翌日藤堂は、手帳に控えたマンションの管理会社に電話をかけた。

予想通り302号室が空いていることを確認した藤堂は、その日のうちに契約を済ませ、三日後に引越すことに決めた。何か見えない力が、藤堂を駆り立てていた。

引越しを終えてポストのネームプレートに自分の名前を書き込む。

「藤堂 由紀子」 「藤堂 真」

二つ並んだ名前を見ながら、藤堂は胸の奥からゾクゾクするような興奮が沸いてくるのを感じた。


引っ越したその日から、藤堂は由紀子の生活パターンを調べ始めた。

朝7時30分にマンションを出て、8時45分に科学館に着く。閉館時間を20分ほど過ぎてから科学館を後にし、夜7時頃に帰宅する。1日おきに地元のスーパーで買い物をする。休日は週2日で、閉館日の月曜日と不定期に平日のいずれか1日。時々友人達と帰りがけに食事をする以外には、いたって規則的な生活パターン。休日も一人で過ごすことが多く、付き合っている男の影は見えない。

引っ越してからというもの、藤堂はそれまでの夜型の生活パターンをすっかり改め、由紀子とまったく同じリズムで過ごすようにした。そうすることにより、由紀子と同じ時間を共有しているかのような気分になれた。

毎朝ドアの向こうを歩く由紀子のハイヒールの音を聞き、部屋の窓から由紀子が駅に向かう姿を見送ってから、翻訳作業に取り掛かる。夜7時には作業を終え、窓からマンションに戻ってくる由紀子の姿を待つ。時には深夜まで帰ってこないこともあったが、そんな時でも藤堂は辛抱強く窓の外を眺め続けた。由紀子が部屋にたどり着き、部屋のドアが閉まる。その音を聞いてようやく藤堂の長い一日が終わる。


最初こそ、そうして由紀子の生活パターンに合わせることで満足していた藤堂だったが、次第に物足りなさを感じるようになった。待つだけでは辛すぎる。もっと由紀子との時間を、そして空間を共有したかった。


引っ越してから2ヶ月が経ったある日、藤堂はイエローページで見つけた出張専門の鍵屋に電話をかけた。カギをなくしてしまって、と告げると、ほどなく青い作業服を着た若い男が訪ねてきた。

ライトバンから下ろした工具箱を抱えながら、どの部屋ですか?と尋ねる男を、藤堂は301号室の前に案内した。脇に抱えた工具箱を下ろした男は、身分証明書を拝見できますか?と藤堂に尋ねた。

ええ、と答えながら藤堂はリュックから健康保険証を取り出して男に渡した。心臓が早鐘のように鳴り、脇の下から粘っこい汗が流れるのがわかる。

藤堂はあらかじめ保険証に細工を施していた。

保険証に印字された「302」の文字を慎重に紙やすりで消し、その上からプリンタで「301」の文字を印字し直した。不自然に黒々とした「301」の文字にさらに紙やすりをかけて、その上からスティック糊をごく薄く塗る。紙やすりで毛羽立った保険証の表面をなだめすかしながら、藤堂は細かい作業に没頭した。部屋の灯りの下で何度も確認し、これなら大丈夫だろうと思えるくらいにまで、念入りに細工した。

男がその保険証を確認している間は息が止まる思いだった。

男は、ドアの上に貼られた「藤堂」というネームプレートと手元の保険証を見比べながら、はい結構です、と言って、藤堂に保険証を返した。

藤堂は胸の奥で大きく息を吐き出した。

こんなに簡単な細工が通用したことが意外だった。いや、こんなに簡単な細工に賭けた自分こそが意外だった。

作業自体は10分とかからなかっただろう。しかし、藤堂にとっては1時間にも2時間にも感じる長い時間だった。今にもどこかの部屋のドアが開いたら、と思うと気が気でなかった。

男に料金を支払ってカギを受け取った時には、背中から脇の下までびっしょりと汗をかいていた。


出来上がったばかりのカギをドアノブに差し込んで回す。カチャと軽い音を立てて、あっけないくらい簡単にドアが開いた。

狭い玄関には赤いパンプスと白いスニーカーが無造作に脱ぎ捨てられ、ピンク色の傘が壁に立て掛けられている。靴を脱いで4畳半ほどのダイニングキッチンを眺める。2口のガスコンロには片手鍋とテフロン加工のフライパンが乗っている。左手にあるバスルームの扉を開けると、かすかに湿った空気が藤堂の鼻をかすめた。ボディソープやシャンプーなどのボトルが雑然と置かれている。

