6月10日 天候:嫌になるくらい快晴



この日ももちろん快晴。

窓からちょっとだけ見える海を眺めた後、シャワーを浴びようとバスルームに入った自分の背後から彼女が声をかけた。

「昨日の晩、ドライヤーを使おうと思ったんだけど、動かなかったよ」
「え、だって昨日帰ってきたときに確かめたら、ちゃんと動いたじゃん」

そう言いながらドライヤーのスイッチを入れたが、ウンともスンとも言わない。まったく、どうなってるんだ。速攻でフロントに向かう。

フロントにいたのは、フンフンと鼻歌を歌いながらドライヤーをためしていた、昨日と同じ男子だった。向こうも自分の顔を見覚えていたらしく、ドライヤーが動かないんだけど、と告げると、"again?" と言って、肩をすくめる仕草をしながら、昨日と同じように105号室の鍵を渡した。

まったく、"again?" と言いたいのはこっちの方だ。いや、"again?" なんて言う前に、まずは謝りなさい。話はそれからだ。

105号室のドライヤーで髪を乾かして部屋に戻ると、バスルームから出てきた彼女が言った。

「トイレの水が止まらないんだけど」

そう言われて確かめてみると、なるほど、チョロチョロと水が流れたままである。この音が結構耳障りだ。彼女は昨日の夜からこの音が気になって、なかなか寝られなかったらしい。たった二日しか泊まっていないのに、ドライヤーは二度も壊れるし、トイレの水は止まらないしで、はっきり言って最悪だ。責任者出てこい。

フロントに鍵を預けて出かけるときに、フロントの若い女子に思い切り不機嫌な表情で、「ちゃんと直しておくように」と告げるが、イエスと答えるだけで一言も謝らない。どうしてこうも謝らない人種なのだ、フランス人ってやつは。自分にもっと英会話力があったら、中指を立てて怒っているところだが、悲しいかな、それだけの会話力がないのだ。腹を立てたまま、ニースの街に出かけた。


今日はツアーが始まってから心待ちにしていた自由行動の日である。藤堂女史の甲高い声を聞かなくていいし、パッツン女史のパッツンパッツンな後姿についてゾロゾロと歩かなくてもいいのだ。なんたる解放感。


今日は電車に乗って、山岳地帯にある「アントルヴォー」という村を目指すことにする。

ガイドブックを見ると、9時ちょうどに出る電車があるので、この時間に合わせてホテルを出て駅を目指す。余裕を持ってホテルを出たので、8:40 に駅に着いた。窓口で「ツー チケッツ ツー アントルヴォー」と告げると、どうやら英語が通じないらしく、別の駅員さんが出てきた。同じように「ツー チケッツ ツー アントルヴォー」と告げると、「ここじゃアントルヴォー行きの切符は買えないよ。この先5分くらい歩いたところにプロバンス鉄道の駅があるから、そこで買って」と言われた。

しまった、目指す駅を間違えてしまったらしい。

ガイドブックの地図を広げながら歩くのだが、なにせ初めて歩く街なので、どこをどう歩いているのかよくわからない。道行く人をつかまえて訊いても、さっぱり英語が通じない。フランスは英語の通じない国だとは聞いていたが、まさかこれほど通じないとは思わなかった。観光地のホテルやレストランならば何とか通じるが、一般の人にはまったくと言っていいほど通じない。

そうこうしているうちに、どんどんと出発時間の9時が迫ってきた。この電車を逃すと、12:43 の電車まで待たなければならない。思い切り焦りながら、道行く人を次々につかまえて駅までの道を尋ねる。

なんとか片言の英語を話す男子に当たって、ようやく駅を見つけることができた。時計を見ると、あと2分で9時を指そうとしている。大慌てで窓口で切符を買い、ギリギリのタイミングで電車に乗り込んだ。いやあ、危ないところだった。

なんて書くと、まるで自分が先頭を切って行動しているように読めるが、実はまったくの逆である。道を訊いたのも、窓口で切符を買ったのもすべて彼女である。恥ずかしい話だが、自分はたとえ日本でも、他人に道を訊いたりするのは大の苦手なのだ。そんな自分が、異国の地おフランスで道を訊けるはずがない。しかし、彼女はまったく躊躇せずに他人とコミュニケーションを取ることができるのだ。こういうところは我が相棒ながら凄いと思う。体は小さいが、行動力はたくましい。


二両編成の小さな電車は、細いレールを猛スピードで走っていく。

なんだか、微妙に怖い。こんなに小さな電車が、こんなにスピードを出して、脱線しないのだろうか。「浅草花やしき」のジェットコースターに乗ったときと同じような怖さを感じる。プロバンス鉄道に乗ってみたいけど、時間もお金もないというあなたには、迷わず花やしきのジェットコースターをお勧めする。


