貴が強いというわけではなく、極端に自分が弱いだけの話だ。なにしろ150級だからしかたがない。

兄貴には勝てないと悟った自分は、次に学校の友だちと指したが、これも一度も勝てなかった。今思い返してみると、自分の人生の中で将棋に勝ったという経験が一度もないことに気付いた。駒落ちでお情けで勝たせてもらったことが1〜2度あったかもしれないが、真剣勝負で勝ったことは一度もないと思う。

将棋だけでなく、オセロも弱かった。隅を取るのが必勝法だということはわかっているが、その隅が取れない。終わってみれば4つとも隅を取られて60対4などという信じられないようなスコアでいつも負けていた気がする。今思い返してみると、オセロでも勝った記憶がない。いったいどれだけ弱いのだろう。

中学生くらいになると、こうしたボードゲームはやらなくなった。ゲームをしない僕からは、友達が去っていった。気付いたら僕には誰も友達がいなくなった。そして僕は非行に走った。あの日の夕日がにじんで見えたのは、タバコの煙のせいだけじゃなかったんだ。。。

ということで、100手先までも一瞬にして読みきるプロ棋士は本当にすごいと思うわけだ。次の1手すら思い浮かばない自分からすれば、まさに神様のような存在だ。こんなことだから、人生における次の1手すら浮かばないのかもしれない。



07/09/16

今回の世界柔道は、日本勢が絶不調だ。特に男子がよくない。初日からいきなり井上と鈴木の二枚看板がそろって負けたのが痛い。それにしても、鈴木の試合の判定はひどかった。いったい審判は何を見ているのか。どう見ても鈴木の一本勝ちだろう。

それよりもひどいのが藤原紀香だ。この人は格闘技マニアらしく、この手のイベントには常に顔を出しているが、コメントは素人以下だ。「鈴木選手はこの悔しさをバネにしてまた頑張ってほしいですね」みたいなコメントしかできない。藤原紀香がコメントをするたびに思わずチャンネルを変えてしまう。

自分も男子だから、藤原紀香のナイスバディは嫌いではない。しかし、それとこれとは話が別だ。藤原紀香が見たいからチャンネルを合わせているのではなく、純粋に柔道が見たいからチャンネルを合わせているのだ。そのあたりのことを製作者は理解しているのか。

だいたい、民放はスポーツ番組を不必要にショーアップしすぎる。バレーボールの試合前にジャリタレに下手な歌を歌わせたり、世界陸上の開会式で織田裕二に熱唱させたりしないでほしい。はっきり言って、日本人として恥ずかしい。織田裕二は口パクだったから、さらに恥ずかしかった。

その点、NHKのスポーツ実況はいい。アナウンサーの話し方はおだやかで聞きやすいし、解説者の話も的確でわかりやすい。バカみたいに大声をはりあげるアナウンサーや、綺麗に着飾って素人以下のコメントをする芸能人に煩わされることなく観戦できるのがいい。ニュースとスポーツとドキュメンタリーはNHKに限る。

民放の場合、スポンサーの意向に配慮する必要があるため、こういう番組作りになってしまうという部分はあるだろう。しかし、それにしたところでやりすぎだ。子供の頃は、大人はどうしていつもNHKばかり見ているのか不思議だったが、今となってはよく理解できる。とにかく、民放の軽薄さは不愉快だ。

これからはどんどんと高齢化社会に向かっていくわけだから、視聴者の嗜好も今みたいに軽薄な番組からは離れていくだろう。民放もそのあたりを考えた番組作りをしていかないと、そのうち視聴者からそっぽを向かれてしまうことは間違いない。



07/09/09

今回の台風9号は、見事なまでに東日本を縦断していった。平日の台風上陸ということで、各交通網の大幅な乱れなど、通勤時間帯にかなりの影響があったようだ。自分は、台風が上陸した日には午前半休を取ったので、ほとんど影響はなかった。

その日は、朝起きてすぐにNHKのニュースを確認した。ニュースによると、自分が通勤に使用している総武線は間引き運転をしているらしい。京葉線と東西線の地上部は全面的に運休している。ということは、ただでさえ運転本数の少ない総武線に、京葉線と東西線の乗客が殺到するということだ。

このニュースを見た時点で、自分は早々に午前半休を決めた。頑張って会社に行ったところで遅刻は間違いない。昼になれば雨は上がるとわかっているのだから、ずぶ濡れになってまで無理して行くこともないだろう、と考えたのだ。その後は、TBSで「はなまるマーケット」を見ながら雨が上がるのを待っていた。

しかし、自分のように考える人は少ないのだろう。大多数の人は、ずぶ濡れになりながら必死に会社を目指すのだろう。頭が下がる。ただ、そうまでして行く価値があるものか、疑問に思うのも事実だ。自分がいなければ回らない仕事など、そうそうあるものではない。半日くらいいなかったところで、仕事なんてものはそれなりに回る。

台風の中、社員に当たり前のように出社を命じる会社もおかしい。駅までの道で風に吹かれた看板が当たらないとも限らない。通勤電車が脱線しないとも限らない。実際に、今回の台風で総武線の窓ガラスが割れる事故があった。これなど、当たり所が悪ければ失明する危険性だってある。

以前勤めていた外資系の会社では、台風の日は朝から休みということがあった。これなどは、企業として正しい姿勢だと思う。どうしても休めない業務を除き、外出の際に危険が伴うような場合は、社員の安全を優先して業務を停止してもいいと思う。

とにかく、日本人は一事が万事まじめすぎるのだ。自分を守れるのは自分しかいないわけだから、力を抜くところは適当に流していかないと、すぐに疲れてしまう。台風のときくらい、はなまるマーケットでも見ながらウダウダしたっていいと思う。



07/09/02

今回の世界陸上は、自国開催にも関わらず日本選手が絶不調だった。自国開催なのに情けない、という論調が大勢を占めているようだが、自分はこんなものだと思う。世界とのレベルの差は、我々一般人が考えている以上に大きなものがある。

大体、マスコミが煽りすぎなのだ。たしかに期待できる選手もいるが、それは自己ベストを更新したらという条件付きだったりする。それを「メダルが見えた!」みたいな調子で煽るから、陸上競技に詳しくない人たちは勝手に期待し、結果が出ないと勝手に落胆して選手を責める。これでは選手がかわいそうだ。

世界と日本のレベルの差は、予選を見れば歴然だ。トップの選手は余裕でラストを流しても予選は通過するのに、日本選手は必死に走っても予選すら通過できない。予選くらいは流して走らないと、メダルの期待などを話題に出してはいけないだろう。

それにしても、最後の10メートルくらいを流して走るのは、それほど意味のあることなのだろうか。それくらいのことで、体力の温存につながるものだろうか。これは、「どうよ、俺って速いだろ? お前らみたいなカメとは違うんだぜ」という優越感に浸りたいという理由が半分以上ではないかと思う。

この気持ち、わからなくもない。自分も試験のときはいつも不必要に急いで解答して、大幅に時間を余らせて周りを眺めるのが好きだった。スポーツと勉強の違いはあれど、こういう優越感というのはさほど変わらないのではないか。

しかし、大学受験を目前にした模擬試験のときに、いつものように余裕を見せて解答したのだが、自分の名前を書き忘れるという大失態を演じたことがある。そのときは提出前に教師が気付いてくれたので事なきを得たが、「本番ではちゃんと名前を書けよ」と真顔で心配されてしまった。

ゴール前で流す一流選手たちも、これを教訓として、スパイクやトランクスの紐が緩んでいないか、そもそもスパイクやトランクス自体を穿いているか、スタート前にしっかりと確認してもらいたい。



07/08/26

世界陸上が大阪で開幕したらしい。昨日は炎天下の中、男子マラソンをやっていた。35度を超える真夏にマラソンを走らせるとは、無謀なことをするものだ。熱中症で選手が死なないとも限らない。そのときはどう責任を取るつもりなのだろうか。

それにしても、マラソンというのは報われない競技だとつくづく思う。その労力の割には見返りが少なすぎる。海外ではマラソンで賞金を稼ぐランナーもいるらしいが、日本では賞金レースは存在しない。死ぬ気で42キロを走りぬいても、与えられるのは名誉という名の腹のふくれない代物だけだ。

オリンピックや世界選手権でメダルを獲得しても将来が約束されているわけではなく、実業団の監督になってマラソンのテレビ中継に解説者として呼ばれるくらいが関の山だ。それにしたって、ごく一部のランナーだけだ。42キロを2時間ちょっとで走るというものすごい能力を持っているのに、なんとも報われない。

では、一番効率のいい、あるいは使う体力に比べて実入りの多いスポーツは何だろう。それはおそらくゴルフではないだろうか。真夏にラウンドしたところで、ジョギングほどにも疲れない。競技中にタバコだって吸える。その気になれば酒だって飲めそうだ。

こんなに舐めた競技なのに、トッププロになれば億を超える収入も夢ではない。技術的にはすごいものが要求されるのだろうが、少なくとも体力的にはマラソンの百分の一も必要ないはずだ。腹の出たオヤジでもプロになれる、それがゴルフというスポーツだ。

そう考えると、実は足の速い人というのは不幸な人なのかもしれないと思うわけだ。同じスポーツの才能を授かるのであれば、苦しいだけであまり見返りのないマラソンの才能を授かるよりも、体力的にはずっと楽なゴルフの才能を授かった方がいい。

自分は、マラソンの才能もゴルフの才能も授からなかった。高校生のときに計測した1,500メートル走では2クラス合わせてビリだったし、社会人になって始めたゴルフではハーフ50を一度も切ることができなかった。冷えたビールを飲みながら真夏の世界陸上を見るしか能のない自分のような凡人が、実は一番幸せなのかもしれない。



