06/12/24

とりあえず今年も終わりということで、一年のまとめでも書こうかと思ったのだが、特にこれといって書くこともない。この歳になってくると、毎年流されるように時間だけが過ぎていくようで、気付いたら一年が終わっていたという感じだ。

ということで、今年読んだ本の中で心に残ったものを紹介して適当にお茶を濁しておきたい。年末特番と称して、過去の番組のダイジェスト版を放送する手抜きテレビ番組みたいで気が引けるが、毎週書いていれば、やはりネタにつまることもあるのだ。どうか大目に見てもらいたい。

洋書のベストには、Dave Peltzer氏の「A Child Called "IT"」を挙げたい。実の母から凄絶な虐待を受けながらも、たくましく成長していく過程を描いたノンフィクション作品である。この作品を含めて全4編から成るシリーズで、文章もやさしいので機会があればご一読を。ちなみに次点は、E.M. Forster氏の「Maurice」。

邦書のベストには、「名人に香車を引いた男」を挙げたい。これは将棋の元名人である升田幸三氏の自伝で、棋士が勝負師として生きることができた最後の時代を非常に良く描いている作品である。自分の将棋の腕前は、なんとか駒の動かし方がわかるレベルでしかないが、将棋を知らない人でも充分に楽しめると思う。

将棋つながりとして、これは去年読んだ本だが、大崎善生氏の「将棋の子」と「聖の青春」も非常に面白かった。どちらも実際の棋士を扱ったノンフィクションで、将棋の世界の厳しさと残酷さがよくわかる。自分はどちらの本も、読んで泣いた。

次点として、松垣透氏の「破門」を挙げておく。これは、落語家の立川談志が6人の前座を一斉に破門にした事件を題材にしたノンフィクションで、落語会の厳しさと理不尽さがよくわかる作品だ。余談だが、自分は2年くらい前に新橋駅で立川談志を見かけたことがある。テレビで見るのと同じで飄々とした感じの人だった。

こうしてみると、自分はノンフィクション作品が好きなんだなと改めて感じた。もちろんフィクションも読むが、やっぱり作り事よりは実際の出来事を読むほうが面白い。来年も自分の好きなものを適当に読んでいこうと思う。ということで、今年の覚書はこれで終わりです。今年一年お付き合いいただき、どうもありがとうございました。



06/12/17

雨は夜更け過ぎに雪へと変わりそうな今日この頃、いかがお過ごしですか。街はすっかりクリスマス・モードに突入した感じで、サンタクロースに扮したバイト君などが活躍しているこの時期の街歩きには、心浮き立つものがありますね。

サンタといえば、何歳までサンタクロースを信じていたかというのが、この時期に必ず議論されるテーマのひとつである。自分の場合、サンタさんなどハナからいないと思っていたから、信じるもなにもなかった。というのも、我が家では子供にクリスマス・プレゼントをあげるという素敵な習慣がなかったからだ。

だから、サンタさんには何の興味もなかったし、頭からバカにしていた。、もしも本気で信じている友達がいたら、バカだな、それは恋人がサンタクロースなんだよ、と教えてあげていた。今から思うと嫌なガキだ。

しかしこんな自分でも、今から考えるとなぜそんなことを、と思えるようなものを信じていた。保育園に通っている頃だったと思うが、レコードの中には人がはいっていると本気で信じていた。とにかく、なぜあんなものから音が出るのか、不思議でしかたがなかった。絶対に箱の中に人が隠れていて、そこから声を出しているのだと固く信じていた。

この間違った思い込みがいつ解消されたのか、それは定かではないが、いかにも理系科目が極端に苦手な自分らしい思い込みで、我ながら微笑ましい。ファックスを送るときに、用紙そのものが送信されるものと信じている機械オンチのオヤジのことは笑えない。

もうひとつ信じていたのは、秋田のなまはげだ。これも小学1年生くらいの頃だったと思うが、何かの本になまはげの写真が載っていて、それを見た自分は、秋田にはとんでもない怪物が存在すると本気で思い込んでしまった。何があっても絶対に秋田には行くまいと、幼い心に固く誓った。

今から考えると、サンタクロースを信じるよりもよほどマヌケなものを信じていたりして、バランスが悪い。だからこんなにヒネた大人になってしまったのだろうか。でも本当はね、今夜8時になれば、つむじ風追い越して背の高いサンタクロースが家にやってくるのさ。



06/12/10

師匠も走る師走なわけだが。師走のお楽しみといえばやはりボーナスですが、もうみなさんの会社ではボーナスは出ましたか? 今年の公務員のボーナスは平均で683,000円ということですが、みなさんのボーナスはこの金額よりも多かったですか?

それにしても、公務員のボーナスというのも不思議なものだと思う。そもそもボーナスとは業績に応じて支払われるべきお金なのに、利益を追求しない公務員がボーナスをもらえるというのはどういうことなのか。業績に関係なくボーナスがもらえるというのは、正直に言ってうらやましい。

自分の場合、夏と冬のボーナスで20万円以上違ったこともあった。ボーナスとは業績給だから、これが本来のボーナスのあるべき姿だとは思うが、毎年確実にボーナスを期待できる公務員はやっぱりうらやましい。売り上げを伸ばすかわりに、与えられた予算を確実に消化するのが公務員の仕事みたいなものだというから、余計にうらやましい。

さらに、不当に高い公務員の退職金もうらやましい。正確な金額は知らないが、民間企業とは比較にならないくらいの高額な退職金がもらえることは間違いない。それに比べて、自分のように転職を繰り返している人間の退職金など、微々たるものだ。

そんなこんなで、自分も公務員になっておけばよかったと、今さらながらに思う。実は、教師になりたいと思った時期もあったのだ。教師になれば奨学金は返さなくてもいいというセコイ理由もあったが、生徒に勉強を教えるという行為に純粋にあこがれてもいた。

しかし、自分の学部では社会科の教師にしかなれないとわかったのであきらめた。どうせ教えるなら、英語を教えてみたかったからだ。本当は文学部に入りたかったのだが、文学部では就職のときにつぶしが利かないからという理由で希望の学部を変えた時点でダメだ。賢い選択のようでいて、結局は損をしている。

ということで、教職課程を履修していない39歳の人間でも、今から教師になれるように制度を変えることはできないものか。民間企業出身の人間を教師として採用すれば、全体的な教師のレベルもアップすると思う。それに伴って、自分の銀行残高もアップすればいいのにと思う師走の一日。



06/12/03

今年の流行語大賞は「イナバウアー」と「品格」に決まったらしい。イナバウアーは納得だが、「品格」ってそんなに流行りましたか? これは「国家の品格」という書籍がベストセラーになったためらしいが、恥ずかしながらそんな本があるなんて知らなかった。

自分はそれなりに多くの本を読む人間だと自分で思っているが、これがベストセラーとなると話は別である。話題になっているベストセラーはまず読まない。なぜならば、ベストセラーには間違った内容が書かれている場合が多いからだ。

ベストセラーになるくらいの本は多くの読者に支持されて売れるわけだから、当然読みやすくわかりやすい内容で書かれている。さらに「面白い」という要素も不可欠だ。内容は正確だが面白くない本など、誰も読んでくれない。しかし、わかりやすく面白く書こうとすれば、どうしても記述が不正確にならざるを得ない。

たとえば、10年くらい前に爆発的なベストセラーになった「脳内革命」なんていう本は、間違いだらけでとんでもない内容だった。しかし、それでも売れてしまうのが本なのである。いや、間違いだらけでとんでもない本こそが売れる本の条件なのかも知れない。

不思議なもので、人間は活字の情報をありがたがる傾向がある。人から聞いた話やネットで拾った話などは価値が低いものと考えるくせに、それが何々の本で読んだ話となると、いきなり情報の価値が上がる場合がある。本の情報は正確なものだとなんとなく思い込んでいるからだろう。

なんとなく本をありがたがる原因は、小学生や中学生の頃から「たくさん本を読みましょう」と教わってきたせいかも知れない。たしかに本を読むことは意味のないことではないと思うが、嘘の情報が書かれているという可能性も考えて読むべきだ。

このあたりのことを見極める能力は、多くの本を読むことで自然に養われてくる。そういう意味では「たくさん本を読みましょう」という指導は間違ってはいない。ただし、「本には間違った情報もたくさん書かれている」という事実もあわせて教えるべきだと思う。



06/11/26

TBSで独占放送している世界バレーについて。これは、4年に一度世界中のバレリーナが集まって真のバレリーナ世界一を決める大会らしいが、テレビで観戦していてよくわからないことがいくつかある。

まず、こうしたバレーの大会はいつも日本で開催されているような気がすること。毎年フジテレビやTBSなどの民放で、こうした世界一を決める大会が放送されているような気がする。毎年ではないにしても、2年に一度くらいの割合でバレリーナたちが華麗なスパイクやサーブを決めている気がしてならない。なぜ海外では開催されないのか不思議だ。

それから、こうした大会になぜアイドル系のジャリタレを使うのかもよくわからない。新しいファン層の獲得のためなのかどうかは知らないが、昔からの古いファン層のことも考えてほしい。自分はこれまでバレーを観るのは嫌いではなかったが、こういうジャリタレが出てくるようになってから、バレーをテレビで観戦するのが嫌いになった。

今回の大会でも試合前に若い男子の二人組が歌っていたが、これには驚いた。仮にも世界選手権と銘打った大会で、バレーとは何の関係もないタレントが歌なんて歌ってもいいものだろうか。この大会のために集まったバレリーナたちに激しく失礼ではないのか。

そして一番不思議なのは、録画中継なのに新聞のテレビ欄には「最大延長9:24まで」と書いてあることだ。実は自分も、最初はこれを信じて生中継だと思って観ていた。ところが、試合が決まってから監督のインタビューまでの時間があまりにも短かったため、ようやく録画中継だということに気がついた。

その瞬間、なんだかバカにされたような気がして一気に冷めた。亀田興毅タンのボクシング中継のときにだいぶ叩かれたことで少しは反省しているのかと思ったが、やっぱりTBSTBSだ。くだらない演出といい、視聴者をだますような小細工といい、こういう腐った体質はなかなか改まらないのだろう。

それにしても、ここまで有利な条件で試合をしていながら、結果を出すことができない日本バレーもほんの少しだけ情けない。しかし、日本のバレーが弱くなったのは、こういうくだらない演出をしてきたテレビ局にも少なからず責任があると思う。



06/11/19

藤原紀香と陣内智則が結婚するらしい。陣内ってとっくの昔に結婚してるじゃん、と思って調べてみたところ、陣内孝則と勘違いしていたことがわかった。何かの番組で見たような気もするが、あまり印象にないぞ、陣内智則。

それにしても、お笑い芸人はモテるんだなと思った。こう言っては失礼だが、なぜこんな芸人があんな美しい女子と、などと感じる組み合わせが少なくない。やはり、面白い男子は人気があるということだろうか。

しかし、「お笑い芸人はモテる」という認識は最近になってできたものだと思う。以前の典型的な芸人、たとえば藤山寛美や横山やすしなどはどう見ても「飲む、打つ、買う」の三拍子揃った典型的な芸人で、今の感覚からするところの「モテモテ」からは遠い位置にいる人が多かった。それこそ、芸のためなら女房も大いに泣かせていたのではないだろうか。

それに比べて、今のお笑い芸人はずいぶんと小ぎれいになった。そこそこのルックスの芸人は、若い女子からキャーキャー言われるらしいから、時代は変わったと思う。しかし、芸人としての風格みたいなものはすっかりなくなった。まるで、クラスの人気者がそのままテレビに出ているような感じだ。

芸にしたところで、大して面白くもない。誰の芸を見ても同じような感じで、周りの雰囲気に合わせて適当に気の利いたことを言って笑わせているだけだ。まあ、それが悪いとは思わない。良くも悪くも、これが今の時代の流行りだということだろう。

