ドアをノックして病室に入ると、いつものように葉子がベッドから起き上がって俺を出迎えた。

いつもごめんね、と言って葉子は俺が脇に抱えた着替えの包みを受け取る。

俺もいつものように葉子と視線を合わせないようにしながら、ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰を下ろす。

「どんな具合だ?」
「うん、今日は大分良いみたい。ちゃんとご飯も食べられたし」

そうか、とつぶやきながら俺は窓の外を眺める。すっかり花びらの散った染井吉野の枝からは、鮮やかな新緑の葉が開いている。葉子も同じ様に窓の外を眺める。心なしか、葉子の頬がこけたような気がする。

気まずい空気に耐えられず、俺は腰を下ろしたばかりの椅子から立ち上がった。

「ちゃんとメシだけは食べろよ。また来るからな」

うん、と頷く葉子の気配を背中に感じながら、俺は病室を後にした。

一言も葉子に優しい言葉をかけてやることのできない自分が腹立たしかった。葉子の顔から笑顔が消えてしまってからどれくらい経ったのだろう。最後に葉子の笑顔を見たのはいつだっただろう。

いや、そんなことを考えるな。俺には夫として葉子の命を守る義務がある。葉子の顔から笑顔を消し去ることこそが、葉子の命を救う唯一の方法なのだ。



葉子が頭痛を訴えだしたのは、年が明けて間もなくの頃だった。

「何だか最近、お酒を飲むと頭が痛くなっちゃうの」

いつものように晩酌のビールを飲みながら、葉子はそう言った。
子供のいない俺たちは、仕事から帰って家で晩酌をするのが何よりも楽しみだった。

「一度病院に行ったらどうだ。俺の方から三上に連絡を取っておくから」
「うん、でも大丈夫、きっとたいしたことないから。こんなことで三上さんを煩わせるのも嫌だし」

そう言って葉子は瓶を取り上げて、俺のグラスにビールを注いだ。

「いいから行ってこいよ。三上なら大丈夫さ。いつも忙しいなんて言ってる割には、けっこう遊んでるらしいからな」
「じゃあ、今度の休みにでも行ってみようかな。三上さんの大好きなシュークリームを持って行けば、喜ぶかもね。あの人、顔に似合わず甘いもの大好きだからね」

そう言って、葉子はいたずらっぽく舌を出して笑った。

今から思えばこのときの笑顔が、葉子らしい最後の笑顔だったのかも知れない。


三上に呼び出されたのは、それから1週間後のことだった。

三上とは大学時代からの付き合いだった。

テニスサークルというミーハーな空気に馴染まない三上の姿に興味を覚えて、俺の方から声をかけたのがきっかけだった。
「俺は中杉っていうんだ、よろしく」
そう声をかけた俺を冷ややかな視線で眺めながら、ああよろしく、と返事をしたのが三上だった。どうしてこんなサークルに入ったのかと訊ねる俺に、三上は表情ひとつ変えずに答えた。

「別にサークルなんかに興味はない。俺はサークルに集まる人間に興味があるだけだ」

面白いヤツだと思った。

それから20年以上にわたって、俺たちの付き合いは続いた。三上は医学の道をこころざし、そのまま母校の大学病院で脳外科医として勤務し、俺はバブル絶頂期の都市銀行に入行した。


「いいか、これが今の葉子ちゃんの状態だ」
そう言って三上は、レントゲン写真を机の上に置かれたスライド台に差し込んだ。きれいに櫛を入れられた三上のこめかみには、何本かの白髪が混じっている。そういう俺も、大分額が広くなってきた。お互いの40という年齢を意識せずにはいられない。

「この黒い影が見えるだろ?」
「ああ」
「これは脳腫瘍だ」
「脳腫瘍…」
「正確には、”ドーパミン症候群性脳腫瘍”だ」

白衣の胸ポケットから赤ラークを取り出して火を点けた三上は、天井に向かって大きく煙を吐き出した。

「何だよ、そのドーパミンなんとかってのは」

小さな黒い灰皿にタバコの灰を落としながら、三上は写真から俺へと視線を移した。

「ドーパミンは知らなくても、アドレナリンくらいは聞いたことがあるだろ?」
「ああ、それなら知ってる。興奮したときに分泌されるアレだろ?」
「そう、その通り」
そこで言葉を切ってタバコを深く吸い、天井に向かって大きく煙を吐きながら、三上は言葉を繋いだ。

