6月11日 天候:当然のように快晴



この日も当然のように快晴だ。

窓を開けて気持ちのいい空気を大きく吸い込んでみる。今日でこの気持ちのいいフランスの朝ともお別れである。旅行初日は早く日本に帰りたいと思ったが、やっぱり少しだけ寂しい。

シャワーを浴びようとバスルームのドアを開けると、後ろから相方が声をかけた。

「またドライヤー壊れたみたい」
「うそ、だって昨日部屋に帰ってチェックしたときには、ちゃんと直ってたじゃん」
「だけど、昨日の夜シャワーを浴びてドライヤーを使おうとしたら、また動かなかったの」

まさか、二度ならず三度までも壊れるなんて、と思いながらドライヤーのスイッチを入れてみるが、やはりウンともスンとも言わない。ここまでくると、もうあきれるしかない。まったく学習しないホテルだ。あんたら、サル以下。

このままフロントに行くのも芸がないと思い、シャワーを浴びてわざと髪を濡らしてからフロントに文句を言いに行った。フロントには若い女子が二人いた。昨日までの鼻歌まじりの男子だったら話は早かったのだが、まあ仕方ない。とにかく切羽詰った感じで事情を説明する。

「部屋のドライヤーが動かないんだけど」
「そうですか、少々お待ちください」
(フロントの奥に引っ込んで、しばらくしてから出てきて)「すみません、今ドライヤーのスペアがないもので」

そう言ったまま、ツンと澄ましている女子の表情が小憎らしい。スペアのドライヤーがないから大人しく引き下がれってことか? 冗談じゃない、もう自分は髪の毛を洗ってしまった後なのだ。緊迫感を持たせるために、わざと髪の毛を濡らして来たのだ。このまま大人しく引き下がれるわけがない。

「じゃあさ、ドライヤーなしでどうやったら髪の毛を乾かすことができるのか、教えてよ」

思い切り不機嫌な表情を作りながらそう言うと、女子は「イエス・・・」と言って、横にいたもう一人の女子と何やらフランス語で話し始めた。そうそう、少しは困りなさい。客を困らせておいて自分は知らん顔では、いくらなんでも理不尽ってもんだ。それでこそ、わざわざ髪の毛を濡らしてきたかいがあるってもんだ。

しかし、フランス語での相談はなかなか終わらない。いつまでも髪の毛が濡れたままではこちらとしても困る。仕方ないから、助け舟を出してやることにした。

「昨日と一昨日は、105号室の鍵を貸してもらったんだけど」
そう言うと、フロントの女子はホッとしたような表情で、「今は105号室は開いてないから、101号室のドライヤーを試してください」と言いながら鍵を手渡した。「ちゃんと動くかどうか、保証はできませんけど」と、あらかじめ言い訳を用意しておくところが、いかにもフランス人らしくて腹が立つ。


朝飯を食べてホテルを出るときに、ドライヤーをちゃんと直しておきなさい、と念押ししようか迷ったが、どうせもう今日はこのホテルには泊まらないのだから、直してもらっても意味がない。それにどうせだったら、これから104号室に泊まる人たちにも、自分たちと同じ災難に遭遇させてやりたい。そう考えて、何も言わずにホテルを出た。

ドライヤーのおかげで、かなり意地悪な人間になってしまった。ちょっとだけ反省。


この日は夕方5時にホテルのロビーに集合するまでは自由に使える。昨日、電車が遅れたおかげで買い物をし損ねたので、まずは近くのデパートに行って、色々とお土産を物色することにした。

地下の食品フロアに行き、まずはお菓子を選ぶ。

「うーん、どれにしようかなあ」
「別にどれでもいいんじゃない」
「これが美味しそうかなあ」
「うん、それでいいと思うよ」
「やっぱりこっちの方がいいかなあ」
「どっちでもいいと思うけど」

今まで相方の悪口は一切書かなかったが、これだけは書かせてもらおう。相方よ、君は買い物のときに迷いすぎ。

せっかく買うのだから、相手に喜んでほしいと一生懸命に選ぶ気持ちはわかる。それはわかるが、適当に選ぶのも大事なことだ。そんなに真剣に選んでいたら、すぐに疲れてしまうぞ。お土産をもらう方にしたって、大して期待しちゃいないのだ。大体、お土産を買うためにわざわざフランスまで来たのではない。お土産のために旅行を犠牲にする必要はないのだ。

ということを相方に言って聞かせたのだが、君は買い物をするときに何も考えなさすぎ、と逆に怒られてしまった。たしかにその通り。一言も言い返せないまま、ハナクソをほじりつつ、買い物に付き合った。