しかしこんな芸では、遅かれ早かれテレビ画面から消えてしまうであろうことは火を見るよりも明らかだ。なんでだろー、と歌っていた彼らも、ゲッツ!とポーズを決めていた彼も、残念!と叫んでいた彼も、今はどこで何をしているやら。

このあたりのことを、お笑い芸人と結婚する女子はちゃんと考えているのだろうか。他人事ながら心配だ。数年後にはすっかり仕事がなくなってデパートの屋上で営業する旦那を妻が必死にサポートする、なんてことにならなければよいのだが。



06/11/12

いじめによる自殺が流行っているらしい。これは、マスコミの過剰な報道にも原因があるだろう。マスコミの報道につられて自殺者が増えるのは、これまでの経験から充分に予想できそうなものだが、マスコミに学習能力を期待してはいけないのだろうか。

はっきり言って、大人がどんなに頑張ったところで、子供のいじめはなくならない。この世の中から戦争がなくならないのと同じくらいに、いじめはなくならないと断言できる。弱い者をいじめることでしか自我を保てない人間というのが必ず存在するからだ。だから、いじめをなくす努力をするよりも、自殺を防ぐ努力をした方が手っ取り早い。

自殺を思いとどまらせるメッセージとしては、「君が死ぬことで悲しむ人間が大勢いる。君の命は君だけのものではない」などが一般的だと思うが、これから死のうとしている人間に、こんなステレオタイプなメッセージは届かない。自殺の動機がまったく考慮されていないからだ。

そもそも、自殺とは消極的な復讐に他ならない。自殺をするのは、「自分が死ねば、いじめた人間は驚いて後悔するだろう」と考えているからだ。つまり、自分が死ぬことによって、相手にも辛い思いをさせたいと考えて自殺をするわけだ。

そうではなくて、これ以上生きていたくないから自殺をするのだ、という人もいるかもしれないが、それは直接的な理由であって、その根底には必ず「消極的な復讐」という考えがあるはずだ。いじめによる自殺に限らず、おしなべて自殺にはそういう要素があると思う。

しかし悲しいかな、現実はそれほど甘くない。自殺によっていじめの張本人は多少良心の呵責を感じるかもしれないが、喉元過ぎればなんとやらで、反省の気持ちは長くは続かない。次のいじめのターゲットを見つけてまたいじめに走る子供だっているだろう。これでは自殺した方としては丸損だが、これが多くの場合の現実だと思う。

だから、自殺を思いとどまらせるメッセージとしては、こういう現実を自殺志願者に知らせるものでなければならないと思う。「君が自殺をしても、君をいじめた人間は少しも困らないし反省もしない。死ぬだけ損だよ」と。



06/11/05

これからの世の中は番号ポータビリティ制度なのだと思う今日この頃、みなさんいかがお過ごしですか。やはり番号ポータビリティはいいですね。なんと言っても、「ポータビリティ」の「ポ」の字がいいですよね。思わず頬が赤らんじゃいます♪

などと言ってみるものの、自分はいまだに携帯電話を持っていない。持ちたいと思ったことすらない。それはなぜかと訊かれれば、自分には必要ないからだ。常に携帯電話を持ち歩かなければいけないほど、自分は忙しい人間ではない。

もう一つの理由として、自分はハイテクに弱い人間だということが挙げられる。自宅のテレビやDVDの操作方法など、いまだにほとんど理解できていない。おそらく、本来持っている機能の10分の1も使いこなせていないと思う。テレビでさえこんな調子だから、携帯電話を持ったところで使いこなせないのは目に見えている。

こんな時代遅れの人間は放っておくとして、携帯電話の普及によって以前とは大きく変わったと感じることが二つある。それは、待ち合わせと浮気の方法だ。

携帯電話がなかった頃の待ち合わせは、今よりずっと慎重を期したものだった。場所や時間を間違えたりしたら大変だから、事前に何度も確認した。しかし今では、多少の行き違いがあっても携帯電話で連絡を取り合うことができる。これはたしかに便利だが、その便利さゆえに、以前と比べて逆に待ち合わせがルーズになったと感じるのは自分だけだろうか。

浮気の方法も大きく変わったと思う。以前の連絡手段は自宅の固定電話しかなかったが、これでは一昔前のドラマみたいに、浮気相手と自分の妻(または夫)が受話器越しに無言のバトルを繰り広げることになりかねない。しかし、携帯電話ならばそんな心配は無用だ。携帯電話は浮気の温床だと感じるのは自分だけだろうか。

ということで、携帯電話を持っていない自分は、待ち合わせの場所と時間はきちんと守るし、もちろん浮気もしない。そんな自分から、この先結婚を考えている女子へアドバイスを送りたい。結婚するなら携帯電話を持っていない男子に限る。



06/10/29

全国の高校で相次いで発覚した必須科目の履修漏れ問題について。少しでも受験に有利になるように、受験に直接関係ない科目を履修したことにして虚偽の報告を行ったというのが、各高校に共通する手口らしい。

この教師たちの気持ちはわからないでもない。受験に必要ないのであればその分を他の教科に回すというのは、ある意味非常に合理的な発想だと思う。その標的となったのが社会科の科目というのも納得できる。

はっきり言って、文系科目は理系科目に比べて実用性が低い。実用性と言うよりは、社会に対する貢献度と言うべきか。数学や科学や物理などは、人間社会の発展のためになくてはならない学問だ。それに比べて文系の学問は、法律や経済などを除いては重要度が低い。特に歴史や古典などは、ほとんど役に立たない学問だと思う。

そもそも、歴史や古典を研究して一体何の役に立つというのか。もし今、邪馬台国の正確な位置がわかったとしても、現在の自分たちの生活は何も変わらない。ちょっとした邪馬台国ブームが起こってその地元の人たちの生活がわずかに潤うくらいが関の山だ。

過去の事実から学ぶこともあるのかもしれないが、そんなことを気にするよりもこれから先のことを考えた方がずっと建設的だと思う。古典や考古学の研究者というのは、「俺と付き合う前に何人の男と付き合ったんだ」と彼女を問い詰める男みたいなものである。過去のことをほじくり返しても今の生活は変わらない。というか、しつこい奴は嫌われるから注意するように。

そうは言っても、こういう学問がいまだに存在するということは、自分のような凡人には理解できないような崇高な理由が存在しているためだろうから、すべてを否定するつもりはない。ただし、学問としてではなく、純粋な趣味として存在してほしいとは思う。

文部科学省も、こういう教科を必須にするのはそろそろやめたらどうか。歴史や古典といった科目を体育や美術といった科目と同列に扱っても、大した影響はないと思う。その分の時間を他の科目に回せば、逆に日本の国力が上がるかもしれない。



06/10/22

マッキーこと槇原敬之に盗作疑惑が持ち上がっているらしい。盗作されたと怒っているのは、漫画家の松本零士氏。盗作されたという「銀河鉄道999」に出てくる星野鉄郎のセリフは、「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」というもの。

これに対して、マッキーの作った曲のサビに使われている歌詞が、「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」というもの。たしかに激しく似ている。

今回の騒動に限らず、盗作騒動というものは昔から絶えることがない。クリエイターたるもの、人様の作品をパクってはいけないと思うが、やっぱりネタが浮かばないときというものは誰にでもあることなのだろう。盗作した本人はバレないと思ってやっているのだろうが、そんなのバレるに決まっている。どうしてそんなに頭の悪いことをするのか、不思議でしかたがない。

自分でも知らないうちに記憶にすりこまれたものを作品にしてしまうということは、ないことではないと思う。そうは思うが、そうたびたびあることでもないと思う。どこかで見た、あるいは聞いたことがあると感じた場合は、過去にそういう作品がなかったかどうかを調べるのはクリエイターとしての義務だろう。そういう意味からも、今回の騒動はマッキーのほうが旗色が悪いと思う。

それにしても、盗作するならするで、どうしてもう少しまともなフレーズを盗作しなかったのか。「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」なんて、まったく意味がわからない。こういう自己満足的なフレーズからは、何も伝わってこない。

こうした歌詞や小説などに限らず、最近ではネット上でのネタのパクリもよくあることらしい。いくらネット上でのネタとはいえ、パクられたほうとしてはいい気持ちはしないだろう。自分のサイトのネタに困って、いつも閲覧しているサイトのネタをパクるというのは、かなり頻繁に起こっているであろうことは容易に想像できる。

とりあえず自分はこれまでに一度も他人のネタをパクったことはない。それだけが自慢だ。ただ、人様からネタをパクられたこともない(おそらく)。一度くらいはネタをパクられるくらいになってみたいとも思う。ということで、このサイトのネタはパクリ歓迎。



06/10/15

お茶目な金正日率いる北朝鮮が核実験を行った。それに対する制裁として日本は、北朝鮮籍の船舶の入港を全面的に禁止した。その影響として、早くも松茸の値段が上がっているらしい。

危険な核兵器の開発を行う一方で、松茸などという素朴なものが主要な輸出品目になっているところが、なんとも北朝鮮らしくて微笑ましい。松茸を運んできた船は、日本の中古の自転車などを積んで帰るというからますます微笑ましい。

ところで、松茸って美味しいと思いますか? 自分は少しも美味いとは思わない。そもそも松茸を食べたことからしてほとんどないのだが、どうしてもまた食べたいと思わせるような味でないことだけは確かだ。最高級の松茸ならば多少話は違うのかもしれないが、丹波の松茸にしろ北朝鮮の松茸にしろ、大きな差はないと思う。

そもそも「香り松茸、味しめじ」という言葉があるくらいだから、松茸の味自体は大したものでないことは昔からの常識である。肝心の香りも、それほどありがたがるほどのものでもない。少なくとも「松茸の香りだけでドンブリ飯3杯は軽いっす!」という食欲をそそられる香りでないことだけは確かだ。

味や食感という点で松茸に一番近いのがエリンギだという。以前何かのテレビ番組で、松茸の土瓶蒸しとエリンギの土瓶蒸しを食べ比べて当てるという企画があったが、出演者はことごとくエリンギを松茸と答えていた。松茸なんて結局はその程度のものだと思う。

エリンギといえば、相方と結婚前にデートしたときのことを思い出だす。和食のお店でエリンギの焼き物を注文したら、お店の若い女子がエリンギの乗った皿をテーブルに置いて、「エンギリでございます」と言ったのだ。これから縁を結ぼうという人間に対して、縁を切らせてどうする。

結論としては、エリンギと間違えるような松茸をありがたがる必要はないし、そんなものに高い金を出して北朝鮮を喜ばせる必要もないということだ。値段だけ高い松茸なんて、核兵器と同じくらい罪なものだと思う。



06/10/08

今さらという気がしなくもないが、今回はハンカチ王子こと斉藤君について書いてみたい。それにしてもすごい人気だ。甲子園の決勝戦から経過した時間を考えると少しは落ち着いてもよさそうなものだが、逆にますます人気が上がっている気がする。

おばさまを中心に、女子高生やOLまで幅広いファン層を獲得している斉藤君は、まさに王子様という形容にふさわしい。しかし、ハンカチ王子という形容はどうかと思う。いきなり頭の悪そうな印象になってしまって、斉藤君がかわいそうだ。頭の悪そうな人気者はヨン様だけで十分だ。

彼の人気の秘密(と言うほどでもないが)は、育ちのよさを感じさせる言動にあるのだと思う。これだけ人気が出ても少しも浮かれた様子を見せることがないのは、親の教育がしっかりしているからだろう。本人もかなり頭のいい人間であることは間違いない。

18歳という年齢を考えた場合、これはすごいことだと思う。もし自分が18歳のときにこれほどの人気者になったらどうなっていたかを考えた場合、少し怖い気がする。きっと調子こいて浮かれまくって、すぐにマスコミに叩かれて抹殺されてしまうんだろうと思う。まあ、そういう人間はそもそも最初から人気者になったりしないとも言えるが。