「不快や緊張を感じたときに分泌されるのがアドレナリンだ。その逆に、嬉しいことや楽しいことがあったときに分泌されるのがドーパミンだ」
「ああ」
「数万人に一人の割合で、このドーパミンに性ホルモンが異常反応する人間がいる。その結果、肺や脳などに腫瘍ができる場合がある。これが”ドーパミン症候群”だ
「何だかよくわからないな。それが葉子の病気とどう関係するんだ?」
「つまり、葉子ちゃんがその特異体質を持つ人間だってことだ。これまで葉子ちゃんが笑ったり喜んだりしたときに分泌されたドーパミンが、この腫瘍を作り出したってことだ」

目の前のレントゲン写真が急に焦点を失って、白と黒の意味のない模様に変わった。

「何だよ、それ。そんな病気なんて聞いたことないぞ」
3分の1ほどになったタバコを灰皿に押しつけながら、三上は続けた。
「そうだろうな。俺自身、この病気を自分の目で見たのは初めてだ。まだ世界でも症例は極めて少ない。それだけにやっかいな病気だと言える」
「で、どうなんだよ葉子は。もちろん助かるんだろ?」
新しいタバコを口に咥えて、右手でライターをくるくると回し、三上は俺の視線を外しながら言った。

「腫瘍がかなり肥大化している。今の状態で手術をするのは極めてリスクが大きい」
「それって、どういうことだよ。もう手遅れってことか?」
「助からないとは言っていない。方法がないわけじゃないんだ」
「どういう方法だ?」
「まずはこれ以上腫瘍を大きくしないこと。これが何よりも重要だ。その上でレーザー照射による放射線治療を行う。この方法で実際に社会復帰をした例もいくつかある。ただ完治は難しい。ドーパミンが分泌されればまた腫瘍ができてしまうわけだからな。しかし、日常生活に支障のないレベルにまで回復させることは不可能ではないんだ」

「つまり、葉子も助かるってことだな? わかった、何だっていいさ。とにかく葉子を助けてくれ」
「当り前のことを頼むな。患者を助けるのが医者の仕事だ。ただしな、中杉。お前の協力なしには葉子ちゃんを助けることはできない」
「何でも言ってくれ。何だってするさ。俺は何をすればいいんだ」

口に咥えたタバコに火を点けて、三上は言った。

「決して葉子ちゃんを喜ばせたり笑わせたりしちゃいけない」

「え?」

あまりに意外な三上の言葉に、俺は一瞬バカみたいに口を開けて訊き返した。

「これだけ説明してもまだわからないのか。相変わらずお前は頭の回転がにぶいな。いいか、ドーパミンを分泌させるような行為は今の葉子ちゃんにとっては命取りになるんだ。お前がするべきことは、とにかく葉子ちゃんのドーパミンの分泌を抑えることだ。あとは病院の方で全力を尽くす」

「いや、ちょっと待ってくれよ。つまり病人である葉子を励ましたり笑わせたりしちゃいけないってことか? 笑いは何にも勝る薬だってよく言うじゃないか。病人に辛くあたるのが治療法だなんて話、聞いたこともないぞ」

「だからさっきも言っただろ。これは普通の病気じゃない。今までの常識が通用するような病気じゃないんだ。とにかく葉子ちゃんを助けたかったら、俺の言う通りにしろ。決して葉子ちゃんを笑わせたり、喜ばせたりしたらいけない。わかったか」

三上の険しい表情に、俺は無言で頷くしかなかった。


葉子とは今の銀行に同期で入行したときに知り合った。高校を卒業して入行した葉子は俺よりも4つ年下だったが、実際に付き合ってみると、年齢以上にしっかりとした強い女性だった。

「私には両親がいないの」

そう葉子が打ち明けたのは、付き合いはじめてから半年くらい経った頃だった。

「私が5歳のときに二人とも事故で死んだの。それで叔父の家に預けられたんだけど、私の他に子供が4人もいてね、最初から私は邪魔者だった。だから高校を卒業すると同時に家を飛び出しちゃった」

そうなのか、葉子の強さはこんなところにあったのか。誰にも頼らずにずっと一人で生きてきたんだな。そう思うと、一層葉子が愛しく感じられた。


三上の言葉を実行するのは、想像以上に辛いことだった。

見舞いに行っても、必要なことしか話さない。お喋り好きな葉子は何かと話しかけてくるが、話しこめばそれだけ葉子の笑顔が増えてしまう。自然と話す時間は減り、すぐに部屋から立ち去るようになった。最近では葉子も自分から話しかけることは少なくなった。

しかし、その日は俺が椅子に腰を下ろすと、軽く笑みを浮かべながら葉子が話しかけてきた。

「昨日ね、三上さんが診察にきたんだけど、おかしいの。だって、靴下の色が右左違うんだもの。黒と白でお葬式みたいよ、って言ったら三上さん何て言ったと思う? しまったな、どうせなら赤をはいてくればよかった、だって。それも真面目な顔して言うからおかしくって」

