駅のホームに降り立ち、大きく息を吐いた。

もう梅雨が明けてもいい頃なのに、今日も鉛色の空からは雨が絶え間なく落ちてくる。おまけに蒸し暑い。アパートまでの道をいくらも歩かないうちに、脇の下がじっとりと汗で濡れてくるのがわかる。
道路脇のタバコの自動販売機が目に入った。無性にニコチンが欲しい。禁煙をして1ヶ月が経つが、今日はどうしても我慢できない。この蒸し暑さが悪いんだと言い訳をしながら、赤ラークを一箱買って火をつけた。

久しぶりのニコチンにクラクラしながら、アパートの三軒隣に建つ居酒屋に足を向けた。
こんな蒸し暑い日には、キンキンに冷えたビールを飲むに限る。咥えたタバコを歩道の水溜りに投げ捨て、居酒屋の暖簾をくぐろうとしたその時だった。

「ああ、ちょっと」
背後から声をかけられて振り向くと、そこには小太りのチビと、ひょろっとしたノッポの二人連れが立っていた。二人とも歳は40代くらいだろうか、「ポイ捨て撲滅運動実行委員会」と書かれた黄色いタスキを掛けている。

「えっと、何か?」

チビが一歩進み出て言った。
「あなた、今タバコを捨てましたね?」
隣のノッポが間を置かずに続ける。
「この一帯は先月から”ポイ捨て禁止区域”に指定されていることはご存知ですよね?」

そうか、そう言えばポストにそんなチラシが入っていたことを思い出した。
その時は禁煙を始めたばかりの頃だったので、自分には関係ないことだと、さして気にもせずに読み捨ててしまっていた。

「いえ、知りませんでした。ここにはつい最近引っ越してきたばかりなもので」
面倒なことは避けたいと思って、つい嘘を吐いた。
「そうですか、それでは”ポイ捨て禁止条例”について説明しますので、事務所まで同行ください」
そう言われて、チビとノッポに挟まれる格好で歩き出した。
面倒なことにならなきゃ良いが。


連れてこられたのは、スチール製の机と肘掛のついた椅子があるだけの殺風景な部屋だった。
部屋の奥に置かれた椅子に座らされると、向かい合わせに座ったチビが話し始めた。

「この地域は、先月から”ポイ捨て撲滅運動”を展開しています。ポイ捨てされたタバコは街の美観を著しく損ないます。タバコのポイ捨ては危険です。小さな子供がポイ捨てされたタバコでヤケドを負ったという事故が少なからず起きています」
「はあ」
「そういった事情を踏まえて、今回の条例制定になったわけです。違反者には、一律罰金2万円を科すことになっています」
「へえ」
「ということで、2万円をここで徴収致します」

そう言って、チビが机の上で手のひらを上にして差し出した。

「ちょっと待てよ。最初は注意するだけで、悪質なヤツにだけ罰金を科すきまりだろ?いきなり2万円ってどういうことだよ?」
言った瞬間にしまったと思ったが、もう遅かった。

「やっぱり知ってたんじゃないか、この野郎。お前は確信犯だな」
チビの後ろに立っていたノッポが、唇の端で薄く笑いながら言った。
「こいつは悪質だな」
それまでの慇懃な言葉遣いをガラリと変えて、椅子から身を乗り出しながらチビが言った。

「いや、待ってくれ。たしかに条例のことは知ってたけど、ポイ捨てをしたのは今日がはじめてなんだ。今までずっと禁煙してたから、条例のことは意識してなかっただけのことなんだ。うっかりしてただけさ。そんなことって、良くあるだろ?」

「嘘は良くないな」
そう言って机の引出しから電卓を取り出したチビは、キーをたたき始めた。
「えーっと、条例が施行されてから今日で31日経ってるだろ。毎日駅までの行き返りにタバコを1本づつポイ捨てしたとして、えーっと62本か。まあ土日の分はおまけしてやるか。えーっと、土日は」
そこで言葉を切り、机の上に置かれた卓上カレンダーを指で追いながら、チビは続けた。
「1,2,3・・・9日だから、そうすると62から18を引いて44本と。44×2万は88万円也。おい、お前の罰金は88万だ」
「ちょっと待てよ!だからさっきも言っただろ、ポイ捨てしたのは今日が初めてだって。88万なんて、そんな無茶な金を払えるわけがないだろう!」

