一年二組の教室に入ると、黒板に大きな文字で何かが書かれているのが目に入った。
スタンダップ、というクラス委員の声に一度視線を正面に戻し、"Sit down, please" と言ってから改めて黒板に向き直った。

「藤谷先生は朝帰り。今日は彼氏の家からご出勤」

黒板の下の方には、男と女がベッドの上に並んだ下手な絵が描いてあった。
紀子の体が一気に熱くなった。教室の後ろの方からヒソヒソと囁き合うような声が聞こえてくる。
紀子は懸命に恥ずかしさと怒りを抑えながら、わざとゆっくり時間をかけて黒板を消した。

肩を動かさないように胸の奥で大きく深呼吸をして、正面に向き直った。
何もなかったようにいつもの調子で紀子は授業を始めた。しかし、決して学の方に視線を送ることはなかった。きっと心の中で笑っているのだろう。顔を見るのもしゃくだった。
授業を進めるうちに、いつものように学が騒ぎ出したが、それを無視して授業を続けた。
自分でも大人気ない態度だということはわかっていたが、紀子は意地でも学を無視してやろうと思った。


こういう噂は例外なくあっという間に広がるものだ。それは紀子も良くわかっていた。
六時間目の授業が終わるまでに、廊下ですれ違う生徒たちから何度も「朝帰り」という言葉が聞こえた。その度にその生徒をつかまえて、朝帰りの何がいけないの、と問い詰めたかったが、結局は何も聞こえない振りをして平気な表情を装うしかなかった。胸の奥にやり場のない怒りが溜まっていくのを感じる。

席に戻ると、校長室に呼ばれた。もう校長の耳にまで届いたのか、そう思いながら紀子は校長室のソファに腰を下ろした。
「何の話かはあなたもわかっていると思うけど」
遠まわしにそう訊かれて、紀子は自分でも思いがけずとがった声で答えた。
「朝帰りのことでしょうか」
「いやね、何も朝帰りがいけないと言っているわけじゃない。あなたも若いんだからしかたない部分もあるでしょう」
そう言って校長は軽く笑った。およそ校長という聖職者の長にあるべき人間とは思えないほど、いやらしい笑い方だった。歓迎会で校長の横に座らされてお酌をさせられて以来、紀子はこの脂ぎって太った男が嫌いだった。いや、採用面接のときに、紀子の頭から爪先まで品定めをするような視線を受けて以来、紀子はこの男が大嫌いだった。

「私が言いたいのはね、中学生という多感な時期にある子供たちを預かっている以上、そういうことには細心の注意を払わないといけないということなんです。それはわかりますよね」
「はい。その点に関しては配慮が足りなかったと反省しています」
「そう、それがわかっていれば良いんです。子供たちだけではなく、親たちの目もありますからね。くれぐれも自分の行動には注意してください。まあ、ばれない程度には楽しんだって良いんですよ」
そう言って、校長はまた笑った。
申し訳ありませんでした、と紀子は頭を下げて校長室を出た。

席に戻ると、上条が声をかけてきた。
「大変だったね。あのエロジジイに変なことを言われなかった?」
そう言って上条は、校長室の方に首だけ向けていたずらっぽく笑った。それにつられて、紀子も思わず小さく笑った。

「たった今、安藤のやつはこってりと油を絞っておきましたから」
「なぜあんなことをしたのか、何か言っていましたか?」
「面白いから、なんて言ったから思い切り怒ってやりました。藤谷先生がどれだけ傷ついたか、わかっているのか、ってね」
「そんな、私はあんなことくらいで傷ついたりしません」
充分に傷ついていたが、こんなことで動揺するような弱い人間に思われたくなかった。そんな紀子の気持ちを察してか、上条は笑顔を作って言った。

「ええ、僕ももちろんそう思います。藤谷先生は外見に似合わず強いところがある。図太いと言っても良いかも知れない。いや失礼。でもこういう場合は少しくらい大げさに言ったほうが良いんですよ」
紀子の弱さを知っているからこその言葉だろう。上条の励ましに紀子は心の中で頭を下げた。

「でも僕がそう言ったら、あいつえらくしょげた顔をしましてね。いつも何を言ったって、カエルの面になんとかって感じで聞き流すだけなんだけど、さすがに今回は自分が何をしてしまったのか、あいつなりに気づいたんじゃないですかね」
「そうですか。だったら良いんですけど」
「まあ、これから何日かはつまらない噂も流れるかも知れませんが、気にしないことです。何しろ周りにいくらでも面白いことがある年頃だから、今回のことなんてすぐに忘れますよ」
「ありがとうございます」


上条に言われた通り、もう終わったことは気にしないでおこうと思いながら、心のどこかでまだひきずっていた。
あれ以来、学のことは無視し続けたままだった。最初こそ、いつもの通りに教室の後ろで騒いでいた学も、今では嘘のようにおとなしくなった。つまりは喧嘩相手がいなくなって張り合いがなくなったということなのだろう。紀子に取っては思わぬケガの功名だった。