声をたてて笑う葉子に、俺は思わず大声をあげた。

「笑うな!」

ビクッ、と怯えたように葉子は黙った。

「すまない、大声を出して。ちょっと仕事で疲れてるんだ」

葉子は手許に視線を落として言った。

「三上さんにも、笑っちゃいけないよって言われたわ。どうしてなのかな? あなたも三上さんも、最近人が変ったみたい」

とっさにうまい言い訳が思い浮かばなかった俺は、話題を逸らせた。

「あいつも疲れてるんだろう。そんなことより、ちゃんとメシは食べてるのか。また痩せたんじゃないのか」

葉子は窓の外に視線を移しながら小さな声で言った。

「胃潰瘍なんだって」
「え?」
「最近お腹が空くと胃が痛くなるから、昨日内科で診てもらったの。そしたら胃潰瘍だって」

何が原因なんだ、と訊こうとしたときに、三上が廊下を歩いて行く姿が目に入った。また来る、と葉子に言い残して、俺は部屋を出て三上の後を追った。エレベーターホールで三上をつかまえた俺は、そのまま壁に三上を押しこんだ。

「おい、葉子が胃潰瘍ってどういうことだ」

不意に襲われたのにも関わらず、いつもの冷静な表情で三上は答えた。

「胃潰瘍は胃潰瘍だ。他にどう説明しようがある」

怒りを必死に抑えながら、俺は三上の襟元をねじり上げた。
「病院ってのは病気を治す場所じゃなかったのか。病院にいながら病気になっちまうっていうのは、一体どういうことなんだ!」

「ストレスからくる胃潰瘍だ」
三上はそう言いながら、襟元をねじり上げた俺の右手をふりほどいた。
「ストレスだと?」
「お前が忠実に俺の言葉通りに行動してくれた成果だ。おかげで腫瘍の肥大化は収まっている。その代わりにストレスのせいで胃酸の分泌が増えて胃壁を荒らした結果、胃潰瘍ができたってわけだ」

周りに人がいなかったら、俺は間違いなく三上を殴っていただろう。

胃潰瘍がこれまでの成果だと? ふざけるな。こいつは人の身体を何だと思ってるんだ。

「お前の言う通りに、俺はこれまで葉子にできるだけ素っ気なくしてきた。それで胃潰瘍になるなんて、これは何かの冗談なのか? お前、ふざけるのも好い加減にしろよ」

俺の視線を冷ややかな表情で受けとめた三上は、抑えた声で言った。

「いいか、胃潰瘍なんてのは大した病気じゃない。薬さえ飲んでりゃ3日で症状は治まる。だがな、脳腫瘍はそうはいかない。進行させたらお終いなんだ。葉子ちゃんを助けたかったら、今まで通りにできるだけ素っ気なく接するしかないんだ」

「他に方法はないのか。俺は葉子の顔を見るのが辛いんだ。いや、もう顔さえ見られない。あの寂しそうな顔を見たら、思わず優しい言葉のひとつもかけたくなるからな。でも、それさえもできないなんて、残酷すぎると思わないか?」
「他に方法があったら、俺だって最初からそう言ってるさ」
「そうだ、この間お前言ってたよな。社会復帰した例もあるって。その患者たちだって、当然旦那や女房はいたんだろ。一体その人たちはどうしたんだ」

三上は足元に視線を落としながら言った。

「社会復帰を果たした患者たちは、すべて独身か病気を機に離婚した人たちばかりだ。結婚したまま治癒した例は1件もない。もっと言えば、親も兄弟も子供もいない人たちばかりだ」

それを聞いた俺は、思わず壁に背中を預けた。

「なあ、俺は一体どうすりゃいいんだ」

「選択肢はひとつしかない。何度も同じことを言わせるな」
「お前だったらどうする。もしも香さんが葉子と同じ病気にかかったとしたら、お前ならどうする」

壁にもたれかかった俺に向き直った三上は、冷静な表情を崩さずに言った。

「俺は医者だ。どんなことがあろうとも患者の命を救うことを何よりも優先する。たとえ患者が女房の香であっても同じことだ」
「それでお前は幸せか? それで香さんは幸せになれるのか? お互い笑いもせずに過ごすのが幸せなことなのか?」

俺の顔をみつめたまま、三上は黙った。口を開きかけたとき、後ろから三上先生、と呼ぶ看護婦の声に振り向き、そのまま三上は歩き出した。


俺は壁にもたれたまま、ズルズルと床に座りこんだ。


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