由美は中学校の同級生だった。
一年生の時に、父親の仕事の都合で、自分の通っている中学に転校してきた。東京から来た女の子ということで、教室の男子は皆色めき立った。しかし、その期待とは裏腹に、担任の教師から紹介されたのは、ちょっと太り気味の地味な女の子。分厚いレンズの奥の目が心細そうにキョロキョロと周囲を見まわしている。本当にどこと言って特長の無い、それが特徴みたいな女の子だった。笑った時のえくぼを除いては。
二年からはクラスが別々になったこともあり、特に由美と親しく会話を交わす機会もないまま、卒業を迎えた。


由美と偶然に再会したのは、それから5年後のこと。
渋谷の街を歩いていた時に、後ろから自分の名前を呼ばれた気がして振り返った。そこには見知らぬ女性が立っていた。
「あー、やっぱりそうだ。真君でしょ?」
ああ、と曖昧に返事をしながら、記憶の糸をたぐりよせる。一体誰だろう?こんなに綺麗な女性の知り合いは、自分にはいないはずだが。
「覚えてない?中学一年の時に一緒のクラスだった松本由美よ」
あ、と喉の奥で小さな声をあげながら目の前の女性の顔を見つめ直す。可愛らしいえくぼを目にした瞬間に、目の前の女性と、自分の記憶の中の由美とが一致した。

「誰なのかわかんなかったよ。すごく綺麗になったから」
久し振りだからって、お世辞なんか言わなくても良いわよ。そう言って由美は笑ったが、自分としては素直に出た言葉だった。
「眼鏡を外したからかな、全然印象が違うよ。それに、かなり痩せた?」
ひどい、昔はそんなに太ってたってこと?唇をとがらせながら少し怒った素振りをする。もちろん目を見れば本気で怒っていないことはすぐにわかる。
「でも、真君だって変わったよ。昔はこーんなに小さかったのに」そう言って自分の胸の辺りに手をかざして、「今じゃ、こーんなに大きくなったもの」それから背伸びをしながら腕を一杯に伸ばして言った。その仕草が何ともおかしくて、人目も気にせずに大声で笑った。最初は呆気に取られていた由美も、いつの間にかつられて笑っていた。

それから由美との交際が始まった。
由美と一緒なら、何をしても楽しかった。当時学生だった自分には贅沢なデートをする余裕なんて無かったが、手を繋いで歩くだけでも充分に幸せだった。

そんな無邪気な幸せが揺らぎ始めたのは、一体いつ頃からだったろう。
就職を機に交際範囲が広がり、由美との時間が少なくなってしまったのが原因だったのかも知れない。仕事や付き合いで遅くなった夜に由美から電話が掛かってくると、思わず不機嫌な声で応えてしまうことが多くなっていた。決して由美のことを嫌いになったわけじゃない。ただ、あまりにも距離が近すぎて、ちょっと息苦しくなってしまっただけのこと。

そんなある日、由美が改まった調子で訊いた。
「ねえ、私のことどう思ってる?」
いきなりそう訊かれて、少し戸惑った。
「え?どうって、もちろん好きだよ」
我ながら軽い返事だと思ったが、他に答えようがない。

手許に視線を落として、ふう、と軽く息を吐きながら、由美は視線を上げた。
「私達付き合ってもう5年になるよね。はっきり訊くけど、真君は私と結婚する気はあるの?」


絶句した。


もちろん、由美との結婚を考えたことがなかったわけじゃない。付き合い始めた頃は、絶対にこの女と結婚したいとさえ思った。ただ、そういう気持は付き合っていくうちに徐々に薄れて行くものだ。どんなに燃え上がっても、いや、燃え上がれば燃え上がるほど、その反動は顕著に現れる。一気に上昇曲線を描いた恋は、例外無く一気に下降曲線を描くもの。もちろん、その時はそんなことなんて意識すらしない。終わってみて初めてわかること。

「ごめん、今はまだ結婚なんて考えられないよ。お互い若いんだし」
そう言うのが精一杯だった。我ながら卑怯な答えだと思った。
そう、わかった。そう言って由美はまた手許に視線を落とした。


由美と別れた当初は、妙な解放感があった。疲れて帰った夜に掛かってくる電話を気にする必要は無いし、週末に深夜まで飲んでいたって気にかける必要は無い。何をしたって自由。
ただ、それもほんの一瞬のことで、すぐに寂しさが襲って来た。身の周りには嫌と言うくらいに由美の思い出が溢れている。ネクタイ、ベルト、名刺入れ、靴、財布。すべてが由美からのプレゼントだった。ネクタイを締める度、財布を取り出す度に由美の笑顔が浮かんでくる。いっそ捨てようかとも思ったが、いざとなると捨てられない。いつまでも煮え切らない自分がたまらなく嫌だった。


一週間前に由美と偶然に再会した。あれから3年経っていた。
場所もあの時と同じ渋谷。声をかけられて振り向いた由美に笑顔はなかった。不意に声をかけられた相手が、3年前に自分のもとから離れていった男だったのだから、笑顔になれるはずもないのだろう。
お茶でもどう?と誘って、近くの喫茶店に入ったが、会話の弾むはずもない。お互いの仕事の話を申し訳程度にしたくらい。気まずい空気に耐えかねて、気が向いたら電話してよ、と言って、名刺の裏に携帯電話の番号を書いて渡した。決して掛かってくることはないだろうと思いながら。
うん、と頷いて名刺を受け取った由美の左手の薬指には、指輪ははめられていなかった。


