毎週金曜日の夜が、俊彦との時間になった。

携帯電話に俊彦からのメッセージが入ると、美幸は近所のスーパーで買い物を済ませて、軽い食事を用意して俊彦を待つ。ビールで乾杯してテーブルに並んだ料理に申し訳程度に箸をつけた俊彦は、タバコを1本灰にした後、美幸の唇を求める。そのままベッドに倒れ込み、お互いの体を貪り合う。
ベッドの枕元に置かれた時計を横目で見ながら、俊彦は気だるく起き上がり、美幸の部屋を後にする。

俊彦は決して美幸の部屋に泊まろうとはしなかった。終電に間に合うように慌てて部屋を出る俊彦を見送った後、まだ二人のぬくもりの残るベッドに入る美幸の心はなぜか冷えていた。


有子からの電話を受けたのは、息苦しいような湿った暑い空気が素敵に軽くなりはじめた頃だった。
ひさしぶりに有子の部屋を訪ねた美幸は、玄関先でいつも通りに明るい声で迎えられた。
「ごめんね、せっかくの休みなのに手伝ってもらって」
有子の部屋に上がると、床にはダンボール箱が所狭しと置かれていて、足の踏み場もないくらいだ。
「いざ引越しするとなると、けっこう物があるのよね。こうやって整理してみると、普段は使わないものばかりなのに、なぜか気付かないうちに増えちゃうのよね」
そう言って、有子は額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら笑った。

「でも、ずいぶん急なんだね」
足元に転がった目覚まし時計を拾い上げて美幸は言った。
「あ、それはまだ使うから箱には入れないで」
キッチンの蛇口で手を洗いながら有子が声をかけた。
「そうね、急と言えば急かも知れないけど、いずれは一緒に住むわけだから早ければ早いほど良いと思うんだ。その方が家賃も無駄にならないしさ。そんなことより、あんたはどうなの。そろそろ良い人見つけないと」
濡れた手をジーンズに擦りつけながら話す有子に、美幸は心の中で舌打ちをする。ついこの間まで「抜け駆けはだめだからね、一緒に独身を貫こう」なんて言っていたくせに、今ではまるで母親のような話し方をする有子が疎ましかった。

「彼に頼んで誰か紹介してあげようか? 乾いてる男、いっぱいいるらしいよ」
なんて無神経な言い方だろう。美幸は手にした目覚まし時計を思わず目の前のダンボール箱に投げ入れて言った。
「いらないわ」
「え? ひょっとして彼氏できたの?」
驚いた表情を浮かべる有子の視線を外して、美幸は乱雑に詰め込まれたダンボール箱を覗きこむ。
「まあね」
「それって、どんな人なの? どこで知り合ったの? そうだ、今度その彼氏紹介してよ。なんだそうか、美幸もちゃっかりやってるんじゃない。安心したよ」
美幸はダンボール箱から視線を上げることができなかった。

「もしかして、不倫なの?」
「……」
思わず美幸は固まった。普段はがさつなくせに、なぜかこういうことにだけは有子は鋭かった。
「それは駄目だよ、それだけは駄目」
「……どうしてよ」
「だってさ、私の友達にもいるんだもの、不倫で失敗しちゃったのが。相手の奥さんにバレてひどいことになったらしいの。部屋にまで乗り込んできて、あることないこと、散々に言われたみたい。あんたは盛りのついた雌ネコだ、なんてことまでね」
「まさか」
盛りのついた雌ネコ、というなんとも古臭い表現が逆にリアルに感じる。

「本当だって。だってその友達、キッチンに置いてある包丁が目に入ったときに、思わずこの女刺してやろうかと思った、って言ってたもの。そのときの彼女の目、真剣だったから」
「いくらなんでも大袈裟よ」
そう言って美幸は笑ったつもりだったが、唇の端に笑いがひっかかったままだった。


夕食をおごるという有子の誘いを断って、美幸は部屋を出た。
一日中動き回ったおかげですっかり空腹だったが、なんとなく有子と一緒に食事をする気にはなれなかった。駅に向かう広い国道に出ると、ファミリーレストランの看板が目に入った。何度か有子と一緒に食事をした店だ。頭の中でその店のメニューを広げながら歩いて行くと、入り口からひとりの男が出てきた。
俊彦だった。
そう言えばこのあたりに住んでいるといつか聞いたことを思い出した。会うのはいつも美幸の部屋だったから、俊彦がどこに住んでいるのかはあまり気にしたことがなかった。

思わず俊彦に駆け寄ろうとしたときに、小さな女の子の手を引いた女性がレストランから出て来るのが見えた。美幸は慌てて足を止めて、近くのマンションの入り口に身を隠した。
俊彦は女性と何か言葉を交わすと、笑顔を浮かべながら小さな女の子の手を握り、そのまま3人が手をつないだ格好で美幸の方へと向かって歩き出した。
それを見た美幸は、道路に背中を向けた姿勢でバッグの中を探るふりをしながら、俊彦たちをやり過ごした。楽しそうな笑い声が充分に遠ざかったのを確認した後、美幸は仲の良い家族の後姿を見送った。女性の肩まで伸びたストレートのロングヘアと、スカートから伸びた細い足が美幸の脳裏に焼き付いた。

何も悪いことをしていないのに、どうしてこそこそと隠れなければいけないんだろう。
バッグの中を意味もなく探った指は、マニキュアがはがれていた。美幸は心の中で舌打ちをした。