07/08/19

お盆は久しぶりに田舎に帰ってのんびりしてきた。のんびりしすぎて思い切りヒマだったので、朝から晩までずっと高校野球を観ていた。最初はヒマつぶしのために観ていたのだが、真剣に観るとなかなか面白い。ついつい引き込まれてしまった。

しかし、観戦していてひとつだけ気になることがあった。それは、一塁へのヘッドスライディングが異常に多いことだ。以前は、最終回の最後のバッターだけに許されたお約束的な行為だったものが、今ではいきなり初回から一塁へ滑り込むシーンも珍しくない。

一塁ベースの場合、滑り込むよりも駆け抜けた方が速いというのは常識である。スライディングというものは、オーバーランが許されない二塁ベースや三塁ベースに到達する際に、それまでの勢いをベース手前で効率的に減速するための手段である。オーバーランが許される一塁ベースの場合は、駆け抜けた方が間違いなく速い。

さらに、一塁へのヘッドスライディングは危険でもある。ベースに伸ばした手をスパイクで踏まれたり、滑り込む際に胸を強打する危険性が常につきまとう。セーフになる可能性とケガをする危険性とを天秤にかけた場合、振り子はケガの危険性の方に振れる。そもそも、スライディングのためにセーフになる可能性などないに等しい。

明らかにアウトのタイミングで滑り込むのであればまだわかる。ヘッドスライディングによってチームの士気を高めるという意味があるかもしれないからだ。しかし、中にはかなりきわどいタイミングで滑り込む選手もいるから困る。これなどは百害あって一利なしだ。

おそらくこうした選手たちは、自分たち高校生に期待されている「爽やか」、「ひたむき」、「あきらめない」などの前向きなイメージを表現しようと必死なのだろう。一塁ベースにヘッドスライディングするたびに、「俺って前向きだぜ」などと自分に酔ってしまうのだろう。自分のようにヒネた人間は、そんな姿に醒めてしまうのだ。

すべての元凶は高野連にあると思う。時代遅れの「高校生らしさ」というものを選手たちに求め続けた結果、選手が自分たちで考え出した「高校生らしさ」が、無意味な一塁へのヘッドスライディングという形で現れたのではないか。意味がない上に危険でもあるヘッドスライディングは、即刻禁止してもらいたい。



07/08/12

ガソリンの価格高騰が止まらないらしい。全国平均では、1リットル145円を超えたということだ。自分が車に乗っていた10数年前は、安い店では1リットル98円ということもあったから、その頃と比べると約5割も上がっていることになる。たしかに高騰している。

しかしよく考えてみれば、自動販売機で買う500ml のお茶やミネラルウォーターもほぼ同じくらいの値段だ。つまり、お茶や水に比べてまだ半値にしか過ぎないということだ。ガソリンを1リットル給油すれば家族4人を乗せて10kmくらいは走れるが、お茶や水を1リットル飲んでも家族4人を抱えて10kmは走れない。ガソリンは優秀なのだ。

終わりの見えない値上げに、ドライバーからは「いい加減にしてくれ」という声が上がっているようだ。気持ちはわからなくもないが、いくら騒いだところでしかたがない。値上げを嘆くよりも、これを機会に車の必要性について考えてみるのもいいと思う。

公共交通機関の発達していない地方では車に頼らざるを得ないが、都市部ではそこまで車に頼る必要はないだろう。車を仕事に使う人たちを除き、都市部に住む一般の人たちは車を使いすぎだ。電車やバスを利用すればいいのに、なにかにつけて車に乗りたがる。

車に乗ったら乗ったで、渋滞に巻き込まれてはイライラし、高速料金が高すぎると文句を言い、ガソリン価格の高騰を嘆く。大丈夫、あなたたちは車の必要のない都市部に住んでいながら、わざわざ高い自動車税や駐車場料金や保険料を払って車を乗り回している富裕層なのだ。これくらいの値上げなんて屁でもないはずだ。

今回の値上げに嘆くドライバーは、タバコが値上げされるたびに、「これ以上値段が上がったら困る」と嘆くスモーカーによく似ている。臭い煙を吐き散らすスモーカーも、排気ガスを撒き散らすドライバーも、周りに迷惑を与えていることを自覚して喫煙なり運転なりをしてもらいたい。多少値段が上がったくらいで騒ぐのはみっともない。

自分は車は持っていないし、この先も買うつもりはないから好き勝手なことを書いているのだが、それにしても都市部の車の多さには閉口する。このガソリン高騰を機会に、一般ドライバーの運転する車の台数が少しでも減ればいいと願っている。



07/08/05

昼飯を食べにラーメン屋へ行ったときのこと。自分は堅い人間なので、ラーメンの麺もいつも硬めで注文する。しかしそのときは、たまたまノーマルの麺で注文した。それを聞いた店の若い男子が、「あれ、麺硬めでなくて大丈夫ですか?」と言った。

そう訊ねられた自分は、いや、普通でいいです、と答えながら、しまった、この店では自分の面は割れているのか、と思って嫌な気分になった。その店には月に2〜3回しか行っていないのだが、細く長く通っているうちに、自分の顔を覚えられてしまったらしい。

おそらく店の男子としては、あなたのことはちゃんと覚えていますよ、というアピールをすることがサービスになると考えているのだろうが、自分としては困るのだ。うまく説明できないが、こういうことをされるといきなり居心地が悪くなる。とにかく、店員が自分のことを知っていると思いながら食べるラーメンは美味くないのだ。

何度も店に通う客の顔を覚えるのは自然なことだろう。しかし、気付いていても気付かないフリをするのもサービスではないだろうか。特に、さっと食べてさっと帰るのが当たり前のラーメン屋というドライな場所では、こういうウェットなサービスを嫌う客も多いのではないか。

しかしよく考えてみると、自分はこういうサービスを極端に嫌う人間のようだ。たとえば、美容院でカットされているときにあれこれ話しかけられるのが大嫌いだ。何回か通ううちに当たり前のように話しかけられるようになると、もうその店には行きたくなくなる。

なぜこうなってしまうのか考えてみたが、明確な理由をうまく表現することができない。あえて表現するならば、恥ずかしがりやだからだろうか。あるいは自意識過剰なだけかもしれない。とにかく、そういう場所では目立たずに隅っこの方でおとなしくしていたいのだ。放置プレイに近いくらい無視してくれてかまわないのだ。

大勢の人間がいる場所では、常にその他大勢に埋没していたいと願う自分がいる。そんな自分ってシャイな人間だよね、と相方に同意を求めたところ、その割には態度が大きいところがあったりしてよくわからない、と言われてしまった。結論としては、相方にもよくわからないのだから自分にわかるわけがない、ということだ。



07/07/29

困ったことに、何もネタがない。今さら選挙のことを書いても面白くないし、なかなか明けない梅雨のことを書くのも面白くない。1年に何回かは、こうした状態になることがある。そのたびになんとかネタをひねり出して書くのだが、今回は本当に何も浮かばない。

ということで今回は、いつもどうやってこの覚書を書いているかについて書いてみたい。梅雨明け直前特別企画、覚書の裏側を大公開!ってヤツだ。別にそんなことは読みたくないよ、などと言わずに、自分を助けると思って読んでいただきたい。

この覚書をずっと読んでくれている人はわかると思うが、更新するのは日曜日の午前中と決めている。特に深い意味はないのだが、日曜日に書けば土曜日までの出来事をネタにできるから、少しだけネタの対象が増えるというのが理由だ。

自分は毎朝シャワーを浴びるのだが、ネタを考えるのはこのときだ。時事ネタが続いているときは私生活ネタにしたり、あるいはその逆にしたりと、ネタのバランスにはある程度気を使う。シャワーを浴びているときに決めるのはこれくらいで、あとはパソコンを開いておもむろにキーをたたき始める。

この時点では本当におぼろにしか全体の構成はできていないのだが、実際に文章を書き始めると、意外にスラスラと筆が進んでいく。パラグラフ数にして7つというのがいつの間にか決まったボリュームになっているが、慣れてしまうとこのくらいのボリュームが起承転結をつけやすくて都合がいい。

こんな感じで書き進め、調子のいいときで20分、なかなか筆が進まないときには40分くらいかかって書き終わる。その後朝食となるのだが、食べ終わってから相方に誤字脱字のチェックも兼ねて読んでもらい、自分でももう一度チェックしてからアップロードする。

おお、これでなんとか1本仕上がった。ちなみに今回の覚書にかかった時間は、ネタを考える時間も含めて約1時間だ。ネタのつまらなさに比例して書く時間も長くなる。今回は我ながらかなり苦しいネタだったと思うが、とりあえずこんなところで勘弁してください。



07/07/22

部屋のフローリングに虫が発生したため、一部屋まるごとフローリングを張り替えてもらった。家具やドアなどをてきぱきと養生したり、見事なチームワークでフローリングを張り替えていく職人さんたちの手際のよさに感心した。

自分は、こういう職人さんたちの仕事振りを見るといつもすごいと感心する。自分はこういう作業が大の苦手なので、ただ尊敬するばかりだ。そして、いつもこう思う。「もし今の仕事をクビになって転職するとしても、職人にだけは転職できないな」と。

このご時世、いま勤めている会社がずっと安泰なんてことは夢にも思ってはいけない。誰にだって転職に迫られる可能性はある。実際に転職するとして、今の自分はどんな職業に転職できるのだろう。そんなことを最近よく考える。しかし、実際に転職するとなると、自分に残された選択肢は驚くほど少ないことに気付く。

この歳で転職するとなると、管理職の経験がなければどんな企業でも採用には二の足を踏むだろう。しかし、自分はこれまでヒラ社員街道を驀進してきた筋金入りのヒラ人間である。管理されるのはもちろん、管理するのはもっと嫌いだ。この時点で、まともなサラリーマンとしての転職はもうできないことに気付かされる。