今年の甲子園の決勝戦はたまたま日曜日にあたったこともあり、最初からずっとテレビで観戦していた。早実を応援しながらも、駒大苫小牧には勝てないだろうと思いながら見ていたのだが、斉藤君の冷静なピッチングに激しく感動した。

それ以来、実は自分も斉藤君の大ファンなのだ。おばさまは自分の息子にしたいと言い、OLは自分の弟にしたいと言い、女子高生は自分の恋人にしたいと言う斉藤君だが、自分の場合は友達になってほしいと思う。いろんな話をしながら一緒に散歩できたら、もう思い残すことはない。

斉藤君の進学先は間違いなく早稲田大学になるだろうが、この選択は正しかったと思う。なぜなら、自分の母校も早稲田大学だからだ。友達になることは無理でも、母校が同じという蜘蛛の糸より細い糸で繋がれていることだけで満足しようと思う。



06/10/01

遅めの夏休みを取って鎌倉に出かけた。幸運にも秋の長雨の合間の晴天に恵まれて、初秋の爽やかな鎌倉を満喫することができた。これもきっと、自分の日頃の行いがいいからだと思う。さすがだな、おれ。

その日は鎌倉のホテルに泊まったのだが、事件は翌日の朝食バイキングのときに起こった。自分たちの隣のテーブルには3人組のおばさまたちが座っていたのだが、どうやらおばさまの一人(岩上さんという名前らしい)が別のおばさま(松島さんという名前らしい)に対して説教をしているようだ。

「あなたね、バイキングだからってそんなによそるもんじゃないの。全部食べきれればいいけど、残してるじゃないの。そういうのが一番常識がないのよ」「あら、ごめんなさいね」「世界には、食べたくても食べられない人だっていっぱいいるんだから」「ごめんなさいね」

こんな調子で、岩上さんが一方的に松島さんに対して説教をしているのだ。岩上さんはかなりしつこい性格らしく、この説教はこの後も延々と続いた。説教に疲れたのか、岩上さんが席を立ったところで、もう一人のおばさま(名前はわからず)が松島さんに話しかけた。

「あなたね、岩上さんにいちいち謝ることないわよ。子供じゃないんだから、食事のことであれこれ言うなんて本当に失礼なことなんだから」「そうね、でも謝っておけばラクだから」「そんなことじゃダメよ、おとなしくしてるとこれからもずっと言われちゃうわよ」

岩上さんだけでなく、もう一人のおばさまからも説教されている松島さんが少しかわいそうになってきた。岩上さんが席に戻ると、何事もなかったように食事を続けるおばさまたち。食事が終わっておばさまたちが席を立つときに岩上さんの食器を見た自分は驚いた。なんと、オムレツを半分残しているではないか。

あまりにも意外で面白いオチに、自分はただただ驚いた。こういうところからドラマが生まれるのだと思った。岩上さん、あなたはただ者ではないですね。おかげさまでいい土産話ができました。



06/09/24

画期的な判決が東京地裁で出された。この判決によると、都立高校などの教職員は「国旗に向かって起立したり、国歌を斉唱したりする法的な義務はない」らしい。原告が言うように、たしかに画期的な判決だと思う。

それにしても、日教組は相変わらずくだらないことでガタガタ言っているなと思う。日本の国歌や国旗がそんなに嫌いならば、北朝鮮でもキューバでも、どこでも好きな国へ移住すればいい。日教組にとっても日本にとっても、お互いにそれが一番いい解決法だと思うのだが、どうだろう。出て行ってくれないかな、日教組。

思想や良心の自由とかなんとか、難しいことに絡めるからややこしくなる。式典の際に国歌を歌ったり国旗掲揚の際に起立するのは、教職員ならずとも当たり前の行為だ。つまり、国家に属する人間としての常識というやつだ。オリンピックの表彰式の際に、座ったまま国旗掲揚を見ている人間などいない。

遅刻を繰り返している社員が、「早起きは自分の思想に反しますので」なんて言ったとしたら、当然こいつはクビだろう。就業時刻を守るというのは、会社員としての常識だからだ。早起きが嫌いだったら、就職などせずひきこもっていればいい。ひきこもりが嫌だったら、早起きするしかない。簡単なことだ。

日教組にしてもしかり。日本の国歌や国旗が嫌いだったら、教職員になどならなければいい。どうしても教職員になりたければ、大声で国歌を歌い、背筋を伸ばして国旗を仰ぎ見るべきだ。それに反した場合は解雇というのは横暴だなどと騒ぎ立ててはいけない。

自分は思想的には右寄りだが、天皇制度についてはくだらないと思っている。だから、天皇を賞賛する君が代もくだらないと思っている。しかし、式典の際に君が代を歌うのにはまったく抵抗がない。形式とはそういうものだと思っているからだ。形式に意味を見出そうとするのは意味がない。

思想の自由だとか、軍国主義思想への反対だとか、そういう難しいことは考えなくてもよろしい。日本人に生まれた以上、君が代を歌って日の丸を仰ぎ見るのは、朝食にご飯と味噌汁と焼き魚を食べることと同じくらいに当たり前の行為だ。



06/09/17

ミクシーが東京マザーズに上場したらしい。ところでミクシーって何ですか? ミキティーみたいにプリテーな感じなんでしょうか。ようやくブログとは何ぞやということを理解したばかりだというのに、今度はミキティーならぬミクシーだ。もう完全についていけてない。

しかしこのミクシーなるもの、「ミクシー八分」や「ミクシー中毒」などの問題もあるらしい。仲間から相手にされなくなったり、相手からのコメントが気になって仕事が手につかなくなったりするらしい。広く普及すればするほど、こうした負の部分が出てくるのは必然だろう。

ブログの運営者にしても、似たような部分はあると思う。今日はトラックバックがついているだろうか、何かコメントがあるだろうかなど、自分の意見を発表する場所を持てば、何らかの反応を期待するのは当然だ。ただし、普段の生活がそれに左右されてしまうようになってはまずいということだろう。

さらに、これはホームページの運営者にとっても同じことだと思う。今日は掲示板に書き込みがあるだろうか、誰かからメールが来ているだろうかなど、サイトを運営していてこうした反応が気にならない人はいないだろう。サイト運営などという面倒なことをあえてするのは、こうした反応が欲しいからこそだ。

自分の場合はどうかというと、当然ながら反応は気になるが、ここのところさっぱり反応がないのでほとんど気にならなくなってきた。サイト開設当初こそポツポツとメールなどももらったが、それも開設3年目くらいまでで、あとはさっぱりだ。

当時は、「素敵なサイトですね、参考になりました。これからも頑張ってください」などというメールをもらうと嬉しくてしかたなかったものだが、最近ではまったくと言っていいほどこうしたメールは来なくなった。相互リンクのお願いメールを除けば、サイトに反応して送ってくれるメールは半年に1通あるかないかだ。

では、なぜ自分は何の得にもならない、反応すら来ないサイト更新を飽きもせずに続けているのかと言えば、こうして文章を書くことが好きだからだと思う。ただ文章を書くという行為だけでも、自分が解放される気がする。我ながら経済的かつ罪のない趣味だと思う。



06/09/10

彦摩呂が激しく嫌いだ。テレビに映ると思わずチャンネルを変えてしまいたくなるほど嫌いだ。「うわー、味の大運動会やー」とか「うわー、味の宝石箱やー」とか、まったく笑えないコメントを力を込めて言うところがなんともうっとおしい。

いやしくも芸人のはしくれなら、もっとまともな芸を見せてくれと言いたい。これくらいのコメント、今日びの小学生にだって言える。とにかく、芸のない芸人ほど見ていてうっとおしいものはない。

以前は、田代まさしとそのまんま東が嫌いだった。ついでに森脇健児とヒロミも嫌いだった。こういうくだらない芸人の需要があることが不思議でしかたがなかった。幸いにして今はみんなテレビ画面から消えてくれたからよかったが、芸がないくせに大きな顔をしてテレビに出ている芸人はいまだに多い。

たとえば、中山秀征。メインの番組も持っているようだが、どうしてここまでつまらない芸人がメインの番組を持てるのか、そもそもなぜテレビに出ることができるのかがわからない。コメントも適当だし、鋭い突っ込みがあるわけでもないし、頭の悪さ丸出しの話っぷりには本当に辟易する。頼むからウチのテレビには映らないでほしい。

たとえば、林家こぶ平。最近になって林家正蔵という林家の留め名に出世したらしいが、そんな偉そうな名前では呼んでやらん。こぶ平で充分だ。落語家なら落語だけやっていればいいものを、芸もないくせに調子に乗ってテレビに出るからイカンのだ。肝心の落語もちっとも上手いとは思わない。義兄の春風亭小朝のほうがずっと上手いと思う。

たとえば、田中義剛。親しみやすさをアピールするためか、テレビでは方言を交えて話しているが、隠し切れない腹黒さが感じられて嫌いだ。芸能人としての知名度を利用して、自分の経営する牧場を事業にしているところがいやらしい。芸らしい芸といえば方言で話すことくらいだ。

こうした芸人をまとめて一つの番組に出演させたら逆に面白いと思う。司会は彦麻呂にやらせてこう言わせるのだ。「うわー、芸のない芸人の宝石箱やー」



06/08/27

なるほど、冥王星は惑星ではなかったのか。今さらながらに調べてみると、惑星としての冥王星を疑問視する意見はかなり以前からあったようだ。冥王星がどうなろうと自分には何の影響もないが、今回の決定は妥当なところだろう。

しかし、今まで覚えていた「すいきんちかもくどってんかいめい」が「すいきんちかもくどってんかい」に変わってしまうのが困ると言えば困る。ガラの悪い漫才師に、「どってんかい!」と突っ込まれているみたいで落ち着かない。

それにしても、「冥王星が惑星から降格」という表現には笑った。なんだか窓際に追いやられた使えないサラリーマンみたいで、冥王星がちょっとかわいそうになってくる。まだ正式な名称は決まっていないらしいが、今のところ「矮小惑星」とか「矮惑星」などの呼び名が与えられていて、さらなる哀愁を感じる。

そうなると気になるのが、占星術への影響だ。いきなり冥王星が惑星から外れてしまうのだから、惑星を中心とした占星術に影響が出ないはずがあるまい。そう思ってネットで調べてみたところ、意外に影響は少ないようだ。冥王星自体がなくなったわけではないので、直接の影響はないということらしい。

しかし、これまでの占いで「あなたは冥王星人です」と言われた人の心境はいかがなものか。冥王星が矮小惑星に降格になったおかげで、自分まで矮小な人間になったと思うことはないのだろうか。この世をはかなんで自殺する冥王星人が後を絶たない、なんてことはないのだろうか。

そういえば、10年くらい前に「13星座占い」なるものが一時的に流行したことがあった。「へび使い座」という新しい星座を強引に加えたことがあったはずだ。へび使い座の人たちは今頃どうしているんだろう。この世をはかなむことがなければいいのだが。

インチキ臭い占い師のことだから、冥王星のことも適当な理由をつけて何事もなかったようにインチキ占いを続けるのだろう。彼らなりに生活がかかっているのだから、それはそれでいいと思う。結論としては、冥王星がどうなろうが自分の知ったこっちゃないということだ。



8月 20日 くもり

今しゅうははげしい停電がありましたが、みなさんいかがおすごしですか。ぼくの家はラッキーにも停電にはなりませんでしたが、こんなに暑い中、停電になった人は本当に大変だったと思います。心より残暑おみまいもうしあげます。

今は停電になることはめったにありませんが、お父さんが子供のころは、雷がおちたりするとしょっちゅう停電になっていたそうです。そんなときは、ローソクに火をつけて部屋を明るくしていたらしいです。ばんご飯を食べながら、お父さんが話してくれました。

