徹夜で翻訳作業を終えた藤堂真は、Word の文書ファイルを契約先の翻訳会社にメールで送信して、大きく伸びをした。フリーの翻訳者として仕事を始めてから3年が経つが、いまだに納品当日は徹夜作業になってしまう。

すぐにベッドに横になって目を閉じたが、徹夜明けで高ぶった神経が眠りを許さなかった。窓から見えるきれいに晴れた青空に誘われて、藤堂は外に出た。

カチカチに凝り固まった肩を揉みほぐしながら歩き出す。初夏の乾いた空気が気持ちいい。

そのまましばらくブラブラ歩いて行くと、「水の科学館」と書かれた建物に出くわした。

どうやら最近新しくできた建物らしい。藤堂が住む臨海地区には、新しいマンションや公共施設が雨後の筍のように次々に建つので、散歩をするたびに新しい発見がある。

平日だからだろう、館内では案内役の若い女性スタッフたちが暇そうに雑談を交わしていて、見学者は数えるほどしかいない。様々な水に関する実験器具を何気なく見て回っていた藤堂に、女性スタッフが声をかけた。

「これから真空実験を実演します。どうぞご覧になってください」

3センチほど水を入れられた小さなビーカーが、透明な蓋を被せられた真空装置の上に置かれた。女性スタッフが手元のスイッチを押すと、程なくビーカーの水が大きな泡を立てて沸騰し、次の瞬間に凍り始めた。

藤堂が思わず「へえ」と驚きの声をあげると、目の前の女性スタッフがにっこりと微笑んで説明を始めた。

「これは真空状態で沸点が下がり、気化熱が奪われたことによって・・・」

藤堂には、その説明はまったく理解できなかった。と言うより、まったく耳に入ってこなかった。笑顔で説明をする女性スタッフにすっかり心を奪われてしまっていた。

肩まで伸びたきれいな髪、少し下がり気味の目尻、高く通った鼻筋、膝丈のスカートからスラリと伸びた細い足。そして、ライトパープルの口紅が引かれた少し厚めの唇から覗くきれいな白い歯。そのすべてが、これまで藤堂が思い描いてきた理想の女性像そのものだった。

「この他にも色々ありますから、どうぞゆっくりご覧になってください」

そう声をかけられて、藤堂はもう一度目の前の女性の顔を見つめなおした。目があった瞬間に、藤堂の胸がキュンと小さく音をたてた。

科学館を後にしながら、藤堂は興奮していた。

30代も半ばを越えた藤堂には、これまでに異性と交際した経験は一度もなかった。

特別に藤堂の容姿が醜いということではない。その証拠にこれまで何回か異性に告白されたこともあった。藤堂自身、自分の容姿には少なからず自信を持っている。年齢の割には引き締まった体も藤堂の自慢のひとつだった。しかし、どうしても相手に興味を持つことができずに今日まできてしまった。

もちろん、藤堂から自分の気持ちを告白したことも何度かある。

内気な藤堂にとっては、その度に自分の人生を賭けるくらいのつもりで告白するのだが、相手の返事は決まって「ノー」だった。何か気持ち悪いものでも見るような目で断られるのが常だった。

そうしたことを繰り返すうちに、最近では新しい恋に踏み出すのがすっかり億劫になっていた。

しかし、今日の出会いはどうしても逃したくなかった。他人からすれば「出会い」とは言えないのかも知れないが、藤堂にとってはまぎれもない「出会い」だった。アパートに帰ってからも、藤堂の胸は大きく動悸していた。

部屋の奥に置かれたベッドに腰掛けながら、藤堂は考えた。

どうすれば彼女に自分の思いを伝えることができるのか。普通に考えれば、これから足繁く科学館に通って顔なじみになるのが近道だろう。

しかし、顔なじみになったところで、次のステップはどうすればいいのか。

いきなり「この後お食事でもいかがですか?」なんて尋ねて、「ええ、喜んで」と答えてくれるような気のいい女性がこの世にいるとは思えない。

だったら、そっと手紙を渡したらどうだろう?「お暇なときにでも読んでください」なんて言いながら。

いや、やっぱりダメだ。もしも同僚の女性たちの間でその手紙を回し読みされたら最悪だ。

答えの見つからないまま、藤堂はシャワーも浴びずにそのまま眠り込んだ。


重い頭を抱えながら目覚めた時には、枕元の時計はすでに午後3時を指していた。

熱いシャワーを浴びると、ようやく頭がすっきりした。あり合わせの材料で軽く食事を済ませた藤堂は、昨日と同じように科学館へ向けて歩き出した。

科学館の前に広がる公園のベンチに腰掛けた藤堂は、一週間後に納期の迫ったソフトウエアのマニュアルの英文を読むともなしに読んだ。時折腕時計に視線を落とし、科学館の正面玄関を見上げる。

