美幸はパソコンの画面を見つめていた。

小説のラストをどうするべきかで悩んでいた。それまではずっと調子良く書き進めてきていたのだが、ラストシーンになって急にキーを叩く手が止まってしまった。
ラストシーンはもう頭の中では決まっている。しかし、それを文字にすることが怖い。
これは小説の名を借りたノンフィクションだ。文章こそ三人称で書いてはいるが、あの人と出会ってからこれまでの、自分の克明な行動記録なのだ。自分にそのラストシーンを実行するだけの勇気があるのだろうか。
パソコンに入力された文章を改めて読み返しながら、美幸はこれまでの出来事を頭の中で再現した。


新幹線の車窓を流れる雨混じりの景色を眺めながら、美幸はため息をついた。
実家になんて帰るんじゃなかった。本当ならば今頃イタリアで有子と過ごしていたはずなのに。

お互いに淋しい独身同士、夏休みを有意義に過ごそうとイタリア旅行を持ちかけてきたのはそもそも有子の方だった。図書館で司書として働く美幸が無理をして有子にあわせて休みを取ったのに、旅行の2週間前になって突然「ごめんね」と言って有子が電話をかけてきた。

ゴールデンウイークに、半ば無理矢理見合いをさせられたことは美幸も聞かされていたが、その話が予想以上にとんとん拍子で進んだらしく、今度の休みに相手の実家に二人揃って挨拶に行くという話だった。つとめて冷静に「良かったじゃないの」と言ったが、自分だけ取り残された気がして、美幸は内心穏やかではなかった。

本当にごめんね、と謝る有子の声は、受話器を通してもはずんでいるのがわかり、美幸の気持ちをさらに重くした。何だか裏切られた気がして、さらに話を続けようとする有子を無視して、美幸は受話器を置いた。
ひとりでイタリアに出かける気にもなれず、かと言って特に予定もなかった美幸は、旅行をキャンセルして、東京の蒸し暑さから逃れるように実家に帰った。

突然の帰省に最初こそ両親は喜んでくれたが、それも長くは続かない。母親と顔を合わせると二言目には「あんたはまだ良い人はいないのかい。好い加減に結婚してくれないとこっちも落ち着かないよ」と言われてしまう。「心配しないで。そのうち母さんがビックリするような素敵な人を連れてくるから」という言い訳も、最近ではすっかり決まり文句になってしまい、母親を安心させるどころか、かえって心配させるだけだった。

「もうあんたも30歳を過ぎたんだから、そろそろ結婚してくれないと。里美はもう二人も子供がいるのにねえ」
そう言ってタンスの引出しから写真を取り出して美幸の前に差し出す。幼い子供を抱えた妹の姿を横目で眺めながら、思わず美幸は心の中で舌打ちをする。

これじゃ、まるであてつけじゃないの。私だって結婚したいわよ。でも出会いがないんだから仕方ないじゃない。
喉元まで出かかった言葉を押さえながら、美幸は母親の背後に立ち、凝った肩を揉む。
「心配しないで。そのうち母さんがビックリするような素敵な人を連れてくるから」
そう言いながら、美幸自身その言葉の空しさを噛み締める。今の職場でビックリするような素敵な男性と出会える確率なんて皆無に等しいことは、誰よりも美幸自身が良くわかっている。図書館というのは想像以上に閉鎖的な空間だ。ドラマみたいな出会いなんてまず期待できない。本にばかり詳しくなって、その分だけ外界から遠ざかってしまうような隔絶された空間に、美幸はすっかり慣れてしまっていた。


新幹線が途中駅のホームに滑りこんで停車した。
ペットボトルのお茶を口に含みながら何気なく窓の外を眺めていた美幸の視界に、ひとりの男の姿が入ってきた。黒いアタッシュケースを提げ、白い半袖のワイシャツを着たその男は、ハンカチで額の汗を拭いながら美幸のいる車両に乗りこんできた。髪を短く刈り込んだ顔は小麦色に日焼けして、同じ色に焼けた腕が逞しい。年齢は30代後半といったところだろうか。精悍という形容詞がピッタリのその男の姿に、思わず美幸は見惚れてしまった。

男が左右の席を見回しながら美幸の席の横に立ち止まり、こちら空いてますか、と訊ねた。
口にしていたペットボトルを慌てて窓枠に置き、ええ、と美幸は答えた。
男は手にしていたアタッシュケースを網棚に置いて、美幸の隣に腰を下ろした。

コロンに混じったかすかな汗の匂いを感じながら、美幸は読みかけの文庫本を手に取り、自分を落ち着かせるようにゆっくりとページをめくった。隣の男にさりげなく話しかける台詞を考えながら上の空で活字を追っていた美幸に、思いがけず男の方から話しかけてきた。