思わず立ち上がった私の肩を、いつの間にか背後に回ったノッポが押さえつけていた。
「そう興奮するなよ。冷静に自分のやったことを考えてみろ。お前は条例のことを知っていながらポイ捨てをしたんだ。これは誰が考えても悪いことだよな、そうだろ?」
「だから何回も言ってるだろう、わざとじゃないんだ、うっかりしてたんだ」
「じゃあ、タバコをポイ捨てする行為自体はどうなんだ?良いことなのか?それとも悪いことなのか?」
「・・・それは、悪いことだとは思うさ、だけど」

「悪いことをしたら罰を受けるのは当然だ」
そう言ってノッポは私の肩を強く押して椅子に座らせた。

「わかった、ちゃんと罰金は払うよ。けど、本当にポイ捨てしたのは今日だけだから、その分だけ払うよ。それでいいだろ?」
財布から2枚の1万円札を抜き出して、チビの目の前に差し出した。
その瞬間、チビの細い目がさらに細くなった。あっと思う間もなく、チビの手から電卓が離れて、鈍い音を立てて私の額に当たった。

一瞬何が起こったのかわからなかった。
額から鼻の脇に落ちてくる生ぬるい液体を感じて、ようやく我に返った。

「この野郎、何をするんだ!」
そう叫んで立ち上がろうとした私の首に、ノッポの長い腕がからみついた。苦しい。喉の奥から「ホゲッ」という音が出た。

椅子から立ち上がったチビが、机を回りながら近づいてくる。
「まったく、反省のカケラも見えないな。金を払えばそれで良いんだろ、なんて態度が気に入らない。こういうヤツには、体で覚えこませる必要があるな」
あっと思う間もなく、握り固めたチビのコブシが鼻に入った。
グシャ、という嫌な音がした。鉄サビを舐めたときのような、何とも言えない嫌な匂いが鼻の奥に広がった。

机の上の2万円をズボンのポケットに入れながら、机の引出しから何本かのロープを取り出してさらにチビは続けた。

「この2万円はちゃんと預かっておこう。領収書は要るか?宛名は”上様”で良いのか?いや、お前みたいな嘘吐き野郎に”様”をつける必要はないか。”上”だけでも上等だ、ありがたく思え。どうした、返事をしろよ、え?」
私の首にはノッポの腕がからみついたままで、返事ができない。目の前でツバを飛ばしながらわめくチビの目に異常なものを感じた。

コイツら、おかしい。

脇の下からは、暑さとは別の、嫌な冷たい汗が流れてきた。

ノッポの腕にさらに力が入り、空しく息を吸おうと大きく口を開いた瞬間、チビのコブシが腹に入った。腹から逃げ出そうとする空気が出口を失い、胸のあたりで重く爆発した。

涙でかすむ視界に、チビがロープを操る姿がわずかに映った。
気づいた時には、両手は椅子の肘掛に縛り付けられ、足首もロープで縛られ、上半身すべてが椅子に固定されて、まったく自由の利かない状態になっていた。
ようやくノッポの腕から解放された喉の奥から、さっき食べたばかりのカレーが吹き上げてきた。
チビのネクタイにカレーがかかった。

「この野郎、このネクタイは娘からの大事なプレゼントなんだぞ」
みずおちにまたコブシが入った。

「いいか、今からお前に罰を与えてやる。さっきの2万円分は引いてやるとして、残り86万円分の罰を与えてやるよ」

そう言ってチビは引出しから赤ラークを取り出し、火をつけた。大きく煙を吐き出したその瞬間に、私の右腕にそのタバコを突き立てた。薄いワイシャツを食い破ったタバコの火が、皮膚に触れた瞬間に鋭い痛みが走った。

