一年二組の教室の前に立ち、紀子は大きく息を吸い込んだ。
扉に手をかけて息を吐き出し、よし、と自分に気合を入れるように小さく声に出して、紀子は教室に入った。

「スタンダップ」
クラス委員の男子がぎこちない発音で合図をかけて、生徒たちが一斉に立ち上がる。
教壇に立った紀子は流暢な発音で生徒たちに声をかける。
"How are you, today?"
「アイムファイン、サンキュー。アンドユー?」
"I'm fine too, thank you. Sit down, please"
生徒たちが着席したのを確認して、紀子は授業を始める。

大学を卒業して、東京郊外の中学に英語教師として勤め始めて一ヶ月が経った。中学生の頃から英語が好きだった紀子は、将来は英語教師になろうと決心し、大学は教育学部に進んだ。採用試験に合格し、採用通知を受け取ったときには飛び上がらんばかりに嬉しかった。しかし実際に教壇に立つと、教師という職業の大変さを痛感する毎日だった。

授業を始めてから20分も経たないうちに、教室の後ろの方から声が上がる。痛いな、やめろよ、と言う男子生徒の後頭部を、丸めた教科書で突付いているのは安藤学だった。またか、と思いながら紀子は、安藤君やめなさい、と注意する。
ほーい、と返事をして静かになったと思う間もなく、今度は隣の席の男子生徒とふざけ始める。紀子は思わず苛立った声で、静かにしなさい、と注意する。

最初の授業から、学にはペースを崩され通しだった。
ワン、ツー、スリー、と生徒たちに数字の発音練習をさせていたとき、シックスのところで、後ろの方で何人かの男子生徒が「セーックス!」と声を合わせた。小さな声で、せーの、と指揮を取っているのは学だった。最初は無視していた紀子も、しつこく何回も繰り返されるいたずらにたまりかねて言った。
「セックスっていうのは、君たちが思ってるような意味では使いません。”性別”という意味で使うことがほとんどです。英語の書類には "SEX" の欄があるけど、これは男性か女性かを書き込む欄です。だから、セックスというのはごく普通に使われる単語なの」
それを聞いた学は、平気な顔をして言った。
「別に僕たちは変な意味で言ってるわけじゃありません。それくらい知ってます。先生が考えすぎなんじゃないですか?」

学の周りでクスクスという笑いが起こった。
思わず頬に熱が上ってくるのを感じた紀子は、黒板に向かってチョークを取り上げながら気持ちを落ち着かせた。たった12歳の子供にからかわれて冷静さを失っている自分が悔しかった。

もちろん、他のクラスにもやっかいな生徒はたくさんいる。
授業中に席を離れる生徒や居眠りばかりしている生徒、手紙のやり取りをする生徒など、数え上げればきりがない。しかし、こういった生徒は紀子が中学生の頃にももちろんいたから、覚悟はできていた。こういう生徒たちとしっかり向き合うことが教師の仕事だとも思っている。なのに、学だけは苦手だった。自分に意識的に突っかかってくるような学の態度に、つい紀子もむきになってしまうところがあった。最初の授業でからかわれたときから、妙に学を意識してしまうようになってしまった。


終業を知らせるチャイムが鳴った。
今日の授業はここまでにします、と紀子が告げると、生徒たちは椅子から立ち上がって思い思いにばらける。
教壇の上を整理して顔を上げると、学が目の前に立っていた。160cmの紀子と目線の高さは変わらない。ヒールを履いている分、実際の身長は学の方が若干高いだろう。
「どうしたの?」
「あのさ、先生って彼氏いるの?」
「え?」
真っ直ぐに見つめる学の視線に、思わず紀子はドキリとした。

この子、きれいな目をしている。

「変なこと訊くんじゃないの。安藤君には関係ないでしょ」
「別に教えてくれたっていいじゃん」
「いません」
そう言う紀子の頭には純一の姿が浮かんでいたが、正直に答えて学にからかいの種を与えてしまうのもしゃくだと思い、つい嘘をついた。嘘も方便、こんなのは罪のない嘘だ。
ふうん、と言って学は教室を出ていった。

やれやれ、と思いながら紀子が廊下に出ると、ちょうど隣のクラスから上条が出てくるところだった。
「やあ、藤谷先生、お疲れさま」
社会科の教師である上条は、学生時代に空手部で活躍したということで、45歳という年齢よりもずっと若々しく見える。生徒たちにも慕われ、また空手三段という実績もあって、生活指導の教師として上条ほど適した人間もいないだろう。職員室での席が隣同士ということもあって、紀子はこれまでに何度か相談に乗ってもらったことがあった。

「どうしたんですか、なんだか元気がないなあ。若いんだから笑顔でいきましょう」
ええ、とあいまいにうなずき返しながら紀子は上条と並んで歩き出す。
「また安藤が何かやらかしましたか?」
「いえ、そう言うわけではないんですけど、授業中に騒ぐ生徒たちを静かにさせるのに気を遣ってしまって、うまく授業を進めることができないんです。きっと私の力不足なんです」
すれ違う生徒たちに声をかけながら上条は答える。
「まだ一ヶ月じゃないですか。最初から何もかもうまくいくわけがない。最初のうちは思い切り悩むことです」
「はい」
本当にその通りだと思いながら紀子はうなずく。