「あれ? ”野火”じゃないですか」
美幸が手にした文庫本を見ながらそう言った男は、人懐こい笑顔を見せながら、ズボンのポケットから文庫本を取り出した。美幸の持っている本の表紙とは違っていたが、同じ「野火」のタイトルが書かれている。男の笑顔につられて、思わず美幸も微笑み返した。
「ずいぶん読み込んでいるみたいですね」
そう言われて、すっかり擦り切れてしまった表紙のカバーをいまさらのように眺めながら美幸は答えた。
「ええ、もう10回くらいは繰り返し読んでるんです。なぜか今の暑い時期になるとつい手に取ってしまって」
「実はぼくもそうなんです。なぜか暑くなると読みたくなる。きっと、この作品の舞台が熱帯のフィリピンだからでしょうね」
男が手にした文庫本の表紙も、美幸のそれと同じくらいに読み込まれていることを感じさせる。男は自分の文庫本をパラパラとめくりながら話し始めた。

「ストーリー自体は単純なんですよね。終戦間近のフィリピンで、作者の大岡昇平が死線をさまよう。食料も体力も尽きかけたときに二人の戦友に出会う。彼らの食料は”猿の肉”なんだけど、実は同じ日本兵を銃殺してその人肉を食べていた。作者はギリギリの状態で、このカリバニズムの是非と葛藤する」
「ええ」
「ぼくは大学生のときに初めてこの作品を読んだんだけど、そのときには正直なところ良く理解できなかったんです。なんだか難しくてね。でも何か惹かれるものがあった。で、二回三回と繰り返し読むうちに、どんどんと惹きこまれてしまったんです。読むたびに新しい発見があるんです、200頁にも満たない作品なのにね。やはり優れた作品というのはこうあるべきだと思うんです。読むたびに新たな発見のある奥深さと言うか」

そこで言葉を切って、手許の文庫本から窓の景色に視線を移した男は、短く刈り上げた襟足をかきながら照れたように言った。
「すみません、”野火”を好きな人に会ってつい嬉しくなってしまって。こんな話は退屈ですよね」
「いえ、退屈だなんてそんなことありません。私もそう思います」

そう言って、美幸は軽く微笑んだ。お愛想ではなく、美幸も同じ感想を持っていた。司書という職業柄、美幸も相当な読書量を誇っているが、優れた純文学作品であるか否かの判断基準は、繰り返しの鑑賞に堪えうるだけの深みを持っているかどうかだと思っている。だから繰り返し読んでいる「野火」は、名作中の名作だというのが美幸の考えだった。

新幹線が長いトンネルに入ると、車窓の景色から美幸に視線を移した男は、仕事は何をしているんですか、と訊ねた。図書館で司書をしています、と美幸が答えると、へえ、と言って男は改めて美幸の顔を見つめなおした。
「実はぼくも学生時代に司書を目指したことがあるんです。本に囲まれて仕事ができたら素晴らしいな、と思って。でも、想像以上に狭き門だということがわかったので、あっさりあきらめてしまいましたけど。だから、自分にとっては司書というのはいまだに憧れの職業なんですよ。うらやましいなあ」
そう言って何度も、うらやましいなあ、と繰り返す男の表情を見ながら、この人は本当に本が好きな人なんだなと思い、美幸は嬉しくなった。

それであなたのお仕事は、と美幸が訊ねると、すみません、人のことばかり訊いて、自分のことを何も話してませんでしたね、と慌てたように襟足を右手で掻きながら、男は話し始めた。

男の名前は高山俊彦。大手食品メーカーの営業課長。年齢は美幸より6つ年上の38歳。美幸と同じ歳の妻と5歳になる娘がひとり。
逞しい腕とは不釣合いなきれいな細い薬指にはめられたシルバーの指輪を見ながら、美幸の気持ちは少しだけ沈んだ。

トンネルを抜けると、窓の外にはきれいな青空が広がった。俊彦は「トンネルを抜けると、そこは青空だった」と言って襟足を掻きながら笑った。はにかんだような笑顔から覗くきれいな白い歯が、沈んだ美幸の気持ちを浮き立たせた。

新幹線が東京駅のホームに滑り込む。
網棚からアタッシュケースを降ろした俊彦は、美幸の表情を遠慮がちに覗き込んで言った。
「あの、もし良かったら、この後食事でもいかがですか?」
精悍な外見とは違って、実のところは繊細な性格なのかも知れない。襟足を右手で掻きながら話すのが俊彦の癖のようだ。
すっかり赤くなった俊彦の襟足を見ながら、美幸は目の前の男に強く惹かれている自分を感じた。
「ええ、冷たいビールが飲みたいわ」


俊彦に案内されたのは、落ち着いた雰囲気の小料理屋だった。
奥の座敷にあがり、小さなテーブルを挟んで向かい合う。ビールで乾杯をした後、俊彦は新幹線の話の続きのように、文学の話題を選んで話し始めた。

「ぼくは純文学が好きなんです。それも"野火"みたいな、実体験に基づく純文学が。世間知らずの作家が頭の中だけで作り上げたような作品は好きじゃない。やたらと難しい表現を使って、いかにも高尚な文学に見せかけているだけの作品なんて、文学作品と呼ぶのにすら値しない。そうは思いませんか?」
ええ、と曖昧に答えながら美幸は少しいじわるな気持ちになった。
「でも、小説なんて結局は作り話なんだから、頭の中だけで作っても別に悪くはないと思いますよ。実体験を伴わなければ書けないとしたら、ミステリー作家はみんな犯罪者になってしまう」