いくつかの駅を過ぎていくうち、あることに気づいた。それは、今どこを走っているのかがわからないということだ。

車内には路線図など一切掲示されていないし、車内アナウンスもまったくない。おまけに駅舎にも駅名が表示されていない場所が多々あるのだ。これでは目的のアントルヴォーに着いたかどうかの判断ができない。困った。困ったのでガイドブックを開いてみる。

「ガイドブックには、1時間30分でアントルヴォーに着くって書いてあるよ」
「ってことは、ニースを出たのが定刻より10分くらい遅れてたから、10時40分くらいに着くってことだね」
「大分山の中に入ってきたから、駅の間隔も10分くらいに開いてきたし、10時40分前後に停車した駅で降りれば間違いないだろうね」

そんな感じで相談していると、電車が止まった。時計を見ると、ちょうど10時40分を指している。
「よし、きっとこの駅で間違いないよ」
自信満々で電車を降りて、大きく深呼吸をする。とりあえず間違いないかどうかを確かめようと、駅舎のあちこちを調べるが、どこにも駅名らしきものが見当たらない。

「うーん、ここって本当にアントルヴォーなのかなあ」

そう自分が言うよりも早く、相方はまだ止まっている電車に駆け寄り、窓から運転士になにやらジェスチャー入りで話しかけている。

「ここはアントルヴォーじゃないみたい」
戻ってきた相方がそう言うと、電車から降りてきた乗務員のおじさんが、「早く乗れ」というジェスチャーをしている。

「え、ここってアントルヴォーじゃないの?」

何がなんだかわからずに躊躇していると、運転士まで窓から身を乗り出して「早く乗れ」というジェスチャーをしている。

「なんだかわからないけど、とりあえず乗ろうよ」という彼女の言葉に促されて電車に乗り込む。

10分後に降りた駅舎には、間違いなく "Entrevaux" の駅名が記されていた。

いやあ、危ないところだった。彼女のおかげでなんとか無事に目的地に着くことができた。それにしても、プロバンス鉄道のなんと不親切なことか。せめて路線図を車内に掲示するくらいのことはしたまえ。って言うか、ちゃんと時刻表通りに運行しなさい。


アントルヴォーは中世の要塞都市で、岩山の頂上に当時の名残である砦が建っている。汗をかきながら頂上まで登ると、すでに廃墟となった刑務所跡が自分たちを出迎えた。

素敵だ、あまりにも素敵すぎる。自分はこういった刑務所跡だの刑場跡だのといったスポットが大好きなのだ。昨日までのいかにもな観光スポットと違い、日本人が自分たち以外にいないのがまた素敵だ。旅行六日目にして、ようやくフランスっぽいフランスを楽しむことができた気がする。

頂上の景色やら、途中で出会った人のことなど、書きたいことはいっぱいあるのだが、とにかくこの日はイベントが盛りだくさんなので、いちいち書いていたら終わらない。ってことで、すべて端折って先を急ぐことにしよう。


頂上から降りてくると、ちょうど12時を回ったくらいで、心地よくお腹が空いてきた。ちょっとした広場に建つ、気持ちのよさそうなオープンカフェといった風情のレストランに入ることにする。地元の人で賑わっている店内の様子が、味への期待を高める。

早速メニューを開くが、これがフランス語オンリーでまったくわけがわからない。こういう場合、飲み物と前菜とメインを注文するのが基本である。飲み物と前菜は、多少ハズレのメニューが出てきても、さほどボリュームはないからとりあえずなんとかなる。問題はメインだ。これをはずすと痛い。メインだけは慎重に選ばなければいけない。

店の人がちょうど隣を通ったので、メニューについて訊こうと思い、呼び止めてみる。いかにもフランスの田舎のおばさんといった風情のふくよかな女子だ。

「あー、イングリッシュ オーケー?」
「ノン」

なんと、ゼロコンマ5秒で撃沈だ。有無を言わせず「ノン」ときた。これではオーダーできないじゃないか。しかし、こちらはフランス語なんぞこれっぽっちも知らない。「ノン」と言われても、片言の英語で質問する以外、コミュニケーションの手段はないのだ。

気を取り直して、メニューに書かれているメインのお品書きを指差しながら訊いてみた。

「あー、フィッシュ オア ミート?」
「ノン」

これまたゼロコンマ5秒で撃沈である。

フィッシュもミートも通じないとは、一体どういうことなのか。もしかしたら嫌がらせなのかと一瞬思ったが、どうやら純粋に理解できないらしい。隣のテーブルに座る老夫婦がなにやら一生懸命に自分たちに話しかけてくるのだが、これがさっぱり理解できない。どうやら通訳を買って出ようということらしいが、フランス語しか話せないのに通訳できるはずがない。とりあえずその気持ちだけありがたく頂いて、えいままよ、とばかりに適当にメインディッシュを注文した。