5月の第三週と四週にまたがって中間試験が行われた。
実際に生徒ひとりひとりの学力を判断して、これからの授業に役立てる意味で、年度最初の中間試験は大きな意味があった。一年一組の採点を終えて二組の採点に取り掛かった紀子の手は、3枚目の答案用紙で止まった。出席番号順に重ねられた3枚目の答案用紙には「安藤学」の名前が書かれていたが、そのほかはまったくの白紙だった。
今度は一体何のつもりだろう。こういうことをして何が面白いのだろうか。紀子は大きくため息をついた。

いずれにしろ、これは無視するわけにはいかない。

一通り採点を終えた紀子は、答案用紙を抱えて一年二組の教室へ向かった。
教壇に上がって、この間の中間試験の答案用紙を返します、と紀子が言うと、うわあ、とか、やべえ、と言う声があちこちで上がった。
ひとりひとりの名前を呼んで、答案用紙を手渡していく。3番目に学の名前を呼んで白紙の答案用紙を手渡しながら、放課後に職員室まで来なさい、と紀子は言った。学は肩をすくめる仕草をしながら、答案用紙を受け取り席に戻った。


六時間目が空いていた紀子は、すべてのクラスの採点を終え、クラス毎の成績表を作り上げた。
ふう、と大きく息を吐き出して思い切り伸びをしたところに、上条が戻ってきた。
「あ、上条先生。これ一年二組の英語の成績表です」
そう言って、紀子は今作り上げたばかりの成績表を手渡した。
「それはどうもお疲れさま」
脇に抱えた教材を机の上に置いて、上条は手にした成績表に視線を落とした。上条の表情が険しくなるのがわかった。

「この、安藤の零点というのは?」
「それが、白紙だったんです」
「白紙?」
「ええ、名前以外は全部白紙で」

「まったく、あいつは何を考えているんだか」
そう言って、上条は椅子の背もたれに深く背中を預けた。
「安藤君のほかの教科の成績はどうなんでしょうか?」
紀子が訊ねると、上条は間をおかずに答えた。
「数学が100点で、国語と社会がそれぞれ95点です。まだ理科は結果が返ってきていないけど、これまでのところ、クラス委員の二人を大きく引き離して断トツのトップです」
「本当ですか?」
思わず紀子は訊き返した。本当ならば凄いことだ。わざわざ上条が点数を暗記するまでもないことが良くわかる。暗記するまでもなく、この点数ならば嫌でも記憶に残るだろう。

「僕も驚きましたよ。小学校の担任からの申し送り票には確かに”成績優秀”とは書かれていたけど、”授業中の態度に問題あり”とも書かれていましたからね。教師としては後者の方に注目するのが当然で、まさかこれほど優秀なやつだとは思ってもいませんでしたよ」
そう言って、上条はもう一度手許の成績表に視線を落とした。
「それにしても一体どういうつもりなんだろう。とにかくあいつの話を聞いてみないことには始まらないな」
椅子から立ち上がろうとする上条に、紀子は言った。
「いえ、今回のことについては私が話してみます。私の試験ですから私が聞いた方が」
そこまで言うと、両手をズボンのポケットに入れた学が紀子の方に近づいてくるのが見えた。

椅子から立ち上がった紀子は、あっちに行きましょう、と言って部屋の奥に置かれた空き机へ向かった。
机を挟んで学に向き直ると、紀子は話し始めた。
「一体どういうつもり? どうして白紙で出したりしたの?」
視線を下に落としたまま、学はぼそぼそと答える。
「わかんなかったから」

「嘘言うんじゃないの。上条先生に訊いたら、他の教科は凄い点数じゃないの。こういうことして何が面白いの?」
「そう怒らないでよ。いきなり怒られたら、話すことも話せないじゃん」
そう言われて、思わず自分が興奮していることに気づき、紀子は大きく息を吸い込んだ。
「どうして白紙で出したりしたの?」

視線を落としたまま、学は小さな声で話す。
「先生、最近ぜんぜん話してくれなくなったからさ。話したいことがあったんだ」
「じゃあ、白紙で出したのはそのためだって言うの?」
呆れた、という言葉を飲み込んで紀子は訊ねる。
「それで、話したいことって何?」
学は最初からずっと視線を落としたままで、紀子の顔を見ようとはしなかった。そのままの姿勢で黙りこんだ。