「安藤には父親がいないんですよ。幼い頃に両親が離婚して母親に引き取られたらしいんです。母子家庭だからどうだと言うわけじゃないですけど、そのあたりのことも影響してるんじゃないかな」
「そうなんですか」
「まあ、やつはやつなりになかなか良いところもあるんですよ。何かあったらいつでも私に言ってください。あいつの担任として優しく厳しく指導しますから」
「どうもありがとうございます」
上条の心遣いに感謝しながら、紀子は頭を下げた。


その日の夜、紀子は純一のアパートを訪ねた。
「学校の方はどう? 藤谷先生」
ビールを一息であおって純一は訊いた。3つ年上の純一とは学生のときに知り合った。付き合い始めて2年になる。
「もう、先生はよしてよ。でもね、思ったより大変なの。何だかいきなり五月病って感じ」
「なんだよ、この間まであんなに張り切ってたのに。何か嫌なことでもあったのか?」
商社に勤務する純一は一ヶ月の海外出張から戻ったばかりで、また明日から一ヶ月の出張に出なければならない。純一も仕事で大変だろうとは思いながら、また当分の間会えなくなると思うと、紀子はつい淋しくなって学校でのことを話した。

「なるほど、紀子はその安藤学君に振り回されちゃってるわけだ。12歳の子供にねえ」
そう言って、純一は明るい声で笑った。
「もう、笑い事じゃないんだから。今日なんていきなり”彼氏いるの?”なんて訊かれちゃうし」
「へえ、そんなことを訊かれたのか。それでなんて答えたんだ?」
「もちろんいないって答えたわ。正直に答えたらまた何か言われそうなんだもの」

グラスにビールを注ぎながら明るい声で純一が言った。
「きっと安藤君は紀子のことが好きなんだな」
「え? 私のことが好き? 嫌いっていうのならわかるけど、間違っても好きなんてことはないと思うよ」
「わかってないなあ」
「何がよ」
「その年頃の男の子っていうのは、自分の気持ちを表現するのが下手だから、つい逆の行動を取ってしまうんだ。ほら、好きな女の子をいじめる男の子って良くいるだろ? 安藤君の場合もきっとそうだよ」
「そうかなあ」
「そうだって。紀子にだって子供の頃に同じような覚えがあるんじゃないか? 何かにつけてちょっかい出してくる男子とかいただろ?」
「どうかな、いたようないなかったような」
「まあ、そういうことだよ。だから変に悩む必要はないさ。安藤君には悪気はないんだから。それにしても、もてるねえ藤谷先生」
「もう、冗談はやめてよ」

純一の言葉に納得したわけではなかったが、紀子の気持ちはいくらか軽くなった。いつも純一はふざけているようでいて、さりげなく気を遣ってくれる。そのさり気なさが紀子は嬉しかった。


目覚し時計の音で紀子は目を開けた。枕元に置かれた時計の針は4時半を指している。
隣で眠る純一を起こさないように、紀子は静かにベッドから抜け出した。

昨日は自分のアパートに戻るつもりだったが、アルコールが入った途端に日頃の疲れが出てしまい、そのまま純一に腕枕をされながら眠ってしまった。始発電車でアパートに戻れば、シャワーを浴びてゆっくりと朝食を摂るくらいの余裕はあるだろう。いくら何でも、昨日と同じ服装のまま授業をすることはできない。

手早く身支度を済ませ、小さく寝息をたてる純一の頬に軽く唇を触れて紀子は部屋を出た。空はすっかり明るくなっていた。

階段を下りると、一階の集合ポストに新聞を入れている人の姿が目に入った。
何気なく通り過ぎようとしたときに、顔を上げたその人と目が合った。

「安藤君?」
一瞬驚いた表情を浮かべた学は、少しの間紀子の表情を見つめた後、視線を逸らせて作業を続けた。
「新聞配達してるの?」
「見ればわかるだろ。学校からはちゃんと許可をもらってるから校則違反じゃないよ」
「こんなに朝早くから偉いね」
そう言ってから、何を言ってるんだろう、新聞配達なんだから朝早いのは当たり前だ、と思い紀子は心の中で赤くなった。

「そういう先生も早いね。もう学校に行くの?」
「え、えっと」
思わず紀子は慌てた。
「冗談だよ。先生の名前がどのポストにも書かれてないから、先生が朝帰りだってことくらいわかるよ」
「え、いやこれは違うのよ。そうじゃなくて」
「まだ配達の途中なんだ。急がないと間に合わない」
そう言って、学は自転車にまたがって走り去った。
その後姿を見送りながら、また学に振り回されている自分に気づいて腹が立った。
その反面、紀子は少しだけ愉快な気持ちにもなっていた。

新聞配達なんて、あの悪たれもなかなか良いところあるじゃない。少し見直してあげる。

空を見上げて、よし、と自分に気合を入れて、紀子は早足で歩き出した。



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