選択肢として残るのは、そういう経歴が必要ない職業ということになる。手っ取り早いところでは、タクシーの運転手やトラックの運転手などが考えられる。しかし、自分は悲しいほどの方向音痴なのだ。地図を片手に散歩しながら、目的地とは逆方向に歩いているなんてことはしょっちゅうだ。

サラリーマンもダメ、運転手もダメ、職人もダメ、ということになると、後は何が残るのだろう。どうしてもホワイトカラーにこだわるなら、悪徳商法のインチキセールスマンあたりか。ホワイトカラーをあきらめるのであれば、零細企業の工場勤務あたりか。

結局のところ、どう転んでもハッピーな転職などありはしないということだ。今の世の中、リストラされたら路頭に迷ってしまうホワイトカラーよりも、つぶしのきく職人のほうがずっと強いのではないか。手際よく仕事を進める職人さんたちを見てそんなことを思った。



07/07/15

季節外れの台風のせいで貴重な三連休が台無しになって若干不機嫌モードだ。とはいえ、元々この時季は外出には適さないので、それほど不機嫌になることもない。いったん梅雨入りしたら、後は爽やかな秋風が吹き始めるまで散歩もサイクリングもお預けだ。

こういう雨の日や真夏の炎天下、あるいは真冬の厳冬期など、外出に不向きな休日は、みんなどうやって過ごしているのだろうか。やっぱり、部屋の中でテレビを見たり読書をしたりして過ごす人が多いのだろうか。元々がインドア派の人ならそれでもいいだろうが、アウトドア派の人は困るだろう。

自分はアウトドア派なので、こういう休日は素直に困る。いや、アウトドア派といっても、テニスをしたりサーフィンをしたりキャンプをしたりするわけではない。適当に散歩やサイクリングをするくらいのものだ。それでも、休日はとにかく外出しないと気が収まらない。

だから、こういう日は図書館に出かける。図書館だってインドアには違いないが、部屋の中で一日過ごすよりはよほどマシだ。こういう理由で、梅雨から真夏にかけてと真冬の間は飛躍的に読書量が増える。自分の読書量を月ごとの棒グラフにすると、新潟県あたりの年間降水量のグラフとほぼ一致すると思う。

そんなわけで、一日中部屋の中で過ごす休日というのは、一年で数回くらいしかない。それは、風邪で高熱を出して寝込んだ場合と、台風が接近している場合だ。そう、まさに今日のような日だ。台風が接近している休日は、なぜかそんなに嫌いではない。

平日の台風はもちろん大嫌いだが、休日の台風は若干わくわくする。エアコンの効いた快適な部屋の窓から、強い雨風に木々が大きく揺れている様子を見るのは嫌いではない。テレビの気象情報を見ながら、おお、もう少しで上陸かよ、来るなら来い、ッシャーコラ!などと気合を入れたりする。

一番好きなのは、台風が過ぎ去った後の空気だ。さっきまでの雨風がうそのように晴れ上がるあの感じがいい。そんなわけで、実際に台風の被害に遭っている人たちには申し訳ないのだが、休日の台風は少しだけ好きなのだ。



07/07/08

生協の「ご愛顧感謝キャンペーン」とかいう懸賞で、2リットル入りのウーロン茶6本が当たった。こういうところでチマチマと運を使っているから肝心の年末ジャンボが当たらないのだと、ウーロン茶をグビグビ飲みながら思った。

しかし、この2リットル入りのペットボトルというものは案外かさばる。燃えるゴミの袋に何本か入れると、それだけで袋が一杯になってしまう。中身は空なのに、ゴミとしての体積はやたらと大きいのが困りものだ。紙パックみたいにつぶせればいいのだが、それもままならない。図体ばかりでかくて使えないヤツだ。

これを読んでいるそこのあなた、「ペットボトルを分別しないのか、この環境破壊を助長するバカ者が」と思われたことでしょう。いや、違うのです。実はペットボトルをきちんと分別しているあなたのほうこそ、環境破壊に一役買っているのです。

ペットボトルをリサイクルするためにかかるコストは、ペットボトルを新しく作るためにかかるコストよりも数倍高い。貴重な石油資源を大量に消費して、なくても困らないペットボトルごときをわざわざリサイクルしているのが現状なのだ。というよりも、回収されたペットボトルの大半はそのまま焼却処分されているのが現状なのだ。

つまり、わざわざ高い輸送コストを使って回収しながら結局は処分していることになる。これほどバカげたことがあるだろうか。なぜこんなことになるかと言えば、リサイクルに対して出される補助金目当てでリサイクルしているフリをしている業者がいるからだ。

自分は、リサイクルが声高に叫ばれ始めた十数年前に、たまたま雑誌で読んだ記事によってリサイクルの嘘に気付くことができた。それ以来、ペットボトルは燃えるゴミとしてこっそりと処分してきた。最近ようやくあちこちでリサイクルの矛盾を指摘する声が上がってきて、自分のこれまでの行為は正しかったことが証明されて嬉しい。

これを読んでくれたあなたにも、今日からペットボトルは燃えるゴミとして処分することをお勧めしたい。最初はペットボトルを燃えるゴミの袋に入れることに後ろめたさを感じるかもしれないが、慣れればどうってことはない。すべて燃やしてすっきりしよう。



07/07/01

山口県光市の母子殺人事件の差し戻し控訴審について。それにしても今回の被告の主張にはあきれるばかりだ。頭をなでてほしかっただの、屍姦は復活の儀式だの、ドラえもんの四次元ポケットだの、赤の他人である自分ですら聞いていて腹が立つ。

この荒唐無稽なストーリーは、当然弁護団による創作だろう。21人もの弁護士が集まって、じゃあそこはドラえもんのせいにして逃げておきますか、などと話し合ったのかと思うと情けなくなる。この悪質なまでに偽善的な弁護団をこそ、誰か裁いてはくれないか。

いくら死刑制度に反対だからといって、ここまで遺族の気持ちを逆なでするような弁護が許されてもいいのか。万が一死刑判決は免れたとしても、こんな弁護が認められれば世論は逆に大きく死刑制度支持に傾くはずだ。それくらいは小学生にだってわかるはずなのに、頭のいい弁護士さんがどうしてわからないのか。

今のやり方では、自分で自分の首を絞めているのと同じだ。今さら事実関係を争ってみたところで遅い。とにかく真摯に反省の態度を表し、事件当時の18歳1ヶ月という人間的未熟さを訴えるという当たり前の方法以外に、死刑判決を免れる道は残されていない。

この悪質弁護団とは逆に、本村氏の毅然とした態度と理路整然とした話し方は立派だとつくづく思う。事件発生当時の本村氏をテレビで見たときには、若いのになんてしっかりした人なんだろうと感心した。この人の言葉には人の心を打つ力がある。こういう人にこそ政治家になってもらいたいと思う。

最近の日本の裁判の判決は、かなり厳罰主義になってきていると感じる。かつては死刑執行が1件もなかった年があり、日本も死刑廃止へ向かうのかと思われた時期があったが、最近では死刑廃止への勢いは衰えてきているようだ。今回の差し戻しの決定も、こうした流れの一環だろう。

意外と知られていないが、実は死刑執行には莫大な費用がかかる。無期懲役囚を何十年も獄中に繋いでおく場合の何倍も金がかかるらしい。死刑囚のために莫大な税金が使われるのは嬉しくはないが、それが更正の見込みのない悪人を処罰する唯一の方法であるとしたら、やむをえないことだと思う。



07/06/24

ミートホープ社による牛ミンチ肉の偽装事件について。牛肉に豚肉を混ぜただけでなく、賞味期限を偽装したり、産地を偽ったり、血で肉を着色したりと、まさにやりたい放題だ。ここまで悪質な偽装は過去にも例がないのではないか。

今回の事件で一番悪いのはもちろんミートホープ社の社長だが、この偽装牛肉を仕入れていた食品加工業者に罪はないのだろうか。食品加工業者であれば、仕入れを担当するスタッフも当然いるわけで、そうしたスタッフは食材を見分けるプロであるはずだ。そのプロがこれほど悪質な偽装を見抜けなかったのだろうか。

意地悪な見方をすれば、加ト吉はミートホープの偽装を知っていたという可能性だってある。そこまではいかなくとも、品質の悪い肉だということくらいは気付いていたと思う。しかし、仕入れ値の安さのために品質には目をつぶっていたのではないだろうか。

こうした事件は、そのほとんどが内部告発によって明るみに出るものだ。不二家のときもそうだったし、雪印による牛肉偽装事件のときもそうだった。そのたびに不思議に思うのが、消費者による告発ではないということだ。今回の事件にしても、これほどひどい偽装なら食べた瞬間におかしいと気付きそうなものだが、そうでもないらしい。

つまり、人間の舌などその程度のものだということだ。豚肉が混じった牛肉を食べても気付かないし、賞味期限切れの食材を使った食品を食べても何とも思わないし、ましてや産地を偽って表示しても絶対におかしいとは思わない。

人間はイメージで物を食べる生き物だ。高級な食材は美味いというイメージが出来上がっているから、これは大間の最高級本マグロです、と言われれば、実はそれが養殖マグロであったとしても、やっぱり本物は違うね、などと言いながら食通を気取ってありがたく食べてしまうだろう。

今回の事件のように消費者をバカにした行為は許しがたいが、それを気付かずに食べている自分たちも実は滑稽だと思うわけだ。食材の違いもわからない消費者のために食品の規制だけはどんどん厳しくなっていくなんて、自嘲的に笑えてしまわないか。