俊彦は軽く笑いながらグラスを口に運んだ。
「そう、そこなんですよ、小説のジレンマは。実体験を伴わない小説なんて、結局はおとぎばなしでしかあり得ない。そんな作品は読者の共感を得ることはできない。だからと言って、リアリズムを求めすぎてもいけない。リアリズムだけならば、三流風俗誌の体験レポートと"野火"は同列になってしまうからね。でも、"野火"と風俗レポートには決定的な違いがある。それが優れた文学と世俗的な風俗レポートの決定的な違いと言って良い。それが何かわかりますか?」
勢い込んで話す俊彦をいなすつもりで、美幸はちょっと大袈裟に首を傾げて答えた。
「さあ、何でしょう?」
グラスのビールを一気に飲み干した俊彦は、大きく長い息を吐き出して言った。

「それはね、快楽です」
「え?」
「読んだ後に快楽が残るか否か。結局はこれだと思うんです」
空になったグラスをテーブルに置き、自分でビール注ぎながら俊彦は続ける。

「面白かった、楽しかった、怖かった、悲しかった。何でも良い。とにかく日常生活からは得ることのできない感情を得ること。それが自分の感情とタイミング良くマッチしたときに、”ああ、良い小説だなあ”と感じる。これこそが小説の快楽だと思うんです。他人の書いた文章を読むなんていうのは、非生産的行為の極みでしょう。それにも関わらず、人は小説を読む。なぜか。それは自分のありきたりの日常から離れたいからこそなんです」
なんとなくわかるような気がする。

「それじゃ、高山さんは"野火"のどこに快楽を感じるんですか? そんなに何回も読み返すほどの快楽を」
そう訊きながら、自分はこの作品の何に快楽を感じて何度も読み返しているんだろう、と美幸は考えた。
「自分も人間の肉を食べてみたい、読むたびにいつもそう思うんです。それが"野火"の快楽かな」
「え?」
ワイシャツの胸ポケットからタバコを取り出して、美幸の驚いた表情を楽しむように俊彦は続ける。
「もちろん、本気で思うわけじゃない。だけど、"野火"には食べるシーンが多いですよね。最初こそ生イモをかじったりして贅沢な食生活なんだけど」
俊彦はそこで言葉を切ってタバコに火を点けた。

「生イモが尽きるとヒルを食べ、塩をなめ、草のツユまですするようになる。それが何とも美味そうに感じるんですよ、ぼくなんかは。そして作者は戦友から"猿の肉"と言われて渡された人肉を口にして、"干いたボール紙の味"だと感じながら、"口腔に染みる脂肪の味"を美味いと感じる。このあたりの描写はまさに経験した者でしか表現し得ないリアリティがあるとは思いませんか。ぼくはこの描写を読みたいがために、繰り返し読んでいるのだと思います。自分も干いたボール紙の味のする人肉を、いや、猿の肉を食べてみたいと、いつも思うんです」

天井に向けて大きく煙を吐き出した俊彦は、美幸の表情をさぐるような視線を向ける。酔いが回ってきたのか、目の縁が赤くなっている。
「それで、美幸さんはどうなんです? 一体"野火"の何に快楽を感じますか?」
「そんなことは今まで考えたこともなかった。でも……」
「でも、何ですか?」
「あなたの言うように、私も"猿の肉"を食べるシーンに惹かれているのかも知れません。もちろん、食べてみたいとは思いませんけど」

口許にかすかな微笑みを浮かべて、俊彦は言った。
「食べてみませんか?」
「え?」
「ぼくの肉を食べてみませんか? いや、美幸さんの肉を食べさせてください、とお願いした方が良いのかな」

あまりに唐突な、あからさまな口説き文句に、美幸は言葉を失った。新幹線の中で話したときに感じた実直な男の姿はそこにはなかった。
いつもの美幸ならば、すぐにでも席を立っていただろう。しかし、アルコールとは違った何かが、美幸の体を酔わせていた。それに、心のどこかでこうなることを期待してもいた。
黙ったまま席を立つ俊彦の後を追って、美幸は店を出た。


ホテルに入ると、いきなり俊彦に抱きしめられ、そのままベッドに押し倒された。
俊彦の激しい愛撫に体をゆだねながら、なぜか美幸の脳裏に「猿の肉」をかじる飢えた兵士の姿が浮かんだ。


タバコをふかす俊彦の腕枕に頭を預けた美幸は、「"野火"の何に快楽を感じますか?」 という質問の答えを見つけた気がした。
それはおそらく、人肉を食べる「エロス」だろう。今日だって、"野火"の話が出なければきっとこんなことにはならなかったはずだ。人間の肉を食べる描写が、自分の中でたまらなくエロチックなものになっていたからこそ、こうして知り合ったばかりの男に抱かれたんだ。

俊彦の逞しく隆起した胸に顔を寄せながら、美幸は考えた。この人の肉は一体どんな味なんだろう。



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