「ローソクをつけると、なんだかうれしくてワクワクしたもんだよ。ご飯を食べたあとに、父さんがよくこわい話を聞かせてくれたりしたなあ。ローソクの明かりにすっかりなれたころにとつぜん電気がつくと、なんだかふしぎな感じがしたもんだ」

お父さんの話を聞きながら、この前健太くんが学校で話していたことを思い出しました。健太くんによると、ローソクであそぶとちょっとあついけど、楽しくて気持ちいいんだそうです。夜になると、大人たちがローソクで遊ぶんだそうです。きっと、お父さんが今話したことを言っていたんだと思います。

「ぼく、それ知ってるよ。ローソクプレイっていうんだよね」ぼくがそう言うと、お父さんもお母さんもだまってしまいました。下をむいたお母さんの顔が赤くなっているように見えたのは、ぼくの気のせいでしょうか。そんなお母さんを見たお父さんがにやりと笑ったように見えたのは、ぼくの気のせいでしょうか。

今日はつかれたからもう寝るか、とお父さんが言うと、お母さんもそうねと言って二人ともすぐに寝てしまいました。おかしなお父さんとお母さんです。もしかしたら、二人だけでローソクプレイをするつもりでしょうか。

たしかにぼくはこわがりだからこわい話は苦手だけど、ぼくだけのけものにするなんてひどいです。お父さんとお母さんは、家族のきずなというものを考えたことがあるのでしょうか。また停電になったら、今度はみんなでローソクプレイをしようとていあんするつもりです。



8月 13日 くもり

毎日高校野球があついですね。こまだいとまこまい高校は三れんぱできるのでしょうか。それにしてもこの学校の名前は「こ」と「ま」が多くて、なんだかてんてこまいな感じです。

でも、野球はいまいちかっこ悪いので好きではありません。ぼうず頭にしなければならないのがいやです。やっぱりやるならサッカーだと思います。サッカーならちゃらちゃらしたかっこうでもできるので、女子にもモテモテです。

近所の同じ名前のおじさんにそう言うと、サッカーなんてちゃらちゃらしたスポーツはだめだ、男子なら野球をやりなさいと言われました。なんでもおじさんは、少年サンデーにれんさいされているMAJORという野球マンガが大好きなんだそうです。サンデーのはつばい日には、このマンガだけコンビニで立ち読みしているらしいです。

さらにおじさんは、NHKの教育テレビで放送されているアニメもみていて、今までに放送されたものは全部録画しているそうです。アニメをみては、いつもうるうるしていると言っていました。いい年をしてバカみたいです。どこかしらバカっぽいところのあるおじさんだと思っていましたが、やっぱりぼくのすいそくは正しかったようです。

おじさんにすすめられるまま、ぼくもこのアニメをみてみましたが、はげしく感動してしまいました。主人公の吾郎くんがかっこよくて、とてもしびれました。去年の夏休みに海でおよいだときに電気クラゲにさされましたが、そのときと同じくらいにはげしくしびれました。

なにしろ、一度は右肩をこわして投げられなくなったのに、あきらめずに左ピッチャーとしてふっかつするのです。かっこよすぎます。ぼくも吾郎くんみたいに160キロのジャイロボールを投げてみたいです。この前は花火しょくにんになりたいと言いましたが、やっぱりプロ野球のせんしゅになることにしました。めざせ吾郎くんなのです。

でも、近所のリトルリーグには、あの健太くんがいるのです。しかも5年生のくせに、わんりょくにものを言わせてエースピッチャーになっているのです。しかしぼくは負けません。ジャイロボールを投げて健太くんからエースのざをうばいとるつもりです。



8月 6日 はれ

毎日あつい日がつづきますが、みなさんいかがおすごしですか。あ、ぼくの名前は新吾といいます。毎年夏休みになると、同じ名前の近所のおじさんから日記のネタをもっていかれるいたいけな少年です。5年生になりました。

きのうは、千葉市の花火大会がありました。ぼくが住んでいるマンションからは花火がよく見えるので、きのうはみんなでベランダに出て花火を見ました。大きな花火や形のかわった花火など、とてもきれいでした。

ぼくは花火を見ながら、大きくなったら花火しょくにんになりたいと思いました。だって、こんなにきれいな花火をつくってみんなをよろこばせることができたら、どんなにすてきだろうとは思いませんか。どうしたら花火しょくにんになれるのか、お父さんにきいてみたら、お父さんはむずかしい顔をしながらこう言いました。

「花火しょくにんになることをかんがえるより、今は学校の勉強をしっかりやりなさい。ちゃんと大学をそつぎょうしてから花火しょくにんになってもおそくはないんだから」

それを聞いていたお母さんもぼくにむかって言いました。「そうよ、まずは大学にいくことがだいじよ。大学にいかないと、お父さんみたいにいつまでたってもしゅっせできなくて、ひやめしを食べさせられることになるんだから」

お父さんは朝も夜もあたたかいごはんを食べているのに、どうしてひやめしなのかわかりません。いつもあたたかいごはんを食べてるよね、とお父さんにきいたら、だまったままトイレに入ってしまいました。トイレにむかうお父さんの肩がふるえているように見えたのは、ぼくの気のせいでしょうか。

ぼくのせいで、お父さんにまたつらい思いをさせてしまったみたいです。ごめんなさい、お父さん。ぼくの花火しょくにん宣言が思わぬ家庭不和につながってしまいました。まさに口はわざわいのモト冬樹です。今年の夏もあつくなりそうです。



06/07/30

日本人の国語力が落ちているらしい。「怒り心頭に発する」ではなく、「怒り心頭に達する」と間違って使っている人が半数を超えているということが、その根拠のひとつのようだ。

こういうニュースを見るたびに、なんだかなあ、と思ってしまう。言葉は生き物であるから、時代とともに姿かたちを変えるのは当然のこと。過半数を超える人たちが間違って使っているということは、そちらのほうが使いやすいからである。半数以上の人たちが支持しているのだから、これはもう明らかに「怒り心頭に発する」の敗北である。

「汚名挽回」のように明らかな間違いでない限り、こういう使い方は許容されても問題ないと思う。言葉はそれを使う人たちのものであって、言語学者たちのものではない。言葉は常にその語義のままでとどまっていなければならないとしたら、いまだに候文を使わなければいけないことになってしまう。

「一番最後に」とか、「あとで後悔する」などの表現も、「頭痛が痛い」と同じ重複表現だからダメらしい。こういう小姑のような意地悪な指摘はうんざりする。読んだり聞いたりしたときのリズムがおかしくなければ、まったく問題はないと思う。

自称日本語の得意な人たちがこういうニュースを見て、「そうなんだよ、最近の若い衆の日本語は乱れてるんだよ」などと得意気に言っているのが目に浮かぶ。こんなことを知っているからといって、別に自慢するようなことではない。

ただし、自分も時代の流れとともにすべての言葉が変わっていけばいいと思っているわけではない。たとえば「ら抜き言葉」。会話の中で使われるのはさほど気にならないが、文書の中で使われると激しく違和感を感じる。「この例に見れるように」なんて書いてあると、どんなに立派なことが書いてあってもその先はまったく読む気がしなくなる。

ということで、この文章の中に間違った表現が3つあります。それはどこでしょう。正解者の中から抽選で1名様に豪華な粗品を進呈します。(正解はこちら



06/07/23

極楽とんぼの山本氏が淫行事件を起こして、所属先の吉本興業から契約を解除されたらしい。ちょっと厳しすぎる気がしないでもない。こういうケースは以前ならば、一定期間の謹慎処分で済んでいただろう。当の本人も「なんで俺だけ」と思っているに違いない。

もっと厳しいのが、欽ちゃん球団の解散という判断。このニュースを見た人のおそらくほとんどが、「どうしちゃったの、欽ちゃん」と思ったことだろう。一所属選手が起こした事件に対して、責任の取り方があまりにも厳しすぎるからだ。

萩本氏の理論に従うと、山本氏と契約していた吉本興業こそが解散しなければならなくなる。そんなことくらいでいちいち解散していたのでは、世の中のほとんどの企業は成り立たない。大丈夫か、欽ちゃん。

ちょっとうがった見方をすると、この問題にかこつけて実は以前から球団を解散したかったのではないかという憶測も成り立つ。思ったより運営にお金がかかるとか、思ったより人気が出ないとか、事前の予想と実際とでは異なっていたため、止めるタイミングを計っていたのではないかと思えないこともない。

なにしろ、海千山千の芸能人である。社会常識はなくても、このあたりの計算能力にかけては天下一品のものがあるに違いない。思い切り芝居がかった萩本氏のインタビュー映像を見ながらそう思った。

この解散宣言が波紋を呼び、結局は球団存続ということで落ち着いたようだが、そうなると、これこそが萩本氏が最初から描いていた青写真だと思えなくもない。つまり、はなから解散する気などなく、解散宣言は単なる話題づくりに過ぎなかったということだ。

まあ、ここまでうがった見方をする必要はなく、勢いだけで解散を宣言してしまったというのが本当のところだと思うが、だとしたらやっぱり「大丈夫か、欽ちゃん」と思わざるを得ないのだ。



06/07/16

何を隠そう、自分は大相撲ファンである。北の湖や輪島、貴ノ花らが活躍していた頃から見ているから、ファン歴としては結構長いと思う。ちなみに、自分のオールタイムベストの力士は、元関脇の琴錦である。あの切れ味鋭い相撲が何とも小気味よかった。

しかし最近では、相撲人気は凋落の一途をたどっているらしい。たしかに、テレビ画面に映し出される最近の観客席はガラガラで、相撲ファンとしては寂しい限りである。

若貴全盛期の頃は連日満員札止めだったが、この頃が大相撲人気のピークだったと思う。あの頃の若貴人気はすごかった。やはりプロスポーツには、そのスポーツにあまり興味のない人をも惹きつけるような人気者が必要だ。現在の角界には、これといった人気者がいないのが痛い。

朝青龍や白鵬、琴欧州などは、人気者と言えなくもないが、やはり日本人力士の中から人気者が出てきてほしい。何と言っても、相撲は日本の国技なのだ。現在の角界の勢力地図は、モンゴル勢、ヨーロッパ勢、その次に日本勢となっている。つまり、今や日本人力士は第三勢力にまで落ちているのだ。

この事態を打開するためには、やはり相撲人口の裾野を拡大していくしかないだろう。小学校や中学校の体育の授業で相撲を必須にしたら、少しは効果が上がるのではないか。ただし、やはり相撲はカッコ悪い。自分も中学の授業で相撲を取ったことがあるが、将来は北の湖や千代の富士を目指そうとは、間違っても思わなかった。

マワシを締めて相撲を取るより、髪をなびかせてサッカーをした方がカッコいいことは間違いない。子供たちが相撲を敬遠するのもわかる。しかし、意外にも力士はもてるのだ。芸能人と噂になった力士は少なくない。千代大海と川村ひかるの交際が発覚したときには、少なからずショックを受けた。

その秘密は、どうやらびんづけ油にあるらしい。大銀杏につけるこの油が、非常にいい匂いらしいのだ。なので、中学生にもびんづけ油の使用を許可したらどうだろう。角界の発展を願ってやまない自分としては、意外に有効な作戦だと思うのだが。



06/07/09

やるな、北朝鮮。まさかこのタイミングでミサイルを発射するとは、さすがに金正日だ。豚のように丸々と太っているのは伊達じゃないということを、全世界に知らしめた。あの醜い脂肪には、勇気と稚気と邪気がいっぱいに詰まっている。

しかし、肝心のテポドンの発射にはどうやら失敗したらしい。ニュースなどを見ると、「弾道が不正確なだけに、かえって怖い」という論調が目立つ。技術がお粗末なためにかえって脅威が増すというのも、いかにも北朝鮮らしくて微笑ましい。