そんな感じで、午前中一杯かかって、ようやくすべてのお土産がそろった。一度ホテルに戻って荷物を預けてから、改めてランチを食べに街に出かける。


どの店に入ろうかと歩いていると、オープンカフェでパエリアを食べているフランス人の姿が目に入った。フランスに来てからというもの、一度も米を食べていないことに気づいた。きれいな色をしたサフランライスがなんとも美味そうだ。隣を歩く相方も同じことを考えたらしく、「パエリア美味そうだね」と訊くと、すぐに「入ろうか」と答えが返ってきた。

白ワインを飲みながらサラダを食べているところに、待望のパエリアが運ばれてきた。旅行の初日に部屋で食べた納豆かけご飯以来の米だ。期待に胸をふくらませながら一口ほおばる。しかし一口ほおばった瞬間に、期待にふくらんだ胸はしゅるしゅると音を立てて、一気にしぼんだ。

「この米、マズイなあ」
「日本の米と違って、縦長なんだね。食感が全然違うもの」
「それにさ、思い切り芯が残ってて、食えたもんじゃないよ」

本場スペインのパエリアは美味いのかも知れないが、少なくともこのパエリアはまずかった。アルデンテの米なんて食えたもんじゃない。料理を残すことには激しく抵抗があるのだが、食べられないものは仕方がない。半分くらい頑張って食べたところでギブアップした。

しばらくするとウエイターが来て食器を片付け、「ノー チップ インクルーデッド」とかなんとか言いながら、伝票を置いていった。どうやらこの伝票の金額とは別にチップを置いていけということらしい。

チップって、客に強要するものなのか? 客が店のサービスに満足したときに、自発的に置いていくのが本来のチップじゃないのか? 大して美味くもないし、サービスだっていいとは言えない。それなのに「チップは置いていけ」とはどういうことだ。誰がこんな店にチップなんか置いていくか。チップが欲しければもっと頑張れ。

なんてことは言えるはずもなく、大人しくチップを払って店を出た。小心者の自分がちょっとだけ悲しくて、ちょっとだけ愛しい。そんなことを考える今日この頃。


集合時間の午後5時まで、ニースの街をぶらぶらと散策する。今日でおフランスともお別れかと思うと、やはり少し寂しい。


ホテルのロビーに集合すると、トドならぬ藤堂女史が甲高い声で出迎えてくれた。
「はい、それでは今からニース空港へ移動しまあす。シャルル・ド・ゴール空港では乗り換え時間が1時間しかありませんから、少し忙しくなりますが、よろしくお願いしまあす」

ニース空港へ到着して手続きを済ませ、自分たちの乗る飛行機を待つのだが、なかなか到着しない。30分近く遅れて、ようやく離陸したときには、藤堂女史の表情に焦りの色が浮かんでいた。それはそうだろう、ここで成田行きの便に乗り遅れたらもう一泊しなければならないのだから、何かと面倒なことになる。何としてでも定刻の便に間に合うように頑張らなければならないのだろう。

スチュワーデスをつかまえて、何か話し始める藤堂女史。話が終わったところで、ツアーメンバーに向かって言った。
「エール・フランスにお願いして、私たちを一番先に降ろしてもらえるようにしました。この便が着陸したらすぐに降りてくださあい」

どうやら事態はかなり切迫しているようだ。トドの甲高い声に緊張感がみなぎっているのがわかる。

1時間後に着陸した機内には、「東京からのツアー客を優先して降ろしますので、ご協力をお願いします」というアナウンスが流れた。トドを先頭に急いで降りるツアーメンバーたち。

機内から降りたところで、エール・フランスの男子が「こちらに集まってください」と出迎えてくれた。エール・フランスとしても、間に合わなかったら今夜の宿を確保しなければならないから、真剣にならざるを得ないのだろう。頼むぞ、エール・フランスの男子職員。

トドがツアーメンバー全員が集まっていることを確認して、さあ出発と思いきや、何を考えたのか機内から降りてくる乗客に向かって、男子職員が声をかけ始めた。

「パソナ フォー ナリタ? パソナ フォー ナリタ?」

なんと、成田行きの乗客はいないかと一人一人に訊いているのだ。コイツ、バカじゃないのか。ちゃんと全員揃っているのに、なぜ他の乗客に確認する必要があるのだ。隣でトドがトドっぽい体をくねらせながら、「早くしてよ、もお」と身悶えている。ここはトドと同じく焦らなければいけないところなのだろうが、あまりにも予想外な展開だったので思わず笑ってしまった。

