6月9日 天候:まずまず快晴



コート・ダジュール二日目の朝も、お約束通りの快晴だ。こうも快晴が続くと、ちょっとばかり有難みが薄れる気がするのは贅沢ってものか。

しかし、そんな贅沢な気分をいきなり打ち砕く事件が発生した。

シャワーを浴びようと、バスルームに入る自分に彼女が声をかけた。
「ドライヤー、壊れてるみたいだよ」

昨日の夜シャワーを浴びた彼女がドライヤーを使おうとしたところ、ウンともスンとも言わなかったらしい。まさか、と思いながらドライヤーのスイッチを入れたのだが、やはり動かない。

これではシャワーを浴びることはできない。急いでフロントに行き、ドライヤーが故障していることを告げる。

フロントにいた若い男子は、オッケーオッケーと適当に言いながら、フロントの奥に一旦引っ込んで、ドライヤーを手にして現れた。フンフンフン♪と、なにやら怪しい鼻歌を歌いながら、何種類かのアダプターをドライヤーに取り付けて動作を確認している。しかし、結局一度も「ブーン」というドライヤーの動作音を響かせることはできないまま、「ごめんね、ドライヤーのスペアは今ないから、隣の部屋のドライヤーを試してみてよ」と陽気な表情で105号室の鍵を渡された。この間、ずっと鼻歌を歌いっぱなしだ。

おいおい、こっちは必死にドライヤーの故障を訴えているんだぞ。なのに、なぜお前はそんなに陽気に