ほどなく出された前菜を見て、自分と相方は思わず絶句した。

「これって、めちゃめちゃ量が多くないか?」
「ちょっと凄いね。こんなの、絶対に食べきれないよ」

二人で一皿でも食べ切れるかどうかといった、まさに超大盛のサラダに挑む。しかし、周りの地元民は、例外なくこのヘビーなランチを平気な顔で食べているのである。隣に座った老夫婦だって、平気な表情でメインディッシュを平らげて、デザートまで食べようとしているのである。フランス人の食欲には本当に感心する。


ボリューム満点の前菜に悪戦苦闘していると、無情にもメインが運ばれてきた。もちろんそれは、前菜など比べ物にならないくらいにボリューム満点×2だった。

「うそ、もう食べられないよ」
「ちょっと凄すぎだね。余裕で二人前以上あるよね」

申し訳程度にメイン料理に箸をつけて、じゃなくてナイフとフォークをつけて、後は完全にギブアップした。こんなもの、食えるわけがない。あんたら、おかしい。どうしたらこんなにボリュームのある料理をペロッと平らげることができるのだ。


パンパンに膨らんだ腹をさすりながら、かすかに尿意を催した。

トイレはどこだろうと辺りを見回すが、それらしい場所は見つからない。店の人に訊こうと思い手を上げるが、英語がまったく通じないことを思い出して、思わず上げた手を下げる。うーん、フランス語が話せないとはなんと不自由なことか。トイレにさえ行けないではないか。

そんな自分を見かねて、彼女がバックからガイドブックを取り出して開いた。

「ここに簡単なフランス語の会話例が載ってるよ」

なるほど、確かにいくつかの表現が書いてある。

「はじめまして」は「アンシャンテ」、「ご機嫌いかがですか?」は「コマンタレブ」、「調子はどう?」は「サヴァ?」などの表現が並んでいる。その下に自分が求めている表現があった。

「トイレはどこですか?」は「ウ プ トン アシュテ アン ビエ?」と言うらしい。

早速ガイドブックを片手に練習を始めた。
何回もそのフレーズを小声で口に出して、ガイドブックを見なくても喋れるくらいになったところで、自信満々に手を上げた。さっきオーダーを頼んだ、ふくよかなおばさんの娘と思われる若い女子が自分たちの座るテーブルにきた。

「えーっと、ウ プ トン アシュテ アン ビエ?」

自分がそう尋ねると、一瞬眉根にしわを寄せた若い女子は、あらぬ方向を指差して、なにやら早口でフランス語をまくしたてた。

女子が指差した方角には、今朝降りた駅が遠くに見えるだけで、トイレらしい建物はどこにも見当たらない。自分のフランス語がうまく伝わらなかったらしい。もう一度「ウ プ トン アシュテ アン ビエ?」と繰り返してみるが、やはり反応は同じだ。うーん、どうやらフランスの片田舎ともなると、トイレさえ近くにはないらしい。

そんなやり取りを見ていた彼女が、ちょっとそのガイドブックを貸して、と言って、自分の手元からガイドブックを取り上げた。

しばらくガイドブックに視線を落としていた彼女は、笑いながら顔を上げた。

「今の、間違ってるよ。ほら、君が見てたのは、一行ずれてるよ」

そう言われてよく見てみると、たしかに一行ずれている。
「ウ プ トン アシュテ アン ビエ?」というのは、「どこで切符が買えますか?」という意味であり、その一行上に書かれている「ウ ソン レ トワレット?」というのが、「トイレはどこですか?」という表現なのだ。

おお、ジーザス!

そりゃあ、「どこで切符が買えますか?」なんて尋ねたら、駅の方角を指差すしかないだろう。って言うか、レストランでどこで切符が買えるかなんて訊くなよ、自分。

改めて「トワレット?」と尋ねると、若い女子は笑顔で店の奥を指差した。

ああ、恥ずかしい。きっと、この日の夕食の話題は、おかしな日本人観光客の話題で持ちきりだったことだろう。

「ねえ、聞いてよ、パパ」
「なんだい、フランソワ」
「今日のお昼に日本人のカップルが来たんだけど、男子がいきなり”どこで切符が買えますか?”なんて訊くのよ」
「ははは、そいつはおかしいね、フランソワ」
「でね、その後に慌てて”トイレはどこですか?”なんて訊き直すのよ。もうおかしくて、腹の皮がよじれちゃったわ」
「まったくそれはおかしいね、フランソワ、ははは。パパもおかしくて腹の皮がよじれそうだよ、ははは」


立ち直れないくらいのダメージを受けた自分は、とぼとぼと駅までの道を歩いた。

しかし隣を歩く相方は、何がおかしいのか、終始笑ったままだった。どうやら「どこで切符が買えますか?」がだいぶ気に入ったらしい。一昨日の「チップ渡しそこね事件」に続いて、またもや一生笑われそうなネタを提供してしまったようだ。なんたる悲劇か。

しかし、悲劇はこれだけでは終わらなかった。フランス六日目にして、それまで大人しくしていたおフランスが、ついにその牙をむいたのである。


ってことで、「おフランスを行くざんす〜六日目(後半)」へと続く。



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