8畳ほどの部屋の奥に置かれたベッドの上にはパジャマが脱ぎ捨てられ、その向かいに小さなテレビが黒いキャスターに乗っている。部屋の中央に置かれたテーブルには、飲みかけのウーロン茶のペットボトルが置かれていて、開きっ放しのファッション雑誌の中で女性モデルがポーズを作りながら微笑んでいる。

全体的に雑然とした感じで、お世辞にも片付いているとは言えない。しかし、と藤堂は思った。これくらい散らかっている方が気付かれずに済むと。

脱ぎ捨てられたパジャマを手に取って顔に押しつけた藤堂は、そのまま大きく息を吸いこんだ。頭の芯が軽く痺れるのを感じた。


翌日から藤堂は、由紀子の留守を見計らって部屋を物色し、できる限り由紀子と同じ家具を揃えた。

同じベッド、同じテーブル、同じ冷蔵庫、同じ洗濯機。食事の時にはテーブルの上に由紀子と同じ食器を並べて食べた。シャンプーや歯ブラシも同じものを揃えた。夜は同じ柄のパジャマを着て寝た。藤堂には少し小さなパジャマも、そのきつさが由紀子と一つになれた感じがして嬉しかった。


藤堂の生活のすべてが由紀子の色に染まった。


科学館の休館日である月曜日の昼下がり、藤堂はマンションの向かいにある公園のベンチに座りながら、301号室の窓を見上げていた。1時を少し過ぎた頃、ベランダに由紀子の姿が現れた。黒いカゴに入った洗濯物をハンガーに通し、ベランダに張られたロープに下げていく。

由紀子からは見えない位置にいることはわかっていても、藤堂の心臓は早鐘のように鳴った。

洗濯を終えた由紀子がマンションから出て行くのを確認した藤堂は、急いで部屋に戻った。洗濯機に自分のパジャマを投げ込み、洗剤を入れてスイッチを入れる。3分ほど洗濯機を回してから脱水に切り替える。よじれたパジャマを取り出してしわを伸ばしながら、藤堂は301号室のカギを開けた。

ハンガーに掛かった由紀子のパジャマと自分のパジャマとを素早く取り替える。

乾いた状態でパジャマを交換したら、たちどころに気付かれてしまう。お互いの体臭を洗剤で消してしまってからでないと、この作業は出来ない。この時のために、藤堂は由紀子の使っている洗剤と同じものを用意していた。

洗濯を終えて近所のファミリーレストランで食事を摂った後、スーパーで買い物をして帰ってくるのが由紀子のパターンだった。そのパターンは充分に調査済みだった。帰ってくるまでにはかなりの余裕があることはわかっている。しかし、それでも藤堂の心臓は、鼓膜に響くくらいに大きな音をたてていた。

濡れたままの由紀子のパジャマを抱えた藤堂は、部屋のカーテンを閉め切り、カーテンレールにパジャマを掛けた。ドライヤーのスイッチを入れ、濡れたパジャマに風を送りながら、藤堂は胸の奥から込み上げてくる興奮を抑えることができなかった。


その夜、洗いたてのパジャマを身に付けた藤堂は、由紀子の匂いに包まれ、異様な興奮を感じながらベッドに入った。藤堂の指は、下着を分け入って敏感な部分を探り当てた。熱く充血した部分を弄びながら、そのまま藤堂は自分の指で果てた。



次の朝、由紀子は鏡を覗き込んで化粧をしながら、何とも言えない違和感を感じていた。

何かが違う。パジャマの感触がいつもと違う気がする。はっきりとは言えないけど、何だかパジャマが新しくなったような感じ。ううん、そんなことはあり得ない。洗濯をしたパジャマが新しくなるなんて、そんなことあるはずがない。でも・・・

そう、隣にあの人が引っ越してきてからどうもおかしな感じがしてしようがない。いつも私のことを盗み見るようなあの視線。ちょっと怖いような、薄気味悪いあの視線。窓からこっそりと私を見下ろしたり、公園のベンチから私の部屋をそれとなくうかがっていたり。でも、それはきっと私の気のせい。だってあの人は・・・

鏡を覗き込みながら、由紀子は自分を落ち着かせる。お気に入りのライトパープルの口紅を引きながら。

あれ、何だか口紅の当る角度がいつもと違っているような・・・


隣の部屋では、同じように藤堂が鏡を覗き込んでいた。


何だか最近きれいになった気がする。恋をするときれいになるというのは、本当かも知れない。たとえその相手が女性だったとしても。


ライトパープルの口紅を引きながら、藤堂真は鏡の中の自分に向かって微笑んだ。


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