それにしても、ミサイルの着水地点が微妙だ。一応日本海ではあるものの、陸地としては日本よりもロシアや中国の方がより近い。「日本やアメリカを標的にしたわけではない」と後から言い訳できそうな位置であるのが、いかにも金正日らしくて狡猾だ。

つまり金正日の本音としては、無視されるのに飽きたから注目はしてほしいけど、だからといって本気で怒らせたくはない、といったところだろう。まるで子供の発想だ。これで一国のトップを務めているのだから恐れ入る。

ただし、本当に頭が悪いだけに、本気で暴走する可能性も否定しきれないところが厄介だ。頭の悪いガキほど、切れたら怖い。対応策としては、駄々をこねても損するだけだということを、全世界共通のメッセージとして知らせることだと思う。そういう意味で、安保理での制裁決議案の採決を目指す日本の対応は正しいと思う。

しかし、これに反対しているのがロシアと中国だ。今回のミサイル発射で一番怒るべきは、自国の領土近くにミサイルを落とされたロシアと中国でなければならないはずだ。いかに友好国とはいえ、今回ばかりは怒ってしかるべきだろう。

頭の悪いガキは、甘やかしたらつけあがるだけだ。悪いことは悪いと、ちゃんと教えてあげるのが人としての正しい行いだと思う。今のロシアや中国は、電車の中で大声を出して走り回っている子供をしかりもせずにだまって見ている頭の悪い親と同じだ。こんな国が安保理の常任理事国だというのだから笑わせる。



06/07/02

それにしても叩かれてるな、福井日銀総裁。人間という生き物は、自分を省みず人の尻馬に乗ってとことんまで他人を叩くから怖い。世論といえば聞こえはいいが、要は叩きたいから叩いているだけだ。

実のところ、福井さんがなぜこれほどまでに非難されているのか、よくわからない。法を犯してまで金儲けに走ったホリエ君や村上氏が非難されるのは当然だと思うが、福井さんの場合、何も法律に触れることはしていないはずだ。

日銀総裁たる者が利殖に走るとはなにごとか、という非難が一般的なようだが、日銀総裁だって人間なんだから、利殖に走ってもいいと思う。国民にはゼロ金利政策を押し付けておきながら自分だけ、という怨嗟の声も聞くが、悔しかったら自分も偉くなって金儲けをすればいいだけの話だ。

社会的に地位の高い人間というのは、ちゃんとした理由があってその地位にまで登りつめたのだ。常人とは違った才能や努力の結果の地位であるから、その見返りとして多少おいしい思いをしてもいいのではないか。元々、世の中は不公平にできている。

結局のところ、一般庶民はどう頑張っても偉い人間には勝てないということだ。偉い人には偉い人の世界がある。我々一般庶民が、そういう偉い人たちのやることに批判をしたらいけない。だまって麦でも食べていればいい。

などと、もっともらしい理由をつけて福井さんを擁護してみたが、実は福井さんの風貌が嫌いになれないだけのことなのだ。ホリエ君や村上氏はいかにもふてぶてしくて好きになれないが、福井さんは人の好いおじいちゃんみたいでどうしても嫌いになれない。

夏休みに家に遊びに行ったら、冷たいファンタ・グレープと甘いスイカを出してくれて、帰り際にはお小遣いをいっぱいくれそうな福井さんには、これからも頑張ってほしい。



06/06/25

ようやく、アメリカ産牛肉の輸入が再開されそうな見通しになってきた。2003年の12月から輸入は禁止されていたから、実に2年半以上経ってからの再開となる。

ここまで輸入再開が延びたのは、いったい誰の責任か。アメリカ当局の杜撰な管理体制が一番の問題だと切り捨てることはたやすいが、実際のところは、日本政府の過剰なまでの反応が一番の原因だと思う。

アメリカ人が毎日食べている事実によってアメリカ産牛肉の安全性は証明されている、というアメリカ側のロジックは正しい。科学的に安全性が完全に証明されるまで安全とは言えない、という日本側のロジックは、正論ではあるが現実的ではない。そもそも、科学的に安全性が完全に証明されている食品なんて、この世に存在するのだろうか。

この日本政府の非現実的なロジックに影響されてか、国民の中にもまだまだアメリカ産牛肉に不信感を抱いている人は多いらしい。テレビのインタビューなどでも、「安全性が確認されるまでは、買いません」などと答えている人が多い。

こういう人たちは、毎日スーパーへ買い物に行く際に車を運転するという行為の方が、アメリカ産牛肉を食べるという行為よりもずっと危険だということを理解していないから困る。牛肉を食べて死ぬよりも、自動車事故で死ぬ確率の方がずっと高いのだ。

大丈夫、毎日アメリカ産牛肉を買って食べたところで死にはしない。そんな宝くじに当たるよりも低い確率のことを心配するのであれば、今日から買い物には徒歩で行くことだ。心配するなら徹底して心配しなければいけない。そうでなければ片手落ちだし、何より滑稽だ。

かくいう自分は、別にアメリカ産牛肉がなくても何も困らないが、吉野家の牛丼だけは復活してもらいたいと切に願っている。



06/06/18

髪の毛を切った。自分はかなりの癖毛のため、この時季は髪の毛が広がってうっとうしいことこの上ない。相方いわく、「ライオン丸みたい」ということらしい。かなり失礼だと思う。

美容院ではやたらと丁寧な言葉遣いで話しかけられるので、なんだか落ち着かない。前掛けみたいなものをかけられて首周りのマジックテープを留めるときに、「お首は苦しくありませんか?」とよく訊かれるが、たとえお首が苦しかろうとも、男子たるもの、そんなことはおくびにも出さない。ぷぷ。我ながらかなり完成度の高いギャグだ。冴えてる。切れてる。

さてと、今回はこのギャグを書きたかっただけなので、ほかにネタは用意していない。とはいえ、これだけというのも芸がないので、無理やり書き足してみる。

この「〜ではありませんか?」という否定疑問文で訊かれた場合、一応は「はい」と答えるのだが、その後で「あれ、この場合は”いいえ”で答えるのが正しいのかな」などと考えてしまうことがよくある。つまり、「はい、苦しくありません」ではなく、「いいえ、苦しくありません」の方が正しく感じる場合があるということだ。

たまにだが、実際に「いいえ」と答えてしまう場合もある。答えた後で間違いに気付き、あわてて「はい」と言いなおすのだが、こうなるとどちらがどうなのか、よくわからなくなってしまう。

これはきっと、普段読んでいるペーパーバックの弊害だと思う。自分でも気付かないうちに、英語に毒されているということだろう。バランスを取るために日本語も英語の倍くらいは読むようにしているのだが、こうなると活字自体に毒されていく気がしてならない。

このことを相方に話したところ、「君はライオンなんだから、そんな難しいことは気にしなくても大丈夫」と言われてしまった。本当に失礼だと思う。



06/06/11

ライブドアに続き、村上ファンドにも捜査のメスが入った。両者ともちょっと派手にやりすぎたということか。出る杭は打たれるのが日本という国だ。検察庁を怒らせたら怖い。

ホリエ君も村上氏も、「金儲けのどこが悪い」というのがその主張だが、金儲け自体は悪いことではない。ルール違反を犯してまで金儲けをするのが悪いのだ。二人とも東大に入学できるだけの頭があるんだから、それくらいはわかりそうなもんだが。

それにしても、そこまでして金を儲けてどうしようというのか。ある程度の富があればそれで充分だろうに。収入の増加に比例して幸福感も増大するということはないと思う。

もちろん、年収300万の人間よりは、年収600万の人間のほうが幸せを感じるチャンスが増えるのは間違いない。しかし、年収1,000万の人間と3,000万の人間とを比べた場合はどうだろうか。おそらく、両者の間の幸福度合いにはほとんど差がないのではないだろうか。逆に、年収3,000万に伴う義務や責任のために、幸福感はかえって少なくなるかもしれない。

きっと、幸福感が飽和状態に達する分岐点とでもいうべきものが存在すると思う。それが年収600万なのか1,000万なのか3,000万なのかは個人によって異なるだろうが、これ以上収入が増えても幸福感は増えないという地点が必ず存在するはずだ。

この分岐点を冷静に見極めないと、人間は不幸になると思う。つまりは「足るを知る」ということだ。ただし、言うは易く行うは難しで、一度でも豊かさを経験してしまうと、元の生活には戻りたくないという思いからひたすら突っ走ってしまうのが人間の悲しい性だ。

その点、収入の少ない自分は安心だ。この先も劇的に収入が増えることはまず考えられないから、ずっとこんな感じで生きていくんだろう。そこそこの収入があれば、とりあえずは笑って生きていける。それで充分だ。



06/06/03

神奈川県の人口が大阪府の人口を抜き、東京都に次いで全国第2位になったらしい。関西経済の地盤沈下と、人口の首都圏一極集中を如実に物語るニュースだ。

このニュースで、自分の卒論のテーマも「人口都市化問題について」というものだったことを思い出した。原稿用紙100枚というノルマを、最初の30枚だけ真面目に書き、残りはすべて参考文献の丸写しという形でお茶を濁した。自分だけでなく、友人たちも同じように「参考文献丸写し」という技を使っていた。理系の学生であれば事情は違っていたのかもしれないが、文系の学生なんて皆そんなもんだった。

今にして考えると、「卒論」というものの存在意義がよくわからない。いや、そもそも「ゼミ」という存在からしてよくわからない。人口問題を勉強しておいて、IT関連の企業に就職してどうする。というか、人口問題の知識を活かせる民間企業など、はたして存在するのか。

当時は「ゼミなしっ子就職でき児(ぜみなしっこしゅうしょくできじ)」という言葉が流行っていた。この頃はバブル真っ盛りだったから当然就職なんて楽勝で、この言葉の真の意味はつまり、「有力ゼミに入っていないと、一流企業には就職できない」ということだ。

こうした有力ゼミは当然競争率も高く、それまでの成績と面接試験で合否を決めるのはもちろんのこと、面接試験で芸を披露することを強要するゼミもあった。というか、そんなゼミばかりだった。そうして教授に気に入られ、その教授のコネで一流企業に入社するというのが、当時の学生の「エリートコース」だったのだ。

自分は当然エリートでもなんでもないから、普通のゼミを受けた。そもそもゼミなど受けなくても卒業に必要な単位は取れたのだが、周りに合わせてなんとなく儀式のように受けてみた。それから「卒論」という儀式を通過して、普通の企業に就職した。

結局のところ卒論とは、一種の儀式のようなものだと思う。原稿用紙50枚や100枚といった、ある程度まとまった文章を書かせることによって、モラトリアムから決別するための意識を抱かせるだけものだ。学問としての実際的な意味などまったくない。



06/05/28

もうすぐサッカーのワールドカップが開幕するらしい。開幕直前にも関わらず、今回は今ひとつ盛り上がりに欠けるように感じるのは、きっと自分だけではないはずだ。

大体、今までがはしゃぎすぎだったのだ。あの騒ぎっぷりは、同じ日本人として恥ずかしかった。今回くらいの盛り上がり具合でちょうどいいと思う。ようやく日本もサッカー途上国から先進国になりつつあるという証だろう。

サッカーにはほとんど興味がないが、日本代表の選手は純粋にうらやましい。なにせドイツに出発するというだけで、空港には見送りのファンが大勢つめかけ、キャーキャーと黄色い声援が送られるのだ。男子としてこれ以上うらやましい状況はないだろう。

自分のこれまでの人生は、「いかにしたらモテモテになれるか」ということだけを考えて費やされてきたと言っても過言ではない。しかし悲しいかな、これまでにモテモテになったことなどただの一度もない。