「オッケー レッツ ゴー」

そう男子職員に促されて、思い切り走り出すメンバーたち。一番最初に降りたのに、結局は一番最後になってしまった。なんだかよくわからないが、とにかく走るしかない。こういう状況では、笑っている場合ではないのだが、なぜか不思議に笑いがこみ上げてくる。他のメンバーも同じらしく、文句を言いながらもけっこう楽しそうだ。

足の悪いおばさんのことがちょっと心配だったが、他人のことを気にしている余裕はない。とにかく自分と相方が無事に乗れることが最優先だ。

大慌てで手続きをする自分たちに、にこやかな表情で、「フランスハ タノシカッタ デスカ?」とか、「ドコガ イチバン キレイ デシタカ?」などと男子職員が日本語で話しかけてくる。自分たちがこんなに焦っているのは、少なからず君にも責任があるんだぞ、と思うのだが、不思議と腹が立たない。ここまで開き直られると、もう笑うしかない感じだ。


何とかギリギリで、メンバー全員が無事に席に着くことができた。足の悪いおばさんもちゃんと座っているのを見て安心する。しかし、一番安心しているのは何と言ってもトドだろう。よく頑張ったぞ、トド。その甲高い声だけは最後まで慣れることはできなかったが、その体力と行動力は尊敬に値する。



機内の窓から見えるフランスがどんどん小さくなって行く。
旅の最後というのは、そこはかとない寂しさを感じるものだ。今回も小さくなっていくフランスを眺めながら、あの独特な寂しさが湧いてきた。つまりは、それだけ今回の旅を楽しめたということなのだろう。

色々とあった旅だったが、振り返ってみれば楽しい旅だった。ありがとうおフランス。また会う日まで。


窮屈なエコノミー席での12時間を耐え、ようやく成田空港に着く。

夕方の成田は、快晴のフランスとは打って変わって思い切りの曇天。しかし、やはり日本語で溢れる空港に降りると、日本に帰ってきたんだという安心感で満たされる。


最後にもう一度空港内に集合して、トドから「お疲れさまでした」という締めの挨拶があった。

このツアーを通して、ある種の一体感がメンバーたちの間にできていた。やはりちょっとだけしんみりとした雰囲気になる。若い新婚カップル、米長夫妻、P子ちゃん姉妹、鎌倉夫人ペア、上品母娘、足の悪いおばさん姉妹、若いOLペア、どの表情も一様に寂しげだ。P子ちゃんの目が濡れているように見えるのは、果たして自分の見間違いだろうか。

なんて、もちろんそんなわけはない。
どの顔も疲れてはいるが、一様に清々したといった感じだ。旅行に出かけたのに、家に帰るのが嬉しいというのは、ちょっと矛盾した感情かも知れないが、やっぱり自分の家に帰ることができるというのは嬉しいものなのだ。「旅行の最大の目的は、我が家の素晴らしさを再認識すること」という名言を残したのは誰だったか。いや、今自分が適当に思いついただけの台詞です。すまん。


空港から総武線に乗り込み、相方の実家のある駅で降りたのは、夜の8時を少し回った頃だった。

「お帰りなさい。疲れたでしょう」

そう言って、笑顔で出迎えてくれたのは、相方のお父さんとお母さんだ。お義父さんが注いでくれたビールを一息で飲み干し、思わず、クーッ、美味いぞこの野郎! と心の中で叫んだ。

お義母さんの出してくれる料理がこれまた美味い。ヌカ漬け・サザエのつぼ焼き・サクサクの天ぷら・熱々の味噌汁などなど、自分のツボをピンポイントで刺激するメニューにすっかりノックアウトされた。

やっぱり日本人に生まれてよかった。


すっかりいい気持ちになりながら、相方に見送られて総武線に乗り込む。
本八幡駅に着くまでの間、おフランスでの出来事をあれこれと思い出すうちに眠くなってきた。ほんの少しだけ眠るとしよう。本八幡に着くまでの、ほんの少しだけ。





目を覚ますと、見慣れない駅の景色が自分を出迎えた。駅名を確認すると、「水道橋」になっているではないか。

しまった、思い切り寝過ごしてしまった。

あわててスーツケースを引きずりながら、反対側のホームに停車している下り電車に乗り込む。

これほど無防備に眠り込んでも、なにひとつ盗難の被害に遭わないというのは、やはり日本ならではだろう。ありがとう、日本。自分は日本という安全な国に生まれてきて幸せです。これからも日本人の誇りを胸に生きていきます。


そう考えながら、少しだけ眠くなってきた。ほんの少しだけ眠るとしよう。本八幡に着くまでの、ほんの少しだけ。




目を覚ますと、そこは西船橋だった。

しまった、また寝過ごしてしまった。


あまりにも安全すぎて眠くなる国、それが日本である。そんな日本が大好きだ。




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