腕時計の針が5時を指してからは、もう藤堂の視線は英文を追ってはいなかった。科学館の正面玄関に固定されたままだった。

5時40分を過ぎた頃に、ようたく科学館から次々に若い女性達が出てきた。

ベンチから立ち上がった藤堂は、英文マニュアルをリュックにしまい、何気ない仕草で彼女達の方へ歩き出した。

いた。

昨日の制服とは違ってジーンズ姿だったが、見間違うはずはない。同僚の女性達と会話を交わしながら浮かべる笑顔は、藤堂の脳裏に焼き付けられたそれとまったく同じだった。

適度な距離を保ちながら、視界の端にその姿をしっかりと捉えて歩いて行く。

地下鉄の駅に着いた彼女は自動改札を通って、同僚の女性達に手を振りながら都心に向かう電車のホームへ降りて行く。

それを確認した藤堂は、券売機に2枚の100円玉を入れ、160円のボタンを押した。ホームに滑り込む電車の音が聞こえる。慌てて階段を駆け下りた藤堂は、ギリギリのタイミングで電車に駆け込んだ。

息を落ち着かせながら、慎重に車内を見回した藤堂の視界に、座席に腰掛け、ハードカバーに視線を落としている彼女の姿が入った。

ラッシュ時直前の車内には、まだところどころに空席が見える。

彼女の斜め向かいに腰を下ろした藤堂は、改めてリュックから英文マニュアルを取り出し、視線を落とした。

時々視線を上げて、藤堂は彼女を盗み見た。

ハードカバーに視線を落としたままの彼女は、どうやら藤堂に気づいている様子はないようだ。昨日とは違う服を着ているし、目深に被った帽子もカモフラージュになっているだろう。そう思いながらも、藤堂の脇の下からは生ぬるい汗が流れ落ちる。心臓の音が耳の鼓膜に振動するくらいに緊張していた。


池袋駅で彼女は降りた。

ラッシュ時に突入した池袋駅は、家路に着くサラリーマンや学生達でごったがえしていた。自動清算機の前には長蛇の列ができている。しびれを切らした藤堂は、駅員のいる改札に走りこみ、160円の切符と100円玉を叩きつけて、彼女の後を追った。

すれ違う人たちに何度もぶつかりながら、埼玉方向に向かう私鉄になんとか乗り込んだ。さっきの地下鉄とは比べ物にならないくらいに混んだ車内を移動しながら、藤堂は必死に彼女の姿を捜した。

いない。

どこにも彼女の姿を見つけることはできない。

あきらめかけた藤堂の視界の隅に、サラリーマン達に混じってホームに降りる彼女の姿が入った。

慌てて電車を降りて、息を切らせながら階段を駆け下りると、自動清算機の前にはまた長い列ができていた。

思わず舌打ちをしながら、藤堂はジーンズのポケットから財布を取り出した。小銭入れには500円玉と何枚かの10円玉しか入っていない。遠ざかる後姿を必死に視界の隅に捉えながら、初乗りの切符と500円玉とを改札に叩きつけて走り出す。ちくしょう、もったいない。

駅前のロータリーに出たところで、彼女の後姿を見つけた。額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、藤堂は大きく深呼吸をして歩き出した。


あたりはすっかり暗くなって、ポツポツと建てられた街灯の灯りが弱く光っている。

かすかに吹く風が藤堂の体を心地よく冷やす。彼女の後姿を見失わないように、そして気付かれないように、藤堂は慎重に後を追った。

彼女が茶色い壁のマンションに入っていくのを確認した藤堂は、道路を挟んだ小さな公園に駈け込んで、その茶色い壁を見上げた。

5階建てのマンションの一室に明かりが灯った。

3階の角部屋だった。

それを確認した藤堂は、マンションの郵便受けを調べた。一番左にその名前があった。

「301 藤堂 由紀子」

そのネームプレートを見た瞬間に、藤堂は確信した。

これは運命の出会いだと。

302号のポストのネームプレートは空白のままだった。それを見た藤堂は心の中で思わず快哉をあげた。入り口に貼られたマンションの管理会社の電話番号を手帳に書きとめた藤堂は、もう一度301号室の灯りを見上げてから、駅までの道を引き返した。


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