07/06/17

NOVAが一部業務停止命令を受けたらしい。NOVAについては昔からいい噂を聞いたことがなかったので、何を今さらという気がするが、これを機に少しでもまともな会社になってもらいたい。おそらく無理だとは思うが。

それにしても、日本人は英会話が好きだとつくづく思う。英語ができる人イコール英語を流暢に話せる人、という図式ができあがっているためだろう。その証拠に、アメリカに3年間留学していました、なんて人に会うと、じゃあ英語はペラペラなんでしょ、と訊ねる人のなんと多いことか。じゃあペーパーバックなんてスラスラなんでしょ、と訊ねる人など見たことがない。

だが、ちょっと待て。日本で生活している日本人にとって一番必要なのは、本当に英会話力だろうか。普段の仕事や生活で英会話が必要な人なんて、いったいどれくらいいるだろうか。自分に言わせれば、普通の日本人にとって一番必要なのは読む能力である。

ここまでインターネットが発達した現代では、クリックひとつで即座に全世界の情報にアクセスできる。英語を読むことができれば、情報収集力は飛躍的にアップすることは言うまでもない。ほとんど使う必要のない英会話力を伸ばすよりも、英語の読解力を伸ばすほうが何倍も何十倍も効率的だ。

そもそも、こうしたインプット能力の底上げを無視していきなりアウトプット能力を伸ばそうとするのが間違っている。地味なボキャブラリーや文法の勉強はそこそこに、いきなりカッコよく英語を話せるようになりたいと思っている人は、味噌汁で顔を洗って出直してきてほしい。ただし、あまり熱い味噌汁だとヤケドするので気をつけるように。

インプット学習を無視して英会話を習うのは、足し算を勉強せずに九九を暗記するようなものだ。限定された状況でならばカッコよく会話できるかもしれないが、それ以外の場合ではまったく役に立たない。逆に、九九は知らなくても足し算さえ知っていれば、多少時間がかかって表現もカッコ悪いかもしれないが、どんな状況でも対応することはできるはずだ。

とにかく、英語イコール英会話と思い込んでいる人たちは、短絡的に結果を求めすぎる。まずはしっかりと英語の基礎体力をつけなければ話にならない。言っては悪いが、そんなことだからNOVAなんていうインチキスクールにひっかかるのだ。



07/06/10

ニュースとしての旬は過ぎてしまったが、ほかに適当なネタが浮かばないので、今回はミスユニバースについて思ったことを書いてみたい。日本人女性が優勝するのは49年ぶりのことらしい。世界一権威のあるミスコンらしいから、きっとすごいことなんだろうと思う。

ただ、どう見てもこの優勝した女子があまりきれいに見えないのは、きっと自分だけではないと思う。少なくとも、日本人が考える日本人的な美人でないことだけは確かだ。一言で言うと、いろんな意味ですごすぎて男子としては思い切り引く、そんな感じだ。

審査員の構成はどうなっているのかよくわからないが、きっと欧米人が多いのだろう。これまでの優勝者にアメリカ人女性が多いことを見ても、それは推測できる。つまり、欧米人が考える美の基準と日本人のそれとでは、大きな違いがあるということだろう。

いや、ちょっと待て。今回の世界大会に日本から代表を送ったということは、日本で予選を行ったということだ。ということは、日本人の審査員が彼女を代表として選んだということになる。日本人の美の基準も欧米化してきているということか。いや、そんなことはないだろう。おそらく本番での審査員の好みを考えて、それに合う女子を選んだのだろう。

正直なところ、そこまで欧米人の好みに迎合する必要があるのか激しく疑問だ。美の基準はその国によって違うのが当然で、バタ臭い化粧やゴージャスな衣装で無理矢理欧米人好みに変身する必要はないだろう。傍から見ていて、滑稽ですらある。

大体、世界一権威があるといっても、結局はミスコンだ。水着姿で腰を振ってステージ上を歩く女子たちを、腹の出た脂ぎったオヤジが鼻の下を伸ばしながら、あの女子はなかなかいいお尻をしておる、などと審査をするわけだ。そんなオヤジたち(女性審査員もいるのだろうが)に認められるのがそれほど名誉あることなのか。

結論としては、ミスコンなどくだらないということだ。くだらないという以上に、傍から見ていて滑稽だ。真面目な顔をして審査という名の品定めをする審査員も滑稽なら、水着やドレスを着せられてステージで踊らされる女子も滑稽だ。



07/06/03

日本がIWCからの脱退を示唆したらしい。単なる感情論の応酬の場と化した感のある現在のIWCでは、脱退もありかなと思う。難しい話はよくわからないが、少しくらいクジラを捕ったっていいじゃないか、グリーンピースさん。あんたらはグリーンピースだけ食べてなさい。

クジラといえば、やっぱり給食で食べたクジラの竜田揚げを思い出す。やたらと硬いクジラの肉を何度も噛むうちに独特の旨みが口の中に広がって、それなりに美味かった。クジラの竜田揚げを心待ちにするほどではなかったが、それほど嫌いでもなかった。

給食のメニューで楽しみだったのは、たまに牛乳に付いてくるミルメークだ。粉末状のミルメークを牛乳瓶に入れ、頼りないストローでかき混ぜるのだが、瓶の底に溜まってなかなか溶けない。瓶を持ち上げて溶け具合を何度も確認しながらミルメークをかき混ぜるのが、何とも言えず楽しかった。あの甘ったるくて安っぽいコーヒー味は、今でも舌に残っている。

逆に、給食のメニューで一番嫌いだったのは、マーガリンで食べるコッペパンだ。自分はパンが嫌いだが、このパン嫌いは小学校の給食に原因があると今でも思っている。あのパサパサした食感がとにかく苦手で、いつも牛乳で無理矢理流し込んでいた。

しかし、給食は残さず食べましょう、という決まりがあり、全部食べ終わるまで全員で監視し合うという恐怖のシステムがあったため、いつも女子に囲まれて泣きながらコッペパンを食べていた覚えがある。自分の学年は男子は自分だけで、残りの5人はすべて女子だったのだ。いまだに女子とうまく話せないのも、このときの経験が原因だと思っている。

この恐怖のシステムから逃れようとした自分は、コッペパンを半分だけ食べ、残りは机の奥深くに隠すという荒業を編み出した。終業式の日に机の中を整理すると、カビが生えてカチカチに硬くなったコッペパンが何本もゴロゴロと転がり出てきたものだ。ドラエもんの四次元ポケットかと思うくらい何本も出てきた。

ということで、クジラといえば連鎖反応的にコッペパンを思い出す。コッペパンにマーガリンの日は、給食の時間が本当に憂鬱だった。なぜあんなにパサパサしたものを給食で食べなければならないのか、いまだに理解できない。IWCも不毛な議論はやめにして、給食におけるパンの必要性について議論してもらいたい。



07/05/27

愛車の流星号でぷらっとワンハンドレッドヒルズまで行ってみた。バブル期に1軒数億円という価格で売られていた超高級住宅地だ。ビバリーヒルズをもじった「チバリーヒルズ」で話題になった場所、と言えば、「ああ、あれね」と思い出す人も多いのではないか。

最近ではバブル期の数分の1の価格まで下がったということで、もしかしたら自分にも買えるのではないかと思って見学に行ったのだ。なにしろ、大嫌いな満員電車に毎日揺られて大嫌いな仕事を毎日しているわけだから、それくらいの蓄えは多分あると思う。

最寄り駅は外房線の土気駅だが、ここは本当に千葉の田舎ですか?と思うような高級感の溢れるたたずまいだ。なにしろ1軒あたりの敷地が広い。下手な大使館よりもずっと立派な豪邸が立ち並ぶさまは圧巻だ。庭にプールを作っている家もある。

しかし、こういう豪邸に住む人たちでも、日常の買い物は近所のスーパーに行くのだろうと思うと、ちょっとだけ笑える。まさか毎日紀ノ国屋や成城石井に買い物に行くわけではないだろう。そして、東京に用事があるときは、あの貧乏臭い外房線に乗って出かけるのだろう。まさか、お抱え運転手に毎日東京まで運転させるわけではあるまい。

どんなに高級感を演出したところで、一歩外に出れば、そこはやはり土気なのだ。どう頑張っても千葉は千葉であって、ビバリーヒルズにはなれない(誤解のないように書いておくと、土気(正確にはあすみが丘)自体は、きれいに区画された素敵な街です)。

それはともかく、新しく売りに出されている区画がいくつかあったので、家に帰ってから販売価格を調べてみたところ、500坪の土地で8,500万円だった。無理をすれば買えないこともないが、毎月の管理費が9万円もかかるということを知って、今回は購入を見送ることにした。無理して買っても維持できない可能性がある。

ということで、チバリーヒルズの住民になることはあきらめたが、意外なところでここの住民と自分との共通点を見つけた。それは、ほとんどの住人が表札をローマ字にしていることだ。実は、自分のマンションの表札も「NAGAHASHI」なのだ(しかも斜体)。なんだか自分のセンスが恥ずかしくなった。



07/05/20

今回は、愛知県の発砲立てこもり事件について書いてみたい。ここのところ(元)暴力団員による発砲事件が流行しているようだが、そろそろ一般人にも銃が流出しそうな勢いで怖い。いや、きっと流出し始めているのだろう。どうにかならないものか。

それにしても、事件発生から解決までの28時間という長丁場を、この犯人はよく一人で頑張ったものだ。自分なら午後11時くらいになったところで寝ていると思う。自分は朝型人間なのだ。もし人質を取って立てこもるなら、早朝4時くらいから立てこもりたい。なにごとも、早起きは三文の得である。