人間は歳を取るにつれ、できることも減っていく。職業の選択肢も減り、体力も落ち、人間としての可能性がどんどんと狭まってゆく。モテモテになるという可能性も、歳とともに減ってゆくのだ。もうこれからは、モテモテになるという夢さえ見られないのだ。なんとも悲しいが、これが現実ならばしかたがない。

などと考えながら日本代表選手たちの映像を見ていたら、思いがけずジーコ監督が画面に映った。なんと、ジーコ監督ですらキャーキャー言われているではないか。決してカッコいいとはいえないジーコ監督の映像を見ながら、これからの自分が進むべき道を見つけた気がした。

ということで、今からサッカー選手になるのは無理だが、サッカーの監督にならなれるのではないかと思う。4年後の日本代表監督を目指して、まずはサッカーのルールから勉強を始めたい。



06/05/21

書店に立ち寄ったところ、店頭に平積みにされたハリー・ポッターの新刊が目に入った。えらく分厚いと思ったら上下巻の2冊セットになっていて、ビニールでぴっちりと封印されている。

ほほう、これはいわゆるひとつのビニ本ってやつですか。いやあ、昔は自分もよくお世話になったものです。あのビニールを破くときのドキドキ感がたまらないわけでして。これぞ男のロマンってやつでしょうか。

などという下ネタはひとまず置いておくとして、この本を翻訳した人は儲かってるんだろうなと思った。ちょっと調べてみたところ、このシリーズの翻訳は出版社の社長自らが手がけているらしい。おそらく、日本で一番儲かっている翻訳者であることは間違いないだろう。同じ翻訳を生業としている人間として、純粋にうらやましい。

なにしろ、翻訳という仕事は儲からない。実務翻訳と呼ばれる分野は、仕事量の割りに儲からない。その中でも、IT翻訳の業界はさらに儲からない。その儲からない仕事をしているのが自分だ。とにかくクライアントからの発注単価が安いので、薄利多売で利益を確保するしかない。

どのくらい単価が安いか、ここで書いてもいいのだが、これを読んでくれている人の中にも翻訳者を目指して頑張っている人もいるかもしれないので、夢を壊すようなことはしたくない。晴れて翻訳者としてのスタートラインに立ってから、改めてその単価に愕然とすればいいと思う。

単価も安いが、この業界の翻訳レベルも低い。それはもう驚くくらいに低い。翻訳会社に勤務しているため、日常的に外部の翻訳者の仕事を見ているのだが、嫌になるくらい皆さんレベルが低い。少し複雑な文章になると、いきなり誤訳と直訳の連発である。こんなレベルで翻訳なんぞするなと言いたい。

これほどレベルが低いなら、単価も安くなるのは必然かもしれない。いや、単価が安いからレベルも低くなるのか。いずれにしろ、ハリー・ポッターの翻訳者がうらやましい。



06/05/14

今日は日本全国母の日らしい。お母さん、いつもありがとうございます。しかし、自分にとって5月14日はもっと大事な記念日なのだ。それは、「初めて自転車に乗れた記念日」である。

あれは忘れもしない、小学6年生の5月14日のことだった。小学6年で初めて自転車に乗るというのは、かなり遅いと思う。おそらく、小学2〜3年生くらいで自転車デビューをするのが平均的な子供の姿だと思う。自分の自転車デビューが遅くなったのには理由がある。

家には3歳上の兄貴の自転車が1台あったのだが、これが26インチの自転車だったため、足がペダルに届かなかったのだ。中学校入学時の身長がたしか143cmだったから、小学6年当時は140cmに満たない身長だったはずだ。

遊び相手の友達はみんな自転車に乗ることができたから、遊ぶときには自分だけ走って自転車の後を追いかけたり、自転車の荷台に乗せてもらったりと、子供心にもみじめな思いをした。20インチくらいの自転車があれば自分も乗ることができるのに、といつも心の中で思っていた。

そんな思いが臨界点に達した小学6年生の5月14日に、兄貴の自転車を庭に出した。つま先がようやく地面に届くくらいまでサドルをいっぱいに下げ、ゆるやかな下りになっている斜面に向かってペダルを踏み込んだ。

最初はおっかなびっくりで何度も転んだが、次第にコツがつかめてくると、20メートルくらいは転ばずに乗ることができるようになった。もう庭では狭いので、思い切って道路に出てペダルを踏んだ。夢中でハンドルをつかみながら、頬に当たる風を心地よく感じた。両親が作業している田んぼの横を通ったときに軽く手を挙げたら、二人とも驚いたような表情で笑ってくれた。

あのときの誇らしい気持ちは今でも忘れられない。きっと一生忘れないと思う。あなたが笑ってくれたから、今日は私の自転車記念日。



06/05/07

いつの間にか「第三のビール」の税率が上がったらしい。自分も晩酌でよくお世話になっているのだが、それと知っての増税なのだろうか。固定資産税の支払いに続く今回の増税で、資産家である自分もいよいよピンチである。

今回の増税についての街頭インタビューがテレビで放送されていた。サラリーマン族の反応は一様に「値上がりするのは痛いですね」というものだった。ほほう、世の中のサラリーマン諸氏は、350ml缶あたり約4円の増税が痛いらしい。いったい、この人たちは毎日どのくらい飲むのだろうか。

痛いというくらいだから、1ヶ月あたり1万円くらいの影響があるのだろう。だとすると、1日あたり約80本も飲んでいる計算になる。これでは財布が痛くなる前に肝臓が痛くなるのではないか。飲みすぎには注意してほしい。

どうでもいいが、たかだか4円くらいの増税で「痛い」などと真顔で言わないでほしい。その方がよほど痛いということに本人はお気づきでないところがさらに痛い。「税収確保のために、少しでもお役に立てて嬉しいです」くらい言えないのか。テレビを通じて全国に恥をさらしてどうする。

こういう人たちの頭の中には、「一般庶民とはこうあるべき」という勝手なイメージができあがっているのだろう。自分をそうした一般庶民の立場に置くことで、安全な立場から発言する心安さがあるのだと思う。無意識の行為だとは思うが、ちょっとだけずるさを感じる。

余談だが、「第三のビール」は正確には「その他の雑酒2」というらしい。2というからには1があるのだろうと思って調べてみたところ、「その他の雑酒1」とは、業務用の料理酒などを指すらしい。なるほど、勉強になった。

ということで、雑酒1にすらなれない雑酒2を愛飲する資産家は、日本広しといえども自分だけではないかと思う。しかし、資産家のプライドに賭けても「今回の増税は痛い」などとは言わない。



06/04/30

ホリエ君が保釈された。ちょっとだけ痩せてちょっとだけロン毛になったホリエ君がまぶしく見えた。

ライブドアの株を買って大損した人たちは、損害賠償を求めて集団訴訟を検討しているらしい。大事な財産を失って気の毒だと思わないこともないが、結局のところ株ってそんなもんだと思う。

大儲けするチャンスがある一方で、大損するリスクがあるのが株だ。それをわかっていながら買ったのだから、今さらあれこれ言ってもダメ。損したくなかったら、おとなしく郵便局にでも預けていればいいだけのことだ。そもそも、大事なお金を株に投資するという発想自体が間違っている。

株とは余裕資金で買うものだ。大きく損しても生活には支障のない範囲内の資金で、ちょっとでも儲けが出れば御の字、というくらいの気持ちで買うのが正しい。であるから、生活資金で株を買うのはまだしも、生活をかけてデイトレードなんてするのは大バカだ。

デイトレの必勝法は、株に詳しくなることではない。多少負けても痛くないくらいの、圧倒的な資金を準備することだ。10銘柄のうち9つまでは負けても、あとの1つで大きく勝てば儲かる。資金に余裕のある人間ならばこういう勝負ができるが、ちまちま勝負している人間にはまずこういう買い方はできない。だから負ける。必然である。

実は自分も以前、株ではないが、投資信託を何銘柄か買ったことがある。半年ごとに決算の明細書が送られてくるのだが、見方がよくわからないので、勝っているのか負けているのかすらよくわからなかった。マンションを買うときに解約したら、100万円が130万円に化けていた銘柄があって驚いた覚えがある。

株で勝とうと思ったら、負けてもいいという気持ちで買うことだ。気付いてみたら思い切り値上がりしていた、というくらいの淡白さがベストだと思う。生活資金をつぎ込んだばかりに、負けてからみっともなくグズグズ言うのだけはやめてもらいたい。



06/04/23

資産家である自分の財産を狙ってか、このところジャンクメールがやたらと多い。人気者はつらい。

怪しげなビジネスのお誘いメールが多いのだが、どうやらこの人たちは、不動産資産以外にはこれといった資産がない自分の苦しい台所事情を心配してくれているらしい。ありがたいことだ。

しかし一番多いのが、怪しげな援助交際のお誘いメールである。それも、「援助してください」ではなく、「援助してあげます」というメールだ。どうやらこの人たちも、自分の寂しい財布の中身を心配してくれているらしい。ありがたいことだ。

20歳台から30歳台の素敵な女子たちが、お付き合いをしてくれたら金銭的に援助しますと申し出てくれているのだ。彼女たちの年収は軽く1千万を超えるというからすごい。さらなる資産形成のために援助していただきたい、と強く思うのだが、世の中には自分よりも恵まれない人たちがたくさんいると思うので、そういう人たちのためにここはあえて譲りたい。

実際問題として、こういうジャンクメールに反応する人っているんだろうか。ここまで露骨に怪しいメールを読んで、「いやはや、まことにありがたいことです」とか言いながら、まんまと引っかかる人っているんだろうか。しかし、こういうメールが一向に減らないところを見ると、驚くくらいに信じやすくて純粋な人間が少なからずいるということかもしれない。

「私、尽くす女なんですよ。昔、私が働き初めでお金がない頃、付き合っていた彼氏の借金返済のため、彼氏に頼まれて、イモを食べて一番多くおならしたら200万円の賞金がもらえる大会に出場して、優勝してしまいました。」(原文ママ)

このメールを書いた男子も、当然このメールで釣れると思っているわけではないだろうが、こういうおふざけはありだと思う。これくらい突き抜けてくれると、読むほうとしても楽しい。



06/04/16

固定資産税の納付書が送られてきた。

なるほど、マンションを買って1年経つと固定資産税なるものを払わなければならないのか。すっかり油断していた。こんなちっぽけなマンションにも課税するなんて、さすがは税金大国日本だ。やることに抜け目がない。

ということで、自分もついに資産家の仲間入りを果たしたわけである。資産家デビューってやつ? これからは外を歩くのにも用心しなければならない。なんといっても資産家だから、常に狙われていると思ったほうがいいだろう。特に背後の敵には気をつけなければ。

これでもし資産目当てに殺害なんかされたら、新聞には「千葉市稲毛区在住の資産家永橋新吾さん(39)が、今朝路上で死亡しているのが発見された」なんて記事が載るのだろうか。資産家殺人事件として、ワイドショーなんかでも取り上げられるといいなと思う。

それにしても、固定資産税って意外と高いもんだなと思った。千葉市のちっぽけなマンションでもこれくらいの額を取られるんだから、都心の広い一戸建てに住んでいる本物の資産家はどれくらの税金を払っているんだろうか。納税は国民の義務とはいえ、自分の家に住むのですら税金が必要になるんだから大変だと思う。

この金額はこれから先変動していくのか気になったので、ちょっと調べてみたところ、どうやら3年ごとに見直しがあるらしい。ということは、この金額が上がれば自分の住んでいる土地の価格も上がっていると判断できるということか。金額が上がるのは嫌だけど、下がるのも嫌だ。資産家の心境って複雑なんですね。

ということで、これからは資産家としての自覚を持って生きていくつもりだ。大事な資産の窓ガラスが汚れてきたので、これからガラス磨きでもしようかと思う。資産家って大変だ。



