6月10日 天候:引き続き嫌になるくらい快晴



満腹になった腹をさすりながら、アントルヴォーの駅に向かう。

駅舎では、7〜8人のフランス人のおばさん集団がにぎやかにおしゃべりをしている。おばさんの集団がかしましいのは、どうやら万国共通らしい。

うるさいおばさんたちを避けてホームに出ると、日本人と思しき若い女子が一人で立っていた。Tシャツにリュックを背負ったその姿は、なかなかにたくましい。「あの若い女子、日本人だよね」と相方に小声で尋ねると、きっとそうだよね、と答えた相方は、いきなりその女子に話しかけた。

「こんにちは」
「あ、こんにちは」

とにかく、相方のこの人懐っこさには感心する。誰にでもすぐに声をかけて会話ができるというのは、一つの才能だと思う。自分が人一倍人見知りをする性格だけに、よけいにうらやましい。


話を聞くと、どうやらその若い女子は大きなリュックを背負いながら、安いホテルを泊まり歩いているらしい。旅のゴール地点であるパリで、彼氏と落ち合う段取りになっているということだ。それにしても、若い女子が一人で旅をして怖くないんだろうか。いやはや、何ともたくましい女子である。もし自分が同じ立場だったら、今頃きっと街角で一人膝を抱えながら涙しているところだろう。人一倍小心者の自分が哀れで、それでいてなぜか愛しい。

予定時刻の午後3時を過ぎても、一向に電車が来る気配がない。10分経っても20分経っても一向に電車は来ない。いい加減にしびれが切れてくるが、おばさんたちは相変わらず陽気におしゃべりをしていて、まったく気にする様子がない。きっとこれくらいの遅れはいつものことなんだろう。

予定時刻を30分くらい過ぎた頃に、ようやく電車の姿が見えた。それと同時に、なにやらフランス語でアナウンスがあるが、もちろん何を言っているのか、まったくわからない。一体何を言ってるんだろう、と首をひねる自分たちの姿に気づいたおばさん軍団の一人が、なかなか流暢な英語で説明をしてくれた。

「今度来る電車は満員で乗れない。10分後に臨時電車が来るから、それに乗るように、ってアナウンスしてるわ」

なるほど、観光シーズンだから、通勤ラッシュ時の山手線並みに混んでいるのか、と思いながら走り去る電車の車内を眺めたのだが、ラッシュ時の山手線どころか、立っている人の姿すら見えない。

「おいおい、満員とか言いながら、思い切り空いてるじゃん」
そう問いかけると、相方も首をひねりながら答えた。
「うーん、きっと座席が一杯で座れないってことなんじゃない?」
「いや、別に全席指定ってわけじゃないんだから、それはおかしいよ。お前はオリエントエクスプレスかっちゅーの」
「あ、いいね、懐かしいね、そのフレーズ。何とかっていう女子のお笑いコンビが流行らせたフレーズだよね」
「まったく、暑い中を待たせるなっちゅーの」


そんな感じで夫婦漫才を繰り広げていると、隣に立っていた若い女子がくすりと笑った。
よし、どうやら面白いらしい。これからもこの調子で芸を磨いていくぞ、相方よ。


結局、定刻より40分以上も遅れて、ようやく電車に乗り込むことができた。

座席に着くといきなり暑い。
外はカンカン照りなのに、車内はまったく冷房が入っていないのである。

ボックス席に陣取った自分たちは、とりあえず車窓の景色を楽しむフリをしながら、暑さを忘れようと試みた。線路に沿って流れる川の流れが美しい。

自分:「いやあ、きれいな川だね。車内は暑いけど、こういう水の流れが見えると、不思議に涼しく感じるよね」
女子:「そうですよね、こういう景色って、本当に涼しく感じますよね」
相方:「やっぱり、水のある景色って、素敵だよね」

などと、うわべだけの会話を展開してみるが、暑いものはやっぱり暑い。Tシャツの下はすでに汗びっしょりである。
冷房の入っていない車内では、窓から入ってくる風が唯一の頼りである。しかし、駅を出てから10分もしないうちに、いきなり電車が止まった。それと同時に、窓から入ってくる風もピタリと止まった。

何事かと立ち上がると、運転士さんが電車から降りて何やら線路を調べている。おもむろに立ち上がった運転士さんは、運転席から工具箱を取り出し、さらにレールを点検しはじめた。

おいおい、大丈夫か。レールくらい毎日点検しておけよ。って言うか、つい10分前に先行の電車が走っていったばかりなのに、その電車は大丈夫だったのか? 色んな意味で心配だ。

10分くらいレールをトンテンカンテンして、ようやく電車が動き出した。その瞬間、車両の後ろに陣取っていたおばさんたちは、イエーイ! とかなんとか大きな声をあげて笑い、手を叩いておおげさに喜んだ。なんて陽気な人たちなんだ。おかげで、自分たちまで陽気な気分になる。そう、人間は細かいことにいちいち目くじらを立てていてはいけない。もっと大らかな気分で何事も楽しまなければ損ってもんだ。

なんて、そんなこと思うわけがない。

いい加減うるさい。ただでさえ暑い車内ではしゃいだりしたら、よけいに暑くなるだろうが。電車は走るのがあたりまえだ。金を払って乗っているんだから、走るのがあたりまえだ。あたりまえのことにそんなに喜ぶんじゃない。