それはともかく、今回の警察の対応はお粗末だった。これだけ時間をかけておきながら犠牲者が出ているのだから、最悪の結果と言ってもいいだろう。なにより、警察官が撃たれて倒れているのに、5時間も放置しておいたというのが信じられない。放置プレイはSMの世界だけに留めてもらいたい。

防弾チョッキを着込んだSATの隊員が射殺されたのは不運としても、その後の対応が最悪だ。犠牲者が出た時点で突入を図ってもおかしくないはずなのに、役に立たない説得をダラダラと続けるばかり。あまりにものんびりし過ぎてはいないか。

もっと解せないのは、人質が自力で脱出したにも関わらず、ここから犯人を逮捕するまでさらに数時間を要していることだ。せっかく人質という最大の足かせがなくなったのに、何をためらっているのか。結局警察は何もやっていない。こんなに頼りにならない警察では、人質だって自力で脱出しようという気にもなるだろう。

一番解せないのは、逮捕の瞬間だ。ようやく犯人が出てきたにも関わらず、説得のためなのか、逮捕までさらに何分かを要している。まったく、何をやっているのか。こんな犯人は、見せしめのためにも、家から出てきた瞬間に取り囲んでタコ殴りにすればいいのだ。

犯人を生け捕りにするのも大事かもしれないが、それは犠牲者が出ていない時点での話だ。こうした凶悪犯罪に対して、日本の警察はもっと高圧的になっていい。社民党の頭の悪そうな女性党首じゃないんだから、こんな犯人の人権などに配慮する必要はない。



07/05/13

ジェットコースターの死亡事故から1週間が経った。事故の後であわてて全国各地で安全調査が行われているが、今から調査してどうすると言いたくなるような対応の遅さだ。泥棒を捕まえてから縄を編んでどうする。

自分も遊園地に行くと必ずジェットコースターに乗るのだが、何回乗っても怖い。おそらく多くの人がそうだと思うのだが、大きく落ちるときがとくに怖い。横に揺れるだけなら平気なのだが、下に落ちるときのあのなんとも形容しがたい感覚がだめだ。

ディズニーランドを例にすると、スペースマウンテンは平気だが、ビッグサウンダーマウンテンが怖い。ディズニーシーを例にすると、レイジングスピリッツは平気だが、タワー・オブ・テラーが怖い。いや、本当にタワー・オブ・テラーは怖かった。

つまり、横の変化は平気だが、縦の変化に弱いのだ。スライダーの名手・伊藤智仁なら打つ自信があるが、フォークの名手・野茂英雄は打てる気がしない。ブレーンバスターの名手・故ディックマードックになら勝つ自信があるが、垂直落下式ブレーンバスターの名手・故橋本真也には勝てる気がしない。つまりはそんな感じだ。

それにしても、人はなぜジェットコースターに乗りたがるのか。なぜ、お金を払って並んでまで怖い思いをしたがるのか。万人が納得する合理的な理由は思いつかないが、少なくとも若い男女の共感を得られそうな理由ならば思いつく。それは「下心」だ。

「大して怖くなかったじゃん、あのコースター。なのにキャーキャー言っちゃってさ」「なによ、自分だって "おおおー" とか "うわわー" とか言ってたくせに」「言ってないよ」「言ってたよーだ」みたいな、はいはい勝手にやっててくださいと言いたくなるようなラブラブ状態を作りたいためだと思うのだがどうだろう。教えてエロイ人。

ということで、実は少子化対策にもつながるかもしれない可能性をジェットコースターは秘めていると思うわけだ。日本の未来を救うかもしれない大事なジェットコースターの点検だけは、ぬかりなくやっていただいきたい。強引なまとめで申し訳ない。



07/05/06

このところ、ネットカフェ難民なる言葉をよく聞く。アパートなどの住居を持たずに、ネットカフェや漫画喫茶などを根城に生活する人たちのことをこう呼ぶらしい。若者層を中心とした新しいホームレスの一形態、といったところか。

自分も漫画喫茶を利用することがある。飲んで終電を逃したときなどに便利だ。始発までの数時間を過ごすだけならば、2,000円も出せばお釣りがくる。カプセルホテルやサウナに泊まるよりもずっと安い。そこそこの規模の駅ならば、駅前に必ず1〜2軒はあるのもありがたい。ちょくちょく終電を逃してしまうお茶目なあなたに最適のスポットだ。

しかし、数時間の仮眠を取るくらいならば問題はないが、ここで生活するとなるとかなり大変だと思う。割り当てられたスペースはわずか2畳にも満たない。当然窓などはないから、長く居ると息が詰まる感じがする。本当に緊急避難的に使うだけの場所だ。

住まいのレベルというのは、考えている以上に生活に影響を及ぼす重要な要素だ。そのときの生活レベルを如実に表すのが住まいというものだからだ。自分の場合も、上京当初の住まいは6畳一間のボロ下宿だった。トイレもキッチンも共同で、部屋にはカーテンすらなかった。ついでに言うと、扇風機もコタツも冷蔵庫もなかった。

このボロ下宿を起点として何度か引越しをしたが、引越しのたびに部屋のグレードを上げていった。トイレ共同のボロ下宿からトイレ付きのアパートへ、さらにフロ付きのアパートを経てオートロック付きの新築アパートへと、生活レベルの向上に伴い、住まいのレベルも上がっていった。

小さいながらも自分所有の住まいを確保できた今となっては、当時の生活レベルに戻すことはもうできないと思う。カーテンすらない6畳一間のボロ下宿で生活しなければならないとしたら、生活すべてに希望を失って無気力な人間になってしまうだろう。

これがネットカフェだとしたらなおさらだ。これからの生活に夢など何も持てなくなる。ネットカフェ難民から脱け出すには、恥も外聞も捨てて親に援助を求め、とにかく安定した住まいを確保することだ。人間らしく生活したいのであれば、それ以外に方法はない。



07/04/22

今年から4/29が「昭和の日」になったらしい。ということは、今の天皇が変わると、今度は12/23が「平成の日」になるということか。この調子で天皇が変わるごとに休日が増えていくわけだ。50世紀になる頃には、祝日は年間何日になっているだろうか。それまで頑張って長生きしようと思う。

ということで、今年もゴールデンウイークがやってきた。特にこれといって予定はないが、やはり「ゴールデンウイーク」という言葉には心が浮き立つ。一年で一番気候のいい時季に「ゴールデンウィーク」という言葉を当てたのは、まさにネーミングの勝利だと思う。

ゴールデンと言えば、元横綱・輪島大士のプロレスラー時代の必殺技は、ゴールデンアームボンバーだった。これが後に「のど輪落とし」として多くのレスラーに引き継がれていった。のど輪落としを得意とするレスラーとしては、同じ角界出身の田上明が有名だ。

それはともかく、ゴールデンウイークである。どこへ出かけるにしろどこも混んでいて、どうしても遠出をする気になれない。この期間は旅行代金なども特別価格で犯罪のように高くなるから、さらに遠出をする気が失せる。出て来い、責任者。

ということで、連休中は近場で散歩をして過ごすというのが、ここ最近の定番である。しかし、普段と同じ街歩きではさすがにつまらないから、ちょっとだけ遠くに出かけて旅行気分を味わうのがいい。こんな調子で、何年か前には多摩川沿いを河口まで歩いたこともあった。よく歩いたものだ。今思い出しても脚が痛くなる。

自分の一番のお勧めの散歩コースは、今のところ玉川上水である。東京にもこんなに緑が深い場所があったのかと思わせる緑道が、端正な川の流れに沿ってどこまでも続いている。誰にも邪魔されずに思い切り物思いにふけりたいときなどにお勧めだ。

03/04/27の覚書にも書いたが、新婚旅行は玉川上水に行こうと密かに決めていた。何を間違ったかおフランスなどに行ってしまったが、今年のゴールデンウイークこそは嫌がる相方を連れて、あのとき果たせなかった夢をかなえたいと思っている。



07/04/15

久しぶりに早稲田界隈を歩いた。いつも通っていた中華料理屋が新しいラーメン屋に変わっていたり、バイト先の雀荘が背の高いビルに変わっていたり、西日のきつい下宿屋が5階建のアパートに変わっていたりと、思い出の場所がことごとくなくなっていた。

大学のキャンパスも、学生会館などの建物がいくつか新しくなっていたが、全体的には昔とそれほど変わっていなかったので安心した。しかし、生協のトイレに入ってみて驚いた。自分が学生の頃には壁一面に落書きがあったのに、今ではすっかりきれいになっていた。

もしかしたら、自分たちの時代の学生よりも今の学生の方がお行儀はいいのかもしれない。荒れる成人式の映像がテレビで放送されたりすると、「今の若い者は」などと言いたがる大人がいるが(実は自分もたまに言ってみたりするが)、若者の本質は意外に今も昔も変わらないのではないか。

「今の若い者は」と感じてしまうのは、そう感じてしまうくらいに自分が経験を積んで年齢を重ねたということだろう。だから、こう感じるのはむしろ正常な感覚なのだ。いつまでも若者に共感できるものわかりのいい大人なんてロクなもんじゃない。頑固オヤジ万歳だ。

その他に、時代が変化しているということも大きな要因だろう。時代とともに価値観や考え方も当然変わってくる。江戸時代の人間が平成の現代に来たら、「今の若い者は」どころか、自分たち大人でさえまったく理解不能な生き物に見えてしまうだろう。

だから、ことさら「今の若い者は」などと嘆く必要はない。大人から見た若者というのは、今も昔も、モラルと常識に欠けた粗暴な、だけどエネルギーに満ち溢れたうらやましい存在なのだ。そんなエネルギーを失ってしまった大人が、負け惜しみで「今の若い者は」と言っているだけなのだ。