「痛ーっ!」

次のタバコに火をつけながら、チビはノッポに向かって言った。
「やっぱり、いきなりだと”熱い!”じゃなくて”痛い!”って言うもんなんだな。この前のヤツもそうだった」
「早いとこ済まそうや。あと42本も残ってるんだからな」
背後でノッポがライターを擦る音がした。
次の瞬間、背中に痛みが走った。

「てーっ!」

前から背後から、次々にタバコを突き立てられた。

「どうだ、少しは反省したか?もうポイ捨てはやめるか?え、どうなんだ?」
「やめるよ、やめる、やめるからやめてくれー!」
「やめる、だと?まだ口のきき方がわかってないようだな。やめる、じゃなくて、やめます、だろ?」
「あーっ!!やめます、やめます、やめます!やめるからやめてくれー!」

「まったくうるさいな。根性焼きされるハナタレの暴走族のクソガキでも、もっと根性入ってるぞ。ちょっと静かにさせるか」

赤ラークの箱から一掴みのタバコを取り出して、大口を開けたチビが火をつけた。手のひら一杯に握り締めたタバコが胸に押し付けられた。

「あーーーーーーーっ!」

天井を向いて大きく開いた口の中に、ノッポが握り締めたタバコの束が真上から降ってきた。

「んガ・・・」

舌が焼けただれる焦げた匂いがした。
思い切り空気を吸い込もうとして、タバコの葉っぱが喉にからみついた。
慌てて下を向いてタバコの束を吐き出した。激しく咳が出る。

「だらしないな」
「まったくだらしない」
「こういうヤツは、タバコだけじゃなくて、他にもたくさんゴミをポイ捨てしてるんだろうな」
「電車に缶チューハイなんかを持ち込んで、空き缶を座席の下に置いて平気で降りてきたりするんだろう」
「ああ、きっとそうだろうな。おい、どうなんだ、そうなんだろう?」

違う、俺は電車の中で酒を飲んだことなんてない、そう答えようとするのだが、声が出ない。
いや、喉の奥から声は出るのだが、焼けただれた舌ではその声を言葉にすることができない。

「人がものを訊いてるんだ、返事をしたらどうなんだ、この野郎!」
コブシがまた腹に入った。
必死に首を横に振る私を無視して、チビがまた引出しから何かを取り出した。

「もう電車の中で酒を飲もうなんて思わないように、今からたっぷりと飲ませてやるよ」

チビの右手に握られた750ml入りの焼酎の角瓶が視界に入った。
何をする気だ、と叫んだつもりだったが、言葉にならない。背後からノッポに髪の毛をつかまれて顔を天井に向けられ、鼻を塞がれた。
焼けただれた口を開きながら、角瓶が口にねじ込まれるのをなす術もなく眺めるしかなかった。

角瓶の中身が焼けただれた舌に触れた瞬間に、激痛が全身を走り抜けた。
痛い、と言うことすらできない。喉を大きく開いて必死に、そう、必死にアルコールを飲み下す。舌を焼いたアルコールが容赦なく喉の粘膜を焼いて食道を落ちて行く。
熱い、苦しい、熱い、苦しい!

ようやく空になった焼酎の角瓶が口から離れた。
早く吐き出さないと死んでしまう。さっき吐いたカレーで汚れたズボンの上に顔を向けた途端に、強烈な酔いが襲ってきた。ズシーン、という音が頭の中で爆発した。
あっという間に全身が痺れて、吐くことすらできない。


チビとノッポの会話が遠くで聞こえる。

「タバコや空き缶を平気で捨てるヤツだ、きっと女癖も悪いに違いない」
「だろうな。気まぐれに女をひっかけて、飽きたら平気でポイ捨てするんだろう」
「こういう奴は、体で覚えさせないといけないな」

頭が痺れて、声がどんどん遠くなる。
チビがベルトに手をかけて、ズボンを脱がそうとしているのがかろうじてわかった。股間がスッと涼しくなった。

チビの右手に握られたナイフが冷たくキラリと光った。それが最後の記憶だった。


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