しばらくは快調に走っていた電車が、また止まった。
今度は何事かと思って窓の外を眺めていると、後ろから走ってきた電車が目の前を通り過ぎていった。

おお、これは一体どういうことだ? この路線は一日に4往復だけだから、通常ダイヤの電車でないことはたしかだ。だとしたら、自分たちの電車と同じ臨時便なのか。しかし、それならばなぜ自分たちの乗った電車を追い越していくのか。一体どうなっているのか、さっぱりわけがわからない。車掌さんに訊こうにも英語が通じないのでらちが明かない。

この間も、後ろのおばさんたちはとにかく元気だ。この状況にもまったく動じることなく、相変わらず陽気に大きな声で笑っている。


わけがわからないまま発車した電車は、30分くらい走った後にまた止まった。

まったくよく止まる電車だ。今度はどうしたのかと思って様子を見るが、一向に走り出す気配がない。運転士や車掌が電車から降りたりまた乗ったりを繰り返しているだけで、どういう状況なのかさっぱりわからない。たまに電車がバックしたりすると、おばさんたちがやんややんやの歓声を上げる。別におばさんたちを喜ばせなくていいから、早く電車を走らせなさい。いかに温厚な自分とても、いい加減頭に来るってもんだ。

止まったままの車内にはそよとも風が入ってこないので、とにかく暑い。冷房くらい入れたらどうかと思うが、言葉の通じない相手には何を言っても無駄である。ここはじっと耐えるしかあるまい。

しかし、じっと座っているだけで汗だくになるくらいに暑い。あまりの暑さに気分が悪くなるほどだ。相方と若い女子もさすがにぐったりとした様子だ。

その一方で、おばさんたちのパワーはまったく衰えを見せない。今度はいきなり輪になって歌を歌い始めた。

お願いしますよ、このくそ暑いときに下手な歌なんか歌わないでくださいよ。よけいに暑くなるでしょうが。


結局、30分くらい止まっていただろうか。もうこれ以上は限界だと感じ始めたときに、前方から来た電車が走り去っていき、その後ようやく自分たちの乗った電車が発車した。

どうやら、線路が単線のため、反対方向から来る電車をやり過ごすために止まっていたようだ。だったらそう説明してほしいもんだ。理由がわかっていて待つ30分と、まったく理由がわからないまま、何分待てばいいのかすらわからない状態で待つ30分とではまったく違う。

ホテルでも強く感じたことだが、とにかくフランス人は絶対に謝らない人種である。どう考えてもあんたらが悪いだろ、という状況でも絶対に謝らない。やたらに謝る日本人もどうかと思うが、こうまで謝らないフランス人もどうかと思う。もし自分がフランス語を話すことができたら、絶対に許さない状況なのだが、話せないんだから仕方ない。今日のところは勘弁しておいてやる。


汗だくになってヘロヘロの状態で電車を降りたのは、到着予定時刻を1時間半も過ぎた午後7時のことだった。

思い切り不機嫌な表情で歩く自分の横を、底抜けに明るいおばさんたちが声をかけながら通り過ぎていく。まったく、あんたら底だけじゃなくて他のところもどこか抜けてるんじゃないのか、なんてことはもちろん思わない。ある意味尊敬する。

英語の話せるおばさんが、「いつもはこんなんじゃないのよ、今日はついてなかったわね」みたいなことを話しかけてくれたが、おそらくいつもこんな感じなんだろう、フランスという国は。いい加減で強情で陽気な人間が住む国、それがフランスなのだろう。


駅を出たところで、これからの旅の安全を願って若い女子と別れる。女子の一人旅は大変だと思うが、たくましい君ならきっと大丈夫さ。頑張れ、若い女子。


ホテルに戻って汗臭いTシャツを脱いで着替える。本当ならばこれから1時間ばかり買い物をする予定だったのだが、電車が大幅に遅れたために、もうどこの店も閉まっている。仕方ないので、買い物は明日に回すことにして、食事に出かけることにした。

部屋を出る前に、ドライヤーとトイレをチェックする。
よしよし、どちらもちゃんと直っている。


海を正面にしたレストランに入り、白ワインで乾杯する。

「それにしても、今日は散々だったね」
「本当だね」
「ドライヤーは動かない、トイレの水は止まらない、そのくせ電車は止まりまくるしさ。まったくいい加減な国だよ、フランスってところは」
「まあまあ、そんなに怒らないで。日本にいるときとすべて同じことを期待してたらダメだよ。これが旅行の面白いところでもあるんだからさ」
「うーん、そんなもんかね。自分はやっぱり日本が一番だと思うね」


色々あった一日だったのでさすがに疲れた。いつもよりワインの回りが早い。

レストランを出てブラブラと海岸線を散歩していると、オープンカフェで優雅にくつろぐ米長夫妻を発見した。向こうもこちらに気づいたらしく、お互いに軽く会釈をする。

「やるねえ、米長夫妻。あまりにもニースの風景に溶け込んでいたからビックリしたよ」
「奥さんがまたいい味出してるよね」
「なんと言ってもあたしんちだからなあ」

旅行前半に見られた微妙な距離感は、もう米長夫妻の間には存在しなかった。

さすがは将棋名人の米長氏、見事に王手飛車取りを決めたらしい。


そう言う自分は、この旅行中に王手飛車取りを決めることができたのだろうか。はたして成田離婚の危機は回避できたのだろうか。

そう自問自答しながら、おフランス六日目の夜は更けていった。



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