思い出の場所の風景が変わった分だけ、時代も変わっている。寂しくもあるが、当然のことでもある。今の若者だって、20年後にはきっと同じことを感じるのだろう。そして、「今の若い者は」とつぶやくに違いない。落書き一つない生協のトイレでそんなことを思った。



07/04/08

今日は千葉県議会議員と千葉市議会議員選挙の投票日だが、自分は先週の土曜日に早々と期日前投票を済ませてきた。期日前投票の投票所の方が、本番の投票所よりも家から近いためだ。

閑散とした投票所で何人も待機している職員を見て、期日前投票にかかる人件費も馬鹿にならないと思った。なにしろ投票日までの一週間、毎日朝から晩まで何人もの職員を使って投票を管理するわけだ。相当な人件費がかかるに違いない。そこまでして期日前投票を行う必要があるのか疑問だ。

考えてみると、投票の制度も以前とはだいぶ変わってきた。不在者投票が期日前投票に変わり、投票時間も何時間か延びた。それもこれも投票率を上げるための作戦だが、投票率を上げるということがそれほど大事なことなのだろうか。

はっきり言って、投票率が100%になろうが10%になろうが、結果はどちらも同じだと思う。わずか数千世帯のサンプルで集計している視聴率を考えてみればいい。だから、「あなたの一票が日本を変える」なんていうマスコミのキャッチフレーズは嘘っぱちもいいところである。自分ひとりが投票しなくても結果は変わらない。

だったらなぜ、国や自治体は投票率を上げようといつも躍起になるのか。それは、有権者からの「お墨付き」をもらいたいからだと思う。投票率が70%の場合、「これだけ多くの有権者が投票しての結果だから、結果に文句をつけるな」と強気に出ることができる。

これが30%の投票率だった場合、もしもっと投票率が高かったら結果は違っていたかもしれない、という考えが有権者の間に残ってしまうことになる。これでは政治はやりにくい。つまり、「有権者の総意で選んだ結果だから文句をつけるな」と言いたいがために、投票率を高くする必要があるのだ。

結論としては、投票率が上がらなくても結果は変わらないし、投票率を上げるために努力する必要もないということだ。それでも自分は、これからも投票に行くつもりだ。投票したのとしないのとでは、テレビの開票速報を見る楽しみが全然違うから。



07/04/01

今年もきれいに桜が咲いた。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と書いたのは梶井基次郎だが、夜桜などの妖しいまでの美しさを見るにつけ、あながち嘘だとも思えなくなってくる。というか、実はあながち嘘だとは言い切れないのだ。

あれは、自分が大学4年の4月のことだった。大学の仲間4人と、福島のひなびた温泉宿に泊まりにいったときのこと。さんざん飲んで仲間の1人が酔いつぶれてそろそろお開きというところで、自分は夜風にあたりに外へ出た。宿の裏手に見事な染井吉野があったことを思い出し、そちらの方に歩き出した。

明るい月夜に照らし出された満開の桜が目に入ると同時に、なにやらザクザクと土を掘るような音が聞こえてきた。よく見ると、髪の長い若い女性がスコップで桜の樹の根元を掘っている。着ている服を見ると、どうやら宿の従業員らしい。その異様な光景に圧倒された自分は、声も出せずにその場に立ち尽くした。

その後のことはよく覚えていない。きっと昨日のことは酒に酔ったために見た夢だったのだろう、そう自分に言い聞かせながら、帰り際に宿の女将さんに、「この宿には、20歳くらいの髪の長い女性の従業員がいますか」と訊いてみた。すると女将は、お客さん、もしかして見ましたか、と眉をひそめて答えた。

女将の話によると、以前この宿に住み込みで働いていた男性がいたらしい。その男性は若くして病気で亡くなったが、死ぬ間際に、自分の骨は桜の樹の下に埋めてほしいと言い残したそうだ。この男性には身寄りがなかったため、宿ではそのとおりにしたらしい。

しかし、この男性には将来を誓い合った女性がいた。その女性は男性の形見である宿の服を着て、この桜の樹で首を吊って男性の後を追ったのだという。その女性のお墓は別のところにあるから、男性が亡くなった桜の季節になると、男性と添い寝をしようとして現れるのだろうと女将は言った。

幽霊などは一切信じていない自分だが、このときばかりはそんな悲しい幽霊もいていいと思った。だから、桜の樹の下に屍体は埋まっていないかもしれないが、骨が埋まっていることはあるかもしれない。そんなことをふと思った、エイプリルフールの一日。



07/03/25

今週は、先週書こうと思って書けなかったホリエ君の実刑判決について書いてみたい。すでにニュースとしての旬は過ぎてしまった感じだか、とりあえず涙の数だけ水割りをください、くらいの勢いで書いてみる。って、それは堀江淳だね。

今回の実刑判決は、かなり意外な判決だった。有罪判決は間違いないと思っていたが、おそらく執行猶予がつくだろうと予想していたからだ。こういう経済事件でここまで厳しい判決が出るのは、あまり例がないのではないか。ホリエ君のあのふてぶてしい態度のために、この厳しい判決となったのは間違いないだろう。

日本の裁判では、求刑の7掛けから8掛けの判決が出るのが普通だ。つまり求刑が10年ならば判決は7年から8年となる。過去の裁判では、無期懲役の求刑に対して死刑判決が出たこともあると何かの本で読んだことがあるが、それは極めてまれなケースで、まず7掛けから8掛けになると考えて間違いない。

7年になるか8年になるかは、被告人の反省の態度など、いわゆる「改悛の情」によって決まる。1年くらいなら大した違いはないが、改悛の情が認められるかどうかで、被告人にとって天と地ほども違う判決が出るケースがある。

それは、死刑と5年以内の短期刑が求刑された場合である。前者の場合、考えられる判決としては死刑か無期のいずれかしかないため、改悛の情がどこまで認められるかが、まさに生死の分かれ目となる。後者の場合、ブタ箱で臭いメシを食うか執行猶予がついてそのままシャバで生活できるかどうかの分かれ目となる。

裁判官も人間だから、被告人の態度によって判決が左右されることは当然あるだろう。美人の被告人には比較的軽い判決が出る場合が多い、とうのはよく言われることだ。反対に、結婚詐欺の被告人は美人になるほど判決が重くなるというから面白い。

今回のホリエ君は、思い切り作戦を間違ってしまったようだ。罪を認めて反省の態度を示していれば、執行猶予がついていた可能性は高い。控訴審も同じ作戦で臨むのであれば、ホリエ君のブタ箱行きは避けられないだろう。



07/03/18

今週はホリエ君の実刑判決について書こうと思っていたのだが、何気なくネットサーフィンしていたときに出会ったネタがあまりにも自分のツボにはまったので、予定を変更してこのネタを紹介することにした。

マーク・パンサー氏を知っているだろうか。小室哲也氏と "globe" というユニットを結成して一時代を築いたことのあるミュージシャンだ。globe の変なハーフの人、と言えばわかる人も多いだろう。そのマーク氏がなにやら怪しいビジネスを始めたらしい。まずはここを見ていただきたい。

どうだろう、これを見たあなたもかなりツボにはまったのではないだろうか。なにがすごいと言って、こういうサイトでいきなり「〜だよ」とか「〜じゃん」という話し言葉で書いてしまうセンスがすごい。いきなり香ばしさ全開である。これほど香ばしいネタを2ちゃんねらーが放っておくはずがなく、早くも「違うよ、全然違うよ」のガイドラインができている。

マーク氏のブログを見て、この人はすごく素直で前向きな人なんだと感じた。文章の最後にいちいち「!」マークを付けるところからも、その暑苦しいくらいの前向きさが読み取れる。しかし、マルチ商法というビジネスを本当に理解できているのかが疑問だ。誰かからうまい話を吹き込まれて、その前向きさゆえに一気に舞い上がってしまったのではないか。

それに、扱う商品がインチキ臭いジュースだというところも怪しさ全開である。あのアムウェイだって、幅広いラインナップの商品をそこそこの品質で提供しているのに、インチキ臭いジュースだけで勝負しようとは、見上げた根性だ。1リットルのジュースが1本8,000円もするというから驚く。

どんなに立派なビジネスプランを述べたところで、所詮マルチはマルチだ。みんなに平等にチャンスがあるのがマルチのいいところ、というのがこのインチキ商法の誘い文句だが、最初に始めた人のほうが有利なことくらい、小学生にだってわかる理屈だ。

こういうインチキ商法は、こうして自分のサイトやブログで取り上げて笑いものにするのが正しい姿勢だと思う。こんなインチキ商法にひっかかる人が少しでも減れば、ネタとして書いた甲斐もある。それにしても、「違うよ、全然違うよ」は、これから激しくマイブームになりそうな予感。



07/03/11

来月の統一地方選挙に向けて、地元の稲毛駅前も立候補者の街頭演説でだいぶにぎやかになってきた。何をすき好んで政治家などという面倒な商売をやりたがるのかよくわからないが、立候補するからにはとりあえず頑張ってもらいたい。

などと言っている自分も、実は立候補した経験があるのだ。あれは忘れもしない中学2年の冬のことだった。何を血迷ったのか、生徒会長などという面倒な役職に立候補してしまった。生徒会長になればモテモテかも、というような下心がおそらくあったのだと思う。

1学年40人にも満たない小さなクラスだったのであまり自慢にはならないが、成績は常にトップクラスだった。卒業前の最後の期末試験では、500点満点の490点というハイスコアを叩き出したこともある。少なくとも、対立候補のK君よりは成績はよかったはずだ。

しかし、自分はあまり真面目な生徒ではなかったため、人望という点では真面目なK君に大きく遅れをとっていた。自分はやんちゃな先輩には可愛がられていたのだが、真面目な先輩からはけむたがられていた。同じく、やんちゃな後輩には慕われていたのだが、真面目な後輩からは避けられていた。