「ねえ、奥さんってどんな人なの?」
天井に向かってタバコの煙を吐き出す俊彦の裸の胸に顔を寄せながら、美幸は訊いた。
喉の奥に煙がからまったのか、軽く咳をしながら俊彦が答える。

「なんだよ、いきなり」
「きれいなんでしょ、きっと」
「やきもちか? 心配するなよ。美幸だけだからさ」
「何よそれ。何が私だけなの?」
「だから、こういうことをするのは美幸だけってことだよ。あいつとは子供ができてからすっかりご無沙汰なんだ。今はやりのセックスレス夫婦ってやつかな」

そう言って枕元の灰皿にタバコを押し付けながら、俊彦は美幸の顔を覗き込んだ。自分の心の中を見透かされたような気がして、美幸は思わず目を伏せた。
「本当に?」
「ああ、本当さ。あいつとは友達みたいな関係なんだ。いや、兄と妹みたいなものかな。もう抱きたいなんて気にならないんだ。何だか近親相姦みたいな感じでさ」
俊彦は喉の奥でクッと笑った。

「でも、それで奥さんは良いの?」
「子供を持つと、女っていうのは良くも悪くも落ち着いてしまうものなんだろうな。逆に男の方は、こうしていつまでも落ち着かないものなんだ」
そう言いながら、俊彦は美幸の乳首をつまんだ。思わず出そうになる声を抑えて美幸は訊いた。
「ひょっとして、奥さんも浮気してるんじゃないの?」
「それはないな。昼間は部屋に閉じこもってもっぱら小説を書いているから」
「へえ、小説を」
美幸の乳首から離れた俊彦の指は、枕元に置かれたタバコを探る。
「小説なんて言っても、たいしたもんじゃない。一度読んだことがあるけど、なんともお粗末なものだった」
「ふーん」

「でも本人はいたって本気でね。都内で小説のセミナーがあるから通いたい、なんて言ってるんだ。そんなの金の無駄だからやめておけ、って言っても聞きやしない」
器用にタバコを箱から抜き出して、俊彦は口に咥えた。
「それで、あなたは何て言ったの?」

「言い出したらきかないやつだからな。渋々ながらオーケーしたよ。まったく、誰が稼いだ金だと思ってるんだか。大体、あいつは根っからの苦労知らずでね。女子大を卒業してから父親のコネで大手企業にほんの何年か腰掛で勤めただけだから、社会の厳しさってものがまるでわかってないんだ。金なんて男が稼いでくるのが当然だと思ってる」
軽く舌打ちをしながら煙を吐き出す俊彦の口元を眺めながら、美幸の頭の中でひとつの計画が浮かんだ。
「ねえ、そのセミナーってどこでやってるの?」
枕元に置かれた時計に目を移しながら、そろそろ帰らないといけないな、とつぶやいて、俊彦はベッドから体を起こした。
「たしか、赤坂にある出版社が主催してるとか言ってたな。今度の日曜日に説明会があるらしい。まったく、どうして金にもならないことに夢中になるのか」

インターネットで調べればセミナーの場所はすぐにわかるだろう。
たまたま今度の日曜日に休みを取っていたことを思い出し、美幸は心の中で笑みをもらした。


早めに着いたセミナーの説明会場には、まだ5〜6人くらいしかいなかった。
50人分くらいの椅子が並べられた部屋の窓際の席に腰を下ろした美幸は、文庫本を広げながら時折入り口に視線を走らせる。部屋の椅子が半分ほど埋まった頃に、その女性が入ってきた。後姿に見覚えがあった。間違いない。
あたりを見回しながら、その女性は前から3列目の椅子に座った。それを確認した美幸は、文庫本を閉じて、何気なく彼女の隣の椅子に腰を下ろした。

教壇に立った初老の講師は、何作かの自著を紹介したあと、これからの講義の内容について淡々と説明を始めた。
最初こそノートを開いてメモを取っていた隣の女性も、講師の単調な口調に飽きてきたのか、途中から生あくびをかみ殺している。それを見た美幸は小声で話しかけた。
「ちょっと退屈ですよね」
不意に話しかけられた女性は、あくびをごまかすように口元を手で覆いながら、ええ、と答えた。

30分ほどして、若い女性スタッフが後を受け継ぎ、セミナーの時間割や料金についての説明をする。一通り説明が終わり、セミナーの資料が配られて、説明会は終わった。隣の女性が椅子から立ち上がるタイミングを見計らって、美幸は声をかけた。
「どうしようかな。あなたはセミナーに申し込みます?」

バックにノートをしまい込みながら、女性は少し困ったような表情を浮かべながら答えた。
「ええ、今日はそのつもりで話を聞きにきたんです。本当はもっと有名な先生の講義を期待してたんですけど」
「もし良かったら、一緒のクラスに申し込みませんか? 私こういうセミナーってはじめてだから、ちょっと心細くて」
「私もはじめてですよ。こちらこそよろしくお願いします。あ、私は高山です。高山香織です」
そう言ってぺこりと頭を下げる香織に、美幸も椅子から立ち上がって頭を下げた。
「中杉です。中杉里美」

美幸は頭の中で用意していた妹の名前を口にした。
実際に口に出してみると、なぜか赤の他人のような響きがした。



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