思いがけず由美から電話があったのは、それから3日後のことだった。
「明日仕事の都合で、真君の会社の近くに行くことになったの。仕事の後に時間取れるかな?ちょっと話したいことがあるんだけど」
自分としては否も応もない。由美に会えるのなら、仕事を放ってでも会いに行く。
場所と時間を決めて電話を切った。話って何だろう?まあ良い。明日になればわかることだ。今は由美から電話があったことを素直に喜ぼう。


そして、今朝由美の夢を見た。
今朝見た夢を頭の中で再生しながら、きっと正夢になる、と確信して約束の喫茶店へと向かう。
この夢が正夢だと確信するのには、自分なりの理由があった。過去2度の正夢と共通する体験をしているからだ。つまり、自分が望む結果を得る前に、相手から”イエス”か”ノー”かの返事を求められる質問をされている、ということ。

サンタはいるか?イエス。
この学校を誇りに思っているか?イエス。

今回も夢の通りに答えれば、由美とやり直せるはずだ。
「ねえ、あの時に私から離れていったこと、後悔してる?」
そう由美から訊かれたら、
「ああ、もちろん後悔してるよ」
そう答えるだけで良い。それですべてはハッピーエンド。


約束の店に入って店内を見まわすと、窓際の席に由美がいた。
椅子に腰を下ろしながら、ウエイターが目の前に広げたメニューを見もせずに「ホットを」と注文する。
「ごめんね。無理に呼び出しちゃって」
「気にしなくても良いよ」
頬が熱くなるのを感じる。店内の良く効いた暖房のせいばかりではない。相変わらず由美は美しい。
しかし、やはり会話は弾まない。お互いの間に横たわる、3年間という深い溝を意識せずにはいられない。

仰々しい仕草でウエイターが置いていったコーヒーを口に運びながら、思い切って訊いてみる。
「それで、話って何?」
それまでコーヒーカップに落としていた視線を上げて、椅子に座り直しながら由美が言った。
「ねえ、あの時に私から離れていったこと、後悔してる?」


待ちかまえていた質問が来た。
心の動揺を悟られぬ様に、つとめて冷静を装って答える。
「ああ、もちろん後悔してるよ」

それを聞いた由美は、視線をまたコーヒーカップに落として呟いた。
「ごめんなさい」


え?そうじゃないだろ?
ここはニッコリ笑って、「ねえ、私達もう一度やり直さない?」だろ?
予想していなかった答えに、内心慌てた。目の前の由美の様子からは、とても夢の通りの展開になりそうな気配はない。
ひょっとしたら、夢の中の答えは”ノー”だったんじゃないか?夢なんてどんなに鮮明に覚えているつもりだって、あてにはならない。どちらにしても、このままじゃ駄目だ。イエスが間違いなら、正解はノーしかない。
続けて何かを言おうとする由美を制しながら言った。

「いや、あの時は自分の意志で由美から離れていったわけだから、後悔はしてないよ。もちろん、情けない選択だったとは思うけど、あの状況だったら、ああするしかなかった」
そう言いながら、由美の表情を観察する。あの可愛らしいえくぼが口許に浮かんだ。
そうか、やっぱり”ノー”が正解だったんだ。まったくハラハラさせやがる。

「そう言ってもらえると、少し気が楽になる。今日は真君に謝ろうと思って... 実は、3年前のあの時、真君のほかに付き合ってる人がいたの」
「え?」
「どうしても本当のことを打ち明ける勇気がなくて、それで結婚話を切り出したの。あの頃の真君は、結婚なんて真剣に考えたことなんてなかったでしょ?だから結婚を迫ればきっと真君は私から離れていくと思ったの」
「・・・・・」
「今度その人と結婚することになったんだけど、3年前のことがずっと心に引っ掛かってて。だから直接真君に会って謝りたかったの。真君を試すようなことをして、本当にごめんなさい」
そう言って頭を下げた由美は、テーブルに置かれた伝票を手にして立ち上がりながら言った。
「でもね、あの時真君が私と結婚する、って言ってくれたら、あの人とは別れるつもりだった。これは本当よ」



窓の外の景色を眺めながら、しばらくそのままの姿勢でいた。今さっき聞いた由美の言葉が、頭の中でリフレインしている。窓の外をコートの襟を立てて足早に歩き去っていく人達のリズムにシンクロしながら、由美の言葉が何度も何度も勝手に頭の中で再生される。何ともやり切れない。
視線を店内に戻して、コーヒーカップを取り上げる。


正夢なんかじゃなかった。イエスにしろノーにしろ、結果は最初から決まってたんだ。
前に見た2回の正夢も、同じことだったのかも知れない。サンタさんなんていないよ、と答えたとしてもゲーム機はもらえただろうし、誇りに思うかどうかなんて考えたことはありません、と正直に答えたところで、面接試験には合格していたのだろう。
日頃から強く願っていることが夢の中に現れることなんて、それこそ数え切れないくらいあることだ。夢の通りに事が運ぶことだって、長い人生の間で1度や2度あったとしても不思議じゃない。それを都合良く自分勝手に正夢だと思い込む。結局のところ、正夢の正体なんてこんなものなんだろう。そんなことくらい、自分だってわかっていたはずなのに。


冷え切ったコーヒーを一気に喉の奥に流し込んだ。

イエスと答えるべきだったのは今日なんかじゃなく、3年前のあの時だったんだ...


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