06/04/09

小学校での英語教育の動きが必須化に向けて加速しているらしい。実際に9割の小学校が英語教育を授業に取り入れているというから、近い将来小学校で英語の授業が必須になるのは間違いないだろう。

やりたければやればいいとは思うが、おそらく大した効果は期待できないだろう。少なくとも、日本人の英語レベルが劇的に向上することは絶対にないと断言できる。

おそらく、中学校の授業から本格的に英文法を学ぶ現在のスタイルは大きくは変わらないだろう。だとすれば、小学校での授業で教えることなんてロクなもんじゃない。集団でのゲームや遊びを通じて英語に親しみましょう、といった程度のお粗末な内容になるだろうことは想像に難くない。

子供だからみんなゲームや遊びが好きだろう、と考えるのはとんでもない間違いで、嫌いな子供だっている。何を隠そう自分がそうだった。お手々つないでみんな仲良く、という感覚が子供心にも恥ずかしくてしかたがなかった。こういう子供は決して少なくないはずだ。

お偉いさんの考えは、子供たちが等しく英語に親しみ、等しくレベルアップすれば、ということなのだろうが、大笑いである。英語好きな子供と英語嫌いな子供の差がますます広がるばかりで、等しくレベルアップするなんてことはない。子供は大人が思っている以上に大人だ。こういう子供だましの授業にだまされる子供ばかりじゃない。

だったらどうすれば日本人の英語力は向上するのか、という問題が残るが、答えはきわめて単純である。ほっときゃいいのだ。人間、必要に迫られれば嫌でも勉強する。子供の頃に勉強しなければ大人になってから困る、という人もいるが、そんなものは大人になってから必死に勉強すればいいだけのこと。逆に言えば、そうして必死に努力しなければ何も身につかない。

子供たちの英語教育に必死になる大人たちの気持ちがよく理解できない。英語ができたところでそれがどうしたというのか。英語よりもまずは日本語だろう。日本語もロクに話せない子供に英語を勉強させてどうするつもりだと言いたい。



06/04/02

桜が満開だ。この時季は本当に心が浮き立つ。日本中が桜で埋まって窒息すればいいのにといつも思う。ということで、今年は目黒川沿いの桜並木を見に出かけた。

桜には水がよく似合う。川沿いや池の周りに咲いている桜は、ただ道端に咲いている桜とは美しさが違う。花には水、人には愛が必要だ。ついでに言うなら、コーヒーにはクリープ、焼き魚には大根おろし、糖尿病にはインスリンが必要だ。

桜は見事だが、とりあえず腹が減ってきた。この時期は花見客でどこのレストランも一杯なため、しかたなく行列に並んだ。並んでいる間に「順番がきたらお呼びしますので、お名前をおうかがいしておきます」と店員さんに言われたので、「福山です」と答えた。

こういうときにうっかり「永橋です」と答えると、かなりの高確率で「ナカハシさんですか?」とか「ナラハシさんですか?」と聞き返されることになるので面倒だ。こういう場合はわかりやすい名前を言っておくに限る。

しかし、「田中です」とか「鈴木です」などとありきたりの名前を答えるのはあまり面白くない。本当の田中さんや鈴木さんとかぶる可能性もある。だからといって、「永田です」とか「堀江です」とか答えるのもこの時期としては微妙だ。「姉歯です」と答えるのはシャレになっていないので避けるべし。

以上を踏まえて、「福山です」と答えてみた。実は自分は福山雅治のファンだったりする。あの爽やかなルックスとインチキ臭いトークとのギャップがたまらない。ルックスは別として、自分のセンスと何か共通するものを感じる。きっといい友達になれるはずだ。

ということで、福山な気分で満開の桜を眺めながらランチを食べた。頭の中で「桜坂」のフレーズが流れたのは言うまでもない。君よずっと幸せに、と風にそっと歌った春爛漫の一日。



06/03/26

新居に引っ越してからちょうど1年が過ぎたため、「1年目アフターサービス」なるものをやってもらった。アフターサービスには「3ヶ月目」、「1年目」、「2年目」とあって、今回は引っ越してから2回目のアフターサービスとなる。

相方がいつもきれいにしてくれているおかげで概ね問題はないのだが、1年も住んでいるとやはりところどころ不具合が出てくる。水道の蛇口から水が漏れたり、玄関の鍵が回りにくかったり、床暖房の調子が悪かったりといった問題を、それぞれの業者に修理してもらうのだ。

業者はみんなその道のプロなので、話を聞くと知らないことが色々あって驚く。中でも一番驚いたのが、鍵穴には「KURE 556」などの潤滑剤を使ってはいけないということ。こうした潤滑剤を使うと、鍵穴の中の細かいゴミやホコリが固まってしまうため、余計に鍵が回りにくくなるらしい。

じゃあ、鍵穴には何を使えばいいの?と尋ねたところ、2Bや4Bなどの芯の柔らかい鉛筆を使うとのこと。鍵の凹凸のパターンに沿って鉛筆の黒鉛をこすりつけ、これを鍵穴に差し込んで回すことにより、鍵穴の中のゴミやホコリを取り除くことができるらしい。

なるほど、これはちょっとしたトリビアだ。45へえくらいか。いや、ちょっとしたトリビアという言い方はないか。頭痛が痛いのと同じだ。

もう一つ驚いたのは、床板は季節によって伸び縮みするということ。リビングの床と和室の敷居との間に5mmくらいの隙間があいていたので原因を尋ねたところ、冬は乾燥しているため板が縮み、夏になると湿度が高くなるため逆に板が伸びるらしい。これまた38へえくらいのトリビアだった。

いつもくだらないことばかり書いているので、今回の覚書は若干ためになることを書いてみた。これを読んでいる人にとって、35へえくらいのトリビアになれば嬉しい。



06/03/12

前回に引き続き、今回もシステムエンジニアについて書いてみたい。

自分が翻訳業を目指したのは、翻訳が好きだったから、あるいは興味があったから、という前向きな理由ではなく、むしろSEという職業から脱け出したかったから、という後ろ向きな理由のほうが強い。正直なところ、SEを辞められるのであれば、翻訳でなくともよかった。

システムを作るという仕事は気苦労ばかりが多く、達成感も味わいにくい。開発言語の仕様の制限や実際の業務におけるイレギュラー処理などの要因のため、顧客のニーズを100%満たすシステムを作るのは事実上不可能であるにも関わらず、顧客は100%のシステムを要求する。

そんな顧客の要望を聞きつつ、なんとか落としどころを見つけてシステムを開発していくのがSEの仕事である。そうして出来上がったシステムは70%程度しか顧客の要望を満たしていないわけだから、顧客としても今ひとつ不満が残る。細かいバグも当然出るから、顧客としてはさらに不満がつのる。

つまり、いくら頑張ってシステムを作ったところで、顧客からは感謝されることが少ない仕事なのである。これを読んでくれている人たちの中にもSE職の人はいると思うが、おそらく激しく納得してもらえるのではないだろうか。

しかし、自分にとって何よりも苦痛だったのは、システム開発はすべて理詰めで考えて進めなければならず、加えて正確さが求められるということだ。消費税の計算が1円でも違っていたら、そのシステムは機能しない。自分にすれば1円くらいでガタガタ言うなと言いたい。

自分は適当にセンスとフィーリングで仕事をしたいのだ。翻訳にしてもガチガチの文法重視で翻訳するのは好きではない。翻訳で一番大事なのは文法知識ではなくセンスであると断言したい。というより、文法自体あまり詳しくないだけなのだが。



06/03/05

仕事でシステムの仕様書を翻訳することがあるが、元システムエンジニアの自分としてはこの仕事が妙に嬉しい。以前は当事者として仕様書に対していたものが、今となっては傍観者として対することができるからだ。

コンピュータ業界は、ハードもソフトもまさに日進月歩の勢いで進化している。しかしながら、業務アプリケーション(在庫管理、受発注管理、物流管理などのシステムのこと)のシステムロジックはまったくと言っていいくらい昔のままだ。現役を引退した今でも、こうした仕様書を眺めるとシステムの概略くらいは大体想像がつく。

自分もつい何年か前までは毎日同じような仕事をしてたっけ、などと思い出しながら翻訳をするのが妙に嬉しいわけである。つまり、システムエンジニアという職業から脱け出せたことが嬉しくて仕方ないのだ。

システムエンジニアというと、何やらクリエイティブで最先端の職業というイメージがあるかも知れないが、実際の業務はあきれるほどに泥臭い。システムエンジニアやプログラマーのことを最近では「デジタル土方」と呼ぶらしいが、言い得て妙である。

来る日も来る日も同じようなロジックをこねくり回しながら、納期直前では追い込み作業で身体を酷使し、納品したらしたで噴出するバグ対応のために精神的に追い込まれる。端的に言うと、これが大方のシステムエンジニアの実態である。

翻訳という仕事も単調ではある。むしろ、システムエンジニアの仕事よりもずっと単調かも知れない。しかし、自分は文章を書くことが大好きなので、少しも苦にならない。結局は今の仕事が自分に合っているということだろう。

そんなわけで、システムエンジニアの方々の苦労を偲びながら、毎日ストレスフリーで仕事をさせてもらっている。この先何があっても、デジタル土方に戻るつもりは一切ない。



06/02/26

受験シーズンもいよいよ終盤戦を迎えた今日この頃、受験生のみなさんにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。試験本番でのご健闘を心よりお祈り申し上げます。

最近になって知って驚いたのだが、近所にある私立大学の偏差値がなんと40らしい。40といったら赤点ギリギリではないか。いやしくも日本の最高学府である大学の偏差値が40とはなんたることか。そんな大学が日本に存在してもいいんですか。

とはいえ、大学は大学。学生に罪はない。そこに山があれば登るのと同じく、そこに大学があれば入学するのは当然だ。こういう大学を作った経営者こそどうかと思う。金儲けが悪いとは言わないが、どうせなら他の手段で儲けてほしい。はっきり言って、こういった大学が世の中の役に立っているとは思えない。

役に立たないと言えば、こうした大学で教える教授たちこそ役に立たない。勉強をする気もない学生たちに経済や法律を教えたところで、いったい何の役に立つのか。社会に出るにあたっての常識やマナーを教えたほうがよほど役に立つ。

しかしながら、大学教授自身に常識やマナーが欠落しているから始末におえない。大学という閉鎖的な世界にどっぷりと浸り、外の世界のことは何ひとつ知らないくせに、周りからはセンセイと呼ばれて天狗になっている。自分は大学教授という人種が大嫌いだ。

ただし、この先も大学教授にとって心地よい状況が続くとは限らない。すでに人口減少が始まり、大学進学率も頭打ちになっている状況を考えると、近い将来に大学の閉鎖や統合が相次いで起こるのは避けられない。だとすれば、真っ先に路頭に迷うのはこうした使えない大学に勤める教授たちだろう。

今一番ホームレスに近いのは、実はこうした使えない教授たちではないかと密かに思っている。まだまだ寒い日が続きますが、使えない大学教授のみなさんにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。お身体ご自愛くださいませ。



06/02/19

笑っちゃうくらいメダルが獲れない今回のオリンピックについて、もう少し書いてみたい。

冬のオリンピックがつまらない理由を考えてみたところ、つまらない種目を増やしすぎたことにあるのではないかと思い至った。スキーのモーグル競技やスノーボードのハーフパイプ競技なんて、スポーツというよりは曲芸に近い。こういった競技がオリンピック種目になるのであれば、スケボーやサーフィンなんかも夏のオリンピックに採用されるべきだろう。

スケートのショート・トラック競技の存在意義もよくわからない。すでにスピード・スケートという立派な種目があるにも関わらず、同じスピードを競う種目を増やすのは意味がない。所詮は二番煎じであって、価値はあまりない。

一番わからないのがカーリングだ。あれをスポーツと呼べるのかどうか、激しく疑問だ。「氷上のチェス」という別名があるらしいが、だったらカーリングはスポーツではなくゲームにより近いということになる。つまりは、ゲートボールと大差ない。