投票の結果、わずか数票の差で落選してしまった。おれって意外に人望がないんだなと、このとき初めて思った。「意外に」という感想でもわかるとおり、このときまで自分はみんなの人気者だと思い込んでいたのだ。なんておめでたいヤツなのかと、改めて思う。

それ以来、「長」と名のつく役職には就いたことがない。自分には人望がないと悟ったから平気だったが、父親が高校の担任の教師と面談したときに言われた言葉を聞いたときには、さすがにおれってどうなのよ、と思ってしまった。

その教師いわく、「息子さんは委員長をやってもおかしくないくらい成績はいいのに、なぜか一度もなったことがない。名前すらあがったことがない。よほど人望がないんでしょう。こういうタイプの生徒は非常に珍しい」ということらしい。悔しいが、激しく的を射た感想である。このまま一生、人望のない人生を送りそうな悪寒。



07/03/04

全国で金属の盗難が相次いでいるらしい。お寺の屋根に使う銅板まで盗まれたというから、まるで物資の乏しかった戦時中のようだ。次なるターゲットはお寺の鐘か。

このニュースで、自分も子供の頃に同じようなことをしたのを思い出した。少ない小遣いをどうやって増やすかを友達と検討した結果、コーラの空き瓶回収という方法を思いついたのだ。当時、コーラの1リットル瓶は30円で買い取ってくれるというシステムがあったため、100本集めれば3,000円だぜ、おお、すげえ、とバカな自分は考えた。

しかし、佐渡の田舎でコーラの空き瓶がゴロゴロと転がっているわけもなく、よその家から盗む度胸もなかったため、この計画は企画倒れに終わった。よく考えると、ところかまわず金属を盗むという行為はコーラの空き瓶を集めるという行為によく似ていて、なんともレベルの低い犯罪だ。どうせ犯罪を犯すなら、もっと頭を使ってもらいたい。

かく言う自分は、子供の頃に頭を使った犯罪を犯したことがある。その昔、「ビバオール」という名前の1本30円のアイスがあった。バーに「ビバオール」の焼印があると1本あたりだが、「ビバ」や「オール」だけの焼印もあり、この場合は2本合わせて1本あたりというシステムだった。

このシステムでは当然ながら、「ビバ」や「オール」だけが手元に残ってしまう場合がある。自分の場合も「オール」だけが手元に残ってしまい、なかなか「ビバ」を引き当てることができずに困っていた。そこで、茶色の色鉛筆でバーに「ビバ」と書いてみた。

それは見事な出来栄えで、これなら店のおばちゃんをだませると確信した自分は、ドキドキしながら「ビバ」と「オール」の2本のバーを差し出した。おばちゃんはちょっと確認しただけで、すぐにアイスをくれた。ドキドキしながら食べたアイスは、あまり美味しくなかった。

今から思うと、おばちゃんにはバレていたような気がする。子供心にもバレていることが薄々わかっていたから、それから同じことはしなかったのだと思う。金属を盗んでいる奴らも、子供の頃にビバオールを食べていれば、これほどレベルの低い犯罪者にはならなかっただろう。とりあえず、今からでもビバオール食っとけ。



07/02/25

今回の騒動で、原野商法という悪徳商法があることをはじめて知った。正確には今回の事件は原野商法の二次被害とでも言うべきものだが、あの手この手でさまざまなだましのテクニックを思いつく悪徳業者には心底感心する。

自分は今のところこうした悪徳商法にひっかかったことはないが、某○ムウェイのミーティングに参加したことはある。今から10年以上も前のことだが、知り合いに誘われたので喜んで参加した。自分はインチキ臭いことが大好きで、当時からアムウェイも悪徳商法という認識を持っていたから、どんなインチキでだますのか興味津々だった。

会場には20人くらいが集まっていて、演壇にはルビーDD (アムウェイ・ヒエラルキーの真ん中くらいのレベルの人) が立って説明を始めた。自分はそのルビー氏の真ん前の席に座らされた。もうこの時点で、新顔の自分をなんとか取り込もうとする熱いエネルギーが痛いくらいに伝わってくる。

最初はお得意の洗剤デモから始まり、次にビジネスの説明があり、最後に成功の秘訣が説明された。アムウェイにとっての「成功」とは、高級外車に乗ったり、豪華な海外旅行をしたり、セレブと交遊したりと、なんともチープな「成功」であることがおかしかった。

全体的な説明はお粗末なもので、この説明を聞いてビジネスを始めようと考える人間の気持ちがわからなかった。しかし、会場の空気は異常なくらいに前向きで、ルビー氏のつまらないギャグにもみんな腹を抱えて笑う始末だ。面白いから笑うのではなく、最初から笑おうとして笑っている、と言えばその場の雰囲気が伝わるだろうか。

説明が終わった後も、そこかしこで「よし、自分もやるぞ」的な前向きで熱い会話がされている。はっきり言って、宗教に近いものを感じた。なぜアムウェイが社会的な問題になり、そして現在まで生き延びてきたのか、その理由が理解できた気がした。

原野商法でだまされる人もアムウェイにのめりこむ人も、人間的には素直で正直なのだと思う。本来は美徳であるべき素直さや正直さが、時と場合によって負の方向に働くというのは、なんとも皮肉なものだ。



07/02/18

奥歯の詰め物が取れたので、歯医者に行った。この前歯医者に行ったのは10年くらい昔のことだから、それなりに長持ちしたと思う。そのとき一緒に治療した残りの13本についてはいまだに問題なく頑張ってくれいている。

歯医者が好きな人はいないと思うが、自分も嫌いだ。多少の痛みくらいなら我慢してなるべく歯医者に行くのを遅らせ、どうしても我慢できなくなった時点で嫌々ながら歯医者のお世話になるのがこれまでのパターンだった。この世の中で仕事の次に嫌いなものが歯医者だと言ってもいいくらいだ。不惑を迎えても相変わらずダメだな、おれ。

しかし今回は、詰め物が取れた翌日に歯医者に行った。やはり不惑を迎えて、少しは人間的に成長したらしい。偉いぞ、おれ。とはいえ今回は詰め物を詰めなおすだけだから、大したことはない。さすがにこんなことでビビるほど小さな人間ではないということだ。

にも関わらず、やはり歯医者に行くのには抵抗がある。診察台に乗って無抵抗の状態で口を大きく開けなければならないからだ。自分はあまり丁寧に歯を磨くほうではないため、歯もあまりきれいではない。そんな状態の歯を、無防備に一般公開しなければならないのが恥ずかしい。

大抵の歯医者は中年のおじさんだからまだいいのだが、助手には若い女子が多いので困る。美人さんだったりするともっと困る。「大分汚れていますね」などと若い女子に言われるとかなり恥ずかしい。しょこたん風に言うと、ギザハズカシス、ってやつだ。

それはともかく、なぜ歯学部は医学部とは独立しているのか前から気になっていた。ネットで調べてみたところ、明治時代に歯学が制定されたときは、医学ほどの知識は必要ないため別個の学問として制定され、その制度が今でも続いているらしいということがわかった。

などと、取って付けたような聞きかじりの知識を最後に披露して、不惑を迎えても相変わらずダメな自分を少しだけごまかしてみた。自分みたいな恥ずかしい思いをしなくて済むように、よい子のみんなは丁寧に歯を磨きなさい。



07/02/11

気付いたら、いつの間にか40歳になっていた。これで、人生の約半分が終わったことになる。しかし、年齢とともに時間の経過が早く感じられるようになるから、体感的には3分の2くらいが終わったことになるのかもしれない。あな恐ろしや。

改めて振り返るまでもなく、これまでの人生はかなり無駄に生きてきたなと思う。人間として生まれたからには何事かを成してみたいと思わないこともないが、今からではもう手遅れだろう。そもそもそんな能力がないことなど、自分自身が一番よく知っている。

人生の意味、つまり人間は何のために生まれてくるのか、人生の目的とは何か、ということをたまに考える。しかし、自分はそんな哲学や宗教っぽいことを考えるのが苦手なので、考えるフリだけして実はほとんど考えていない。高尚なことを考えるとすぐに頭が痛くなるのだ。それでも一応、自分なりの結論は出している。

それは、人生には意味などないということだ。人間は生まれて、そして死んでゆく。その間に勉強したり、仕事をしたり、趣味を楽しんだり、恋愛をしたりするが、そのどれも人生の意味ではなく、人生の単なる一過程にすぎない。食べて寝るだけではつまらないから、こうしたことでちょっとした色づけをしているだけなのだ。

だから、人生の意味とは何か、などと難しいことを無理矢理考える必要はないと思う。そんな難しいことを考えるよりも、もっと楽しいことを考えて毎日楽天的に生きたほうがずっと健康的だ。短い人生、辛いことや苦しいことや悲しいことよりも、楽しいことや嬉しいことや面白いことばかりを経験して生きていきたい。

そうは言っても、辛いことや苦しいことや悲しいことは生きていく上で必ず経験しなければならない。ならば、こういうことはできるだけ避けて生きていきたい。何の苦労もしていない人間はだめだとよく言うが、一生苦労を知らずに生きていくのが一番の幸せだ。

自分の人生を振り返るときに、辛いことや苦しいことや悲しいことよりも、楽しいことや嬉しいことや面白いことのほうが多かったと思うことができれば、それで充分だと思う。まだまだ迷いの多い不惑だが、この考えだけは迷うことなく生きていきたい。



07/02/04

2007年は「第1回万国貝塚博覧会」が地元の千葉市で盛大に開催されるということで、万博に行く前に貝塚の予備知識を得るため、加曾利貝塚の博物館を覗いてみた。もちろんそんなイベントなんてないから、あわててググったりしないように。

