次の日曜日、俺は昼過ぎに葉子を見舞った。

「天気も良いから、ちょっと散歩でもしないか」

そう俺が言うと、葉子の表情がパッと明るくなった。

「うん、ちょっと待ってて。急いで仕度するから」
「別に遠出するわけじゃないんだから、何か一枚羽織るだけで良いよ」
「せっかくの久し振りのデートなんだもの、そんなわけにはいかないわ。すぐに行くから、あなたはロビーで待ってて」

ロビーの椅子に腰掛け、正面に置かれたテレビを見るともなしに見ていると、お待たせ、と言って葉子が俺の目の前に立った。ピンクのカーディガンと白のフレアスカートをはいた葉子は、薄く化粧をしていた。思わず俺が、きれいだな、と呟くと、葉子は照れたように少し頬を染めた。その表情をみつめながら、また葉子の中でドーパミンが分泌されたかも知れないと思うと、俺は言葉にできない焦りを感じた。

三上に詰め寄ったあの日から今日まで、俺はずっと考えてきた。夫としての最善の選択肢は一体何だろう。三上は選択肢はひとつだけだと言っていたが、俺は決してそうは思わない。葉子の笑顔を取り戻すことだって、当然選択肢に入るべきだ。しかし、それは俺一人で決めるべきことじゃない。すべてを葉子に打ち明けて、葉子の望みを最優先させるべきだろう。


外はきれいに晴れていた。初夏の乾いた風が心地いい。

葉子が大きく伸びをしながら、良い気持ち、と声に出した。

こんなところを三上に見つかったらアイツは何て言うだろう。まあ良い、今日だけは許してもらおう。あの陰気な病室では、こんなに深刻な話は切り出せない。せめてこの青空が葉子のショックを少しでも和らげてくれればいい。

「付き合い始めたばかりの頃は二人ともお金がなかったから、よくこうして散歩したわよね」
「ああ、そうだったな」
「あなたは歩くのが速いから、私は遅れないように付いていくのが大変だったんだから」
「そうか?あれでも俺はお前に合わせて、できるだけゆっくりと歩いてたつもりだったんだぞ」

背中から強い風が吹いた。

スカートの裾を押さえながら、葉子は話し続けた。

「よく散歩の途中でたこ焼きを買って食べたよね。覚えてる? 6個入りのたこ焼きを私が2つ食べたときに、あなたはもう3つ食べちゃってるの。それで、最後の1個をじっと見てるの。食べていいよ、って私が言うと、あなたは嬉しそうにそれを口に放りこむの。なんて可愛い人なんだろうって、その度に思ったわ」
「つまらないことを覚えてるんだな。それじゃあ、まるで俺が腹を空かせたガキみたいじゃないか」

ふふ、と笑いながら葉子は「あ、あれ見て。たこ焼き屋さんだよ。買ってこようか」と、子供みたいにはしゃいだ声で言った。

屋台のたこ焼き屋に走り出そうとする葉子の腕を、俺は思わず掴んだ。

「大事な話があるんだ」

なに、と振り向いた葉子の無邪気な表情を見た瞬間に、俺は言葉に詰まった。どうやって切り出せばいいのか、そんなことは全く考えていなかった。

「いや、あの、病気のことなんだけど」

その後が出てこない。どうしても出てこない。こんなに無邪気な笑顔を見せる葉子に、一体何と言って切り出せばいいのだ。

腕をつかんだまま固まった俺の顔を覗き込みながら、葉子はいつもと変らない調子で言った。

「ドーパミン症候群、だっけ?」

「え?」

「昨日、三上さんから聞いたの。私の病気のことも、胃潰瘍のことも、あなたがなぜ私に素っ気なくするのかも、全部三上さんが話してくれたの」

力の抜けた俺の右手から、葉子の腕がすべり落ちた。

「すまない、って言って、三上さんは頭を下げた。中杉にも葉子ちゃんにも辛い思いをさせてすまない、そう言って、三上さんは何度も頭を下げたの。私に素っ気なくするように言ったのは自分だから、どうか中杉を悪く思わないでほしいって。そう言いながら三上さん、泣いてた」
「まさか」

俺はこれまでに三上の泣いた姿なんて一度も見たことがなかった。それどころか、笑顔さえも滅多に見せない男だった。

「ううん、本当よ。あんな三上さんを見たのは初めてだった。きっと辛かったんだと思う」

そこで言葉を切った葉子は、スカートの前で手を組んで軽く頭を下げた。

「あなたにも辛い思いをさせてたのよね。ごめんなさい。二人の気持ちなんて知らなかったから、私はベッドの上で、どうして二人とも機嫌が悪いんだろう、なんてことばかり思って勝手に一人でヘソを曲げてたの。呑気なものよね」

何と答えればいいのかわからず、俺は黙ったまま葉子を見つめた。


「これからのことは中杉と二人でよく話し合って決めてくれって、そう三上さんは言ったの」
「そうか」
「でね、最後に三上さんに訊いたの。もし香さんが私と同じ病気にかかったらどうする?って」

俺の脳裏に、数日前の三上の冷徹な表情が浮かんだ。

「それで、アイツは何て言ったんだ?」

空を見上げながら、葉子は一語一語確かめるように言った。

「俺は、香の望みを最優先する。香が生きたいと言えば、俺は全力で香の命を守る。笑って死にたいと言えば、香の喜ぶことを何でもする。部屋中を香の好きなバラの花で埋め尽くして、香の手を握り締めながら、何百回でも何千回でも、愛してる、って言い続ける」


空を見上げたまま、葉子は言った。

「私、ちょっと感動しちゃった。三上さんがあんなこと言うなんて思ってもなかったから」

「クサイ台詞だな。あいつらしくもない」

そう言いながらも、喉の奥から大きな塊がせりあがってくるのを感じた。


こちらに向き直った葉子は、俺の目をしっかりと見ながら言った。

「私、死んだように生きていくのは嫌」

強い風が葉子の髪を洗った。きれいだと思った。

「あなたに出会ってからの18年間は本当に幸せだった。もう信じられないくらいに幸せだった。こんなに幸せでいいのかって思うくらい。だって、それまでは人を愛することも人から愛されることも知らなかったんだもの。だから、あなたを嫌いになりたくないの。あなたを好きなままで死にたいの」

「死ぬなんて言うな」

「いつものままのあなたでいてください。私をいっぱい笑わせて、いっぱい喜ばせてくれるあなたのままでいてください。私の願いはそれだけです。あなたを好きなままで死なせてください」

「死ぬなんて言うな。言うんじゃない」

「この腫瘍はこれまでの私の幸せの証明なの。あなたを愛して、あなたに愛されたことの証明なんだもの。だから死ぬことなんて少しも怖くないの」

「死ぬなんて言うな。言うんじゃない。お願いだから言わないでくれ」

俺は思わず葉子を抱きしめた。

「愛してる。今までも、これからもずっとだ。愛してる。だから死なないでくれ。お願いだから死なないでくれ」
「あなた、言ってることが矛盾してるわ。そんなこと言われたら、嬉しくって死んじゃいそう」

そう言って、葉子は笑いながら泣いた。葉子の涙が俺のTシャツの肩を濡らした。

「バラの花で部屋中を埋めてやる。葉子の手を握って、何百回でも何千回でも何万回でも愛してる、って言ってやる。だから死なないでくれ」
「ありがとう。本当にありがとう」
「頼むから死なないでくれ。お願いだから死なないでくれ。死なないって約束してくれ」


強い風に俺の涙がちぎれた。

空の青と若葉の緑がにじんで混ざり合った。


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