「黙ってたらわからないじゃない。話したいことって何なの?」
「先生、彼氏いないっていったじゃん」

下を向いたままだったので、紀子は良く聞き取れなかった。
「え? 今何て言ったの?」
「別に、何でもないよ」

そう言うと、また学は黙り込んだ。
それからは何を訊いても、学は口を閉じたまま決して何も答えようとしなかった。

「わかったわ。話したくなければ話さなくても良い。だけど、試験だけはちゃんと受けなさい。私だってあの試験を真剣に作ったのよ。だから安藤君も真剣に受けなさい。わかった?」
学は下を向いたまま、小さくうなずいた。
「よし、じゃあ早速明日の放課後に追試をします。それで良い?」
黙ったまま、また学は小さくうなずいた。


席に戻った紀子は、早速試験問題を作り始めた。
それを見た上条が、追試ですか?と訊ねた。
「ええ、明日の放課後に。それまで英語の成績を出すのは待ってもらえますか?」
「もちろん待ちますよ。お手数をかけて申し訳ない」
試験問題を作る良い練習になります、と言って紀子は無理に笑顔を作った。


翌日の放課後、美術準備室に入ると、学が席に座って窓の外を眺めていた。
なるべく静かで目立たないところをと考えて、紀子が選んだ教室だった。

「早速始めるけど、準備は良い?」
窓の外から紀子へと視線を移した学は黙ったままうなずいた。

答案用紙に視線を落として、学は問題を解き始めた。三分の一くらい答案用紙が埋まったのを確認した紀子は、窓際に立って外の景色を眺めた。五月の空はきれいに晴れて、グラウンドは部活動で汗を流す生徒たちの元気な声に満ちている。

私も10年前はあんな風に無邪気に走り回っていたのか。あの頃は毎日が楽しかった。何の悩みもなく、友達と他愛もないことを言い合っては笑っていたっけ。自分なりに悩みもあったんだろうけど、今となってはどうでも良いことばかりだ。隣のクラスの男の子に挨拶したのに無視されたとか、部活動の先輩に厳しくされたとか、そんなどうでもいいことばかり。
10年後には、今の悩みを笑って片付けることができる自分がいるんだろうか。きっとそうだろう。年齢を重ねるということはきっとそういうことなんだろう。そうやって過去の悩みを笑って思い出すことができるというのが、つまりは年を取るっていうことなんだろう。

そこまで考えて、思わず紀子は心の中で笑った。
いやだ、まだ22歳なのに何を自分勝手にたそがれてるんだろう。馬鹿みたい。そんなことを考えるのはあと30年先のこと。いや、50年先のこと。


「先生、できたよ」
背後から声をかけられて、紀子は振り向いた。
壁にかけられた時計を見ると、試験を始めてからまだ25分しか経っていない。
「もう終わったの? ちゃんと見直しはした?」
「うん、2回見直した」
「そう、じゃあ今から採点するから、座って待ってなさい」

胸ポケットに挿した赤ペンを手に取って、紀子は答案用紙に目を落とした。
用紙に書き込まれたアルファベットはどれも解答欄からはみ出して読み辛かったが、そのどれもが正解だった。心の中で舌を巻きながら用紙の右上に"100"と書き込んで、紀子は答案用紙を学に手渡した。

「凄いね、満点よ」
用紙を受け取った学は、ちらりと点数を確認しただけで、すぐに紀子にその用紙を返した。その表情はさも当然といった感じだった。
「ねえ、一体いつ勉強してるの?」
それは紀子の率直な疑問だった。授業中はいつも騒いで朝早くから新聞配達をしている学が、一体いつ机に向かうのかが不思議だった。

学は席から立ち上がりながら答えた。
「新聞配達の途中だよ」
「え?」
「自転車を漕ぎながら、前の日に授業で習ったことを思い出すんだ。それで、新聞をポストに入れながら、ひとつひとつの問題を頭の中で解いていくんだ。それだけだよ」
当然のように学は言った。
「それだけって、それって凄いことよ」
紀子は改めて学の表情を見つめた。
はにかんだような笑いを浮かべて、学はバックを取り上げた。
「もう帰っても良い? これから帰って夕刊を配らないといけないんだ」

そう言って教室を出ようとする学の背中に、紀子は声をかけた。
「ねえ、昨日話そうとしていたことって何だったの?」
バックを肩にかけながら学は答えた。
「忘れた」


教室を出ていく学を見送りながら、紀子は何気なく答案用紙を裏返した。
用紙の下に書かれた小さな文字を見つけて、紀子は思わず微笑んだ。

「ごめんなさい」

その横に、学生服を着た男の子が頭を下げている下手な絵が描かれていた。


あの悪たれ、良いとこあるじゃないの。
笑顔のまま答案用紙から顔を上げると、教室の入り口の窓から覗き込んでいる学と視線が合った。

紀子は学に向かって、親指を立てた。
無邪気な笑顔を浮かべた学が、親指を立てたサインを送り返した。

あいつ、良いとこあるじゃないの。

紀子は久しぶりに声を出して笑った。

五月の空はきれいに晴れていた。


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