だいたい、カーリングはカッコ悪い。ブラシみたいなもので懸命にストーンの進路をこする役目が激しくカッコ悪い。デッキブラシでせっせと掃除をしている姿が連想されて、悲しさすら感じる。オリンピックの大舞台で、わざわざ掃除の腕を披露することもないだろう。

結局のところ、オリンピックの規模を大きくしようとして新しい種目を濫造したがゆえに、オリンピック全体の価値が下がってしまったということだろう。なんでも増やせばいいってものではない。種目数を絞ることによって、各種目の価値もおのずと上がってくる。

サーフィンやゲートボールが正式種目として採用されたインチキくさいオリンピックなんて、誰も見たくないだろう。しかし、今の冬季オリンピックは相当インチキくさいオリンピックになってしまっている。こんなオリンピックでメダルなんて獲れなくても一向にかまわない。



06/02/12

あまり盛り上がっていないが、とりあえずトリノ・オリンピックが始まったらしい。それにしても、一般大衆のオリンピックに対するこの関心の低さはどうしたことだろう。

などと言っているが、実は自分もほとんど興味がない。夏のオリンピックの場合は、安直なナショナリズムに燃えて盲目的に日本人選手を応援するのだが、こと冬季オリンピックに限っては誰がどうなろうとほとんど関心がない。

オリンピックと銘打つからには、全世界の選手が参加できなければいけない。黒人勢の参加しないオリンピックなんて、肉の入っていないすき焼きみたいなものだ。一番優秀なアスリートである黒人勢がオリンピックに参加しなくてどうする。

ウインター・スポーツにも興味がない。特に新設された競技がつまらない。両手両足を広げてジャンプしながらスキーで滑ったり、スノーボードで滑りながらくるくる回転したりしても、それが何か? と思ってしまう。どうせ回すなら銀のスプーンで私の心をくるくる回してほしい。こんなことでメダルが獲れるなら、中国雑技団の人たちは皆プラチナメダルだ。

一部の日本人選手のレベルが低いのも嫌だ。ここでいうレベルとは、人間としての全体的なレベルを指す。オリンピック選手とは、すべてのアスリートの憧れと尊敬の対象でなくてはならないはずが、街中にたむろしている連中と同じようなレベルの人間が日本代表になっているのが嫌だ。誰とは言わないが、メロだのドームだの、マンガみたいな名前のお子様たちのことだ。

あと、選手たちがバカの一つ覚えみたいに繰り返す「パフォーマンス」と「楽しみたい」という言葉も嫌いだ。「最高のパフォーマンスを見せて楽しみたい」という言葉はもう聞き飽きた。もう少しひねってください。まあ、これは冬季オリンピックに限ったことではないが。

そんなこんなで、どうしても冬季オリンピックには熱くなれないが、やはり自分も日本人なので、日本人選手には若干頑張ってもらいたい。メロだのドームだの、マンガみたいな名前の一部のお子様たちを除いて。



06/02/04

ライブドア事件、耐震強度偽装問題、アメリカ産牛肉輸入再禁止、防衛施設庁談合事件、これらをあわせて「国会4点セット」と呼ぶらしい。大丈夫か、民主党。

談合事件についてはいいと思う。こういった官僚の天下りにからんだ腐りきった不正については徹底的に追求すべきだ。だが、あとの3つについてはどうだろう。国会で与党を追求する材料になりうるだろうか。

アメリカ産牛肉については、責任は一義的にアメリカ側にある。あれだけすったもんだの末に輸入再開までこぎつけたのだから、まさかアメリカがそこまで杜撰な管理をするとは思わないだろう。これは予測しろというほうが無茶だ。与党を追求しているヒマがあったら、アメリカを徹底的に追求すべし。

耐震強度偽装問題については、マンション建設のシステムが複雑で、責任の所在をどこに求めるべきかが難しい。自分としては検査機関の罪が一番重いと思っているが、少なくとも民主党が主張する「小泉改革のひずみ」という意見は的外れだと思う。

ライブドア事件に至っては、まったく笑止千万。なぜホリエ君の株価至上主義が与党追求のネタになりうるのか、さっぱりわからない。犯罪人かもしれないホリエ君を選挙に引っ張り出したから? そんなことでいちいち追求されたんではたまらない。結果論で物事を論じることほど無益なことはない。

とにかく、罪を犯した本人が一番悪い。それをいちいち国のシステムが悪いだの、根本原因はもっと深いところにあるだのと、したり顔で解説しなくともよろしい。どんなシステムにおいても、必ず犯罪というものは起こる。完璧なシステムなど存在しない。

与党の足を引っ張るのが野党の仕事だというのはわかるが、もう少しなんとかならないものか。あまり関係ないけど、前原代表は郷ひろみに似ていると思う。



06/01/29

仕事で顧客とミーティングをすることになった。今回初めてお付き合いをすることになった翻訳会社とのミーティングである。

ミーティングの席には、向こうから4人とこちらから8人が出席した。お互いに初対面ということで、まずは名刺交換となったのだが、困ったことに向こうには外人さんが1人いる。50歳前後とおぼしき金髪のこの女性が、どうやら今回のプロジェクトのトップらしい。名刺を交換する人たちとなにやらにこやかに英語で話をしている。その様子を見ながら、自分の心拍数は一気に上がった。

社会人になってから今まで、外人さんと名刺交換をしたことなどただの一度もない。名刺交換のマナーは新入社員研修のときに習ったが、そのときのシチュエーションは外人さんなんて想定していなかった。今まさに想定外の事態に立たされたわけである。外人さんの前に立った自分は、意を決してこう挨拶した。

「お世話になります。永橋と申します。よろしくお願いします」

名刺を受け取った外人さんの顔からはそれまで浮かべていた笑顔が消え、その代わりに困ったようなきょとんとしたような表情が浮かんだ。それはそうだろう。いきなり日本語で挨拶されても困るだろう。しかし、それ以上に自分のほうが困っているということを理解してもらいたい。

それからのミーティングは、この外人さん1人のためにすべて英語で行われた。日本人同士のやり取りもすべて英語である。日本人なのにみんな英語を話せるなんてすごいなあ、などと思いながら、結局一言も発言しないままミーティングは終了した。

それにしても、こんな英会話アレルギーの人間が英語の仕事なんてやってもいいのだろうか。何かが間違ってはいないか。自分自身でも激しく疑問に思ったある冬の一日。



06/01/22

春の選抜の入場行進曲が決まったらしい。「修二と彰」が歌う「青春アミーゴ」という曲だ。「修二と彰」って誰ですか? 「青春アミーゴ」ってどんな曲ですか? 

聞くところによると、「青春アミーゴ」は去年一番売れた曲で、100万枚を超えるセールスを記録したとのことだ。しかし、曲を聞いたこともなければ、タイトルすら初めて聞く。もちろん、「修二と彰」というユニットの存在も初耳だ。

相方に訊いたところ、やはり知らないと言う。二人そろってこんなに売れている曲の存在すら知らないとは、いったいどういうことだろう。二人のうちのどちらかが、少しくらいは知っていてもいいのではないか。ここ千葉市稲毛区は電波の届かない無人島ですか?

歳を取ったと感じる瞬間は人それぞれだと思う。駅の階段を駆け上がって息が切れたとき、前夜の深酒が翌朝も抜け切らないとき、知人の名前がとっさに出てこなかったときなど、いろいろあると思うが、自分の場合はこういった若者向けの流行に無関心だということに気付いたときだ。

若い頃は当然のように流行を追っかけていた。ファッションや音楽などの知識を、テレビや雑誌からせっせと仕入れていた。テレビに出演する女子アイドルの顔と名前は、努力する必要もなく自然に頭の中にインプットされていた。しかし今となっては、そんな反射神経は望むべくもない。

こういった老化現象は自分でも気付かないうちに静かに進行するから怖い。いつから流行に鈍感になってしまったのか。5年くらい前からの気もするし、10年くらい前からの気もする。いずれにしろ、自分の青春アミーゴはとうの昔に終わってしまったということか。

とりあえずの慰めは、相方のH子も同じように流行に鈍感になっているということだ。独りじゃないって素敵なことね。これからも等しく流行に取り残されていきたい。



06/01/15

「料理にチャレンジする」を今年の目標にすると先週書いたが、新たにもう一つ目標を立ててみた。それは「ワインに詳しくなる」である。

新婚旅行でおフランスに行って以来、ワイン好きになってしまった。予算の都合上、普段の晩酌はもっぱらビールだが、機会を見つけてはいろんなワインを試している。

しかし無知とは悲しいもので、レストランやワイン店に行っても、ワインについて気の利いた会話ができないのである。ソムリエさんの一方的な説明に、ただ相槌を打つだけの自分が嫌になった。ブルゴーニュがどうのボルドーがこうのと言われてもさっぱりわからない。せめて一言二言でも会話が成立するくらいの知識は身につけたい。

別にワインに関するウンチクを語りたいわけではない。レストランで料理を前にして滔々とウンチクを語るなんて、無粋のきわみだ。そうではなく、自分の好みのワインについて品種や産地や料理との相性などの知識があればそれで充分。ワインは語って楽しむものではなく、飲んで楽しむものだ。

早速、書店に向かってわかりやすそうなワインの解説書を買った。代表的な品種と産地が載っているのだが、うーん、代表的なものですらこんなにあるんですか。舌を噛みそうな横文字ばかりで、とっつきにくいことはなはだしい。早くも挫折しそうな悪寒。

とりあえず、シャルドネとソーヴィニヨン・ブランとリースリングは品種の名前で、シャブリとボルドーとブルゴーニュは産地の名前だということは覚えた。だが、そこで力尽きた。あとはぼちぼち覚えていくことにしよう。

当面の対策として、上に挙げた3つの品種と3つの産地を組み合わせてワインを選んでみようと思う。3×3=9通りのパターンがあるから、当座はこれでしのげるのではないか。それにしてもワインは奥が深い。あまりにも深すぎて、ちょっとだけ困っているところだ。




06/01/08

あまりめでたくもないが、とりあえず新年が明けたらしい。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

それにしても1年が経つのは早い。年々早くなっていく気がする。おそらく誰もがそう感じているだろうが、よく考えればこれは当然のことだ。子供の頃の時間の経過速度と大人になってからのそれとでは、違っていて当然なのである。違わない方がおかしい。

10歳の子供の1年間は自分の人生の1割を占めているのに対して、40歳の大人の1年間はわずかに40分の1だから、早く感じるのは当然である。だから、年々時間の経過が早く感じるようになるのもこれまた当たり前。1年の時間的な重みというものが、歳とともに相対的に軽くなっていくのだから。

以上のことを踏まえて、「今年もあっという間だった」なんていうお決まりの台詞を言うのはもうやめにしたい。当たり前のことにいちいち感心しているヒマがあったら、今年の目標でも立てた方がよほど生産的である。

いろいろと考えてみた結果、今年の目標は「料理にチャレンジする」に決定した。そもそも料理は嫌いではない。手間ひまかけて作るのが面倒なだけで、手早く簡単に作れるものならばチャレンジ意欲は大いにあるのだ。

ということで、「きんぴらを制する者は料理を制す」という格言に従って、手始めにきんぴらごぼうを作ってみた。いや、そんな格言なんてないから、あわててググったりしないように。材料はもちろん、スーパーで売られているカットされたごぼうだ。ごぼうが切れるくらいの腕があったら、そもそもこんな目標を立てたりしない。

出来上がったものを食べてみたところ、なんとなくきんぴらに似ている気がした。まあ、こんなもんだろう。千里の道も一歩から。きんぴらを制する者は料理を制す。来年の今頃は涼しい顔でブイヤベースを作っている自分でありたい。



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