縄文式土器と並んで縄文時代の代名詞とでもいうべき貝塚の歴史は、数千年にも及ぶ。縄文人が営々と積み重ねてきた貝殻が、縄文時代の歴史そのものを築き上げてきたわけだ。そう考えると、貝殻の一枚一枚が貴重なものに見えてくる。

しかし、縄文時代から弥生時代、つまり狩猟時代から稲作時代へと移行するのに何千年もかかったというのだから驚く。何千年という気が遠くなるような時間を、縄文人はひたすら貝や魚や獣を食べ、土器や斧や矢尻を作って過ごしていたのだ。この進歩の遅さは、今の時代では考えられない。

自分が生まれてからわずか40年ばかりしか経っていないが、その間の進歩たるやすさまじい。レコードがCDになり、ビデオがDVDになり、携帯電話が登場し、インターネットが急速に広まった。これほどの進歩は、歴史的に見ても例がないのではないかと思う。

つまり、時間が経てば経つほど、その進歩の速度も加速度的に増していくということだろう。狩猟時代から稲作時代へ数千年かかったものが、テレビ時代からインターネット時代へと進化するのにたったの数十年しかかかっていない。このペースで行けば、タイムマシンや宇宙旅行など、SF世界の夢物語だと考えられていたことだって、近い将来に実現しそうな勢いである。

そんなことを考えながら博物館の展示を見ていたら、あっという間に閉館の時間が近づき、残りは駆け足で回った。自分はいつも最初からじっくりと見てしまうため、最後は必ず時間が足りなくなってしまう。時間配分を学習しなければとは思うのだが、この癖はなかなか直らない。

それにしても、他の見学者たちの見て回るスピードは速い。ほとんど足を止めずに展示物をスキャンして回っている感じだ。縄文人の何千年にも渡る歴史をそんなに早足で回ったら申し訳ないような気がするのは、自分だけだろうか。



07/01/28

今、左投げに挑戦中だ。暇があれば部屋の窓ガラスに向かってシャドーピッチングを繰り返し、フォームのチェックに余念がない。その甲斐あってか、最近ようやくフォームがサマになってきたような気がする。

なぜこんなことを始めたのかと言えば、少年サンデーに連載されているMAJORという野球マンガの影響だ。右肩を壊しながらも左投げのピッチャーとして復活する主人公吾郎くんの活躍を描いたもので、実際のところ、利き腕とは違う腕でボールを投げられるようになるものなのか、自分でも試してみたくなったのだ。

左右どちらでも打てるという選手ならば大勢いる。イチローや松井といった右投げ左打ちの選手がそうだ。もともと右利きだったのを左打ちに変えたわけだから、当然右でも打てるわけだ。しかし、左右どちらでも投げられるという選手は記憶にない。

ゴルフの世界にも、左打ちから右打ちに変える選手はいる。岡本綾子や牧野裕といったところが有名だ。しかしこれは、ゴルフクラブという道具を使ってのことだから、野球でいうところのスイッチヒッターみたいなもので、素手でボールを投げるスイッチピッチャーと比較すべきではないだろう。

自分の記憶が正しければ、20年くらい前にスイッチピッチャーとしてパ・リーグの球団に入団した選手が1人いたはずだ。利き腕はオーバースローで投げ、もう一方の腕ではアンダースローで投げるピッチャーだったと思う。その後、この選手のことは聞いた記憶がないから、おそらくプロでは通用しなかったのだろう。

結論としては、マンガのように利き腕とは違う腕で剛速球を投げるのは限りなく不可能に近いということだ。自分も左投げの練習を開始してから半年近く経つが、石ころを投げても右腕で投げた場合の半分も飛ばない。このまま練習を続けても、右腕と同じ感覚で投げられるようになるとは到底思えない。

それでも、いつかは吾郎くんのようになることを夢見てこれからも練習を続けるつもりだ。しかし、部屋でシャドーピッチングを繰り返す自分に向けられる相方の視線が、日を追うごとに冷ややかになっていくのが気になる。



07/01/21

納豆にダイエット効果があるという内容のテレビ番組が放送されたため、スーパーの納豆が一時的に売り切れになるほどの反響があったらしい。日本には頭の悪いデブがなんと多いことか。

自分はこの番組は見ていないので、何をもってダイエット効果としているのかはわからないのだが、とりあえず何かを食べて痩せるわけがないではないか。痩せたければ、食べた以上のカロリーを消費する以外にはない。それをせずに納豆を食べて痩せようなんて、なんと都合のいい考えか。

痩せたければ、食事の量を減らして運動量を増やすことだ。これ以外にはない。巷で噂されているような「○○ダイエット法」なんてものは、すべてが眉唾モノだと思って間違いない。

結局、この番組の内容には誇張があったことがばれてしまったというから、なんともマヌケなオチがついたわけである。この場合はやらせ番組を作った方が悪いが、こういうインチキ臭い番組を頭から信じてしまう方もどうかと思う。とにかく、この手の番組はあまりにも作りがお粗末である。

一番お粗末だと感じるのが、被験者の数があまりも少ないということだ。何かの効果を実証する際にグループAとグループBに分ける場合など、各グループの人数が10人くらいということがよくあるが、こんなに少ない人数で有効なデータが得られるはずがない。

また、実験を行う場合の条件もより厳密なものにしないと、原因と結果の因果関係が正しく証明されたとは言いがたい。自分みたいな素人が見ても、それはあまりにも短絡的な結論だと突っ込みを入れたくなるような実験ばかりである。

こういう実験番組は、そのほとんどが「こういう結果になれば面白くなる」という前提で作られていることを心に置いて見るべきだと思う。そうすれば、番組終了と同時に納豆を買いにスーパーへ走るというマヌケなことはしなくなるだろう。



07/01/14

なんだかすごいな、カオリン。旦那をワインの瓶で撲殺してバラバラに切断するなんて、なかなか若い女子にできることではない。殺害後にいろんな偽装工作をしているところもさらにすごい。

しかし、なぜカオリンは殺害する前に離婚しなかったのだろうか。旦那が殺害されれば、真っ先に疑われるのはその妻であることくらいは小学生にだってわかりそうなものだが。離婚だけでは飽き足らず、殺さなければ気が済まないくらい憎悪していたということか。

しかし、自分がこの事件で一番驚いたのは、旦那の年収が一説によると1億5千万に達するということだ。しかしこの旦那には借金があったらしいから、さすがにこの金額はガセネタだとは思うが、こういう年収を稼いでいる人間がいるのは事実だろうと思う。モルガン・スタンレー恐るべし。

年商が1億5千万という会社だって日本にはいくらでも存在するのに、それを一人で稼ぐというのだから驚く。しかも年商ではなく年収だから、年商にするとその何倍にもなるのだろう。一人の人間がこういう金額を動かすというのは、自分みたいな貧乏人にとっては想像できない世界だ。

しかし、いくらエリートと呼ばれようが、自分はこうした金融業の人間を尊敬することはできない。結局のところ金融業とは、他人から預かった金を運用して利ざやを稼ぐことだ。こんなヤクザな商売をする人間よりも、自分の手でモノを作り上げる職人を自分は尊敬する。

安易な結論だが、幸せは金では買えないということだ。ある程度の幸せは買えるが、金が幸せを約束するものではないことだけは確かだろう。旦那がDVに走ったのも、金では埋めることのできない何かがあったからだと思う。

DVと言えば、実は自分もDV男である。相変わらず料理や洗濯はできないので、休みの日に掃除くらいは自分からやるようにしている。そんなドメスティック・ボランティアな自分の年収は、恥ずかしいくらいに低い。



07/01/07

あけおめ、ことよろ >ALL m(_ _)m。ぷぷ。こんな流行最先端の表現を使いこなすなんて、新年早々時代の流れに乗ってるな、おれ。まだまだ若い衆には負けないぜ。

ということで、今年は西暦2007年で、和暦でいうと平成19年ということらしい。ついでにいうと、昭和82年でもある。年が明けると、今まで覚えていた西暦と和暦に1年を足すというのは誰でもすることだと思うが、自分のように昭和の年号にも1を足す人も少なくないのではないかと思う。

今でこそ、年号の表記はほとんど西暦に統一されているが、昭和から平成に変わった頃はまだまだ和暦による表記が多かったため、平成5年なら昭和68年などと頭の中で変換する必要があった。そのときの癖で、いまだに自分の中では昭和の年号が生きているのだ。

しかし冷静に考えると、和暦は必要ないのではないかと思う。天皇の代が変わるたびに年号が変わっていたのでは、忙しくてしかたがない。今よりもっと頻繁に年号が変わっていたであろう昔の人たちは、西暦という概念がない中でどうやって通算の年号を把握していたのだろうか。

自分が和暦は必要ないと考えるようになったきっかけは、システム・エンジニアの時代に年号が関係するプログラムを作ったことだ。システムの内部では当然西暦で管理するのだが、人事管理のシステムだったため、辞令などは和暦で出力する必要があった。これが思いのほか面倒で、面倒なことが大嫌いな自分は和暦の存在を恨んだものだった。

もちろん、和暦にもいいところはある。たとえば、時代小説で「1865年」と書いたらサマにならない。ここはやっぱり「慶応元年」と書いたほうが雰囲気は出る。昔話をするときも、「1950年代」というよりは「昭和30年代」といったほうがピンとくるだろう。

いっそのこと、和暦はこうした「象徴」としてだけ残しておいて、役所の事務手続きなどはすべて西暦で処理したらどうかと思う。西暦という便利なメートル法の物差しがあるのに、和暦という不便な尺貫法の物差しをわざわざ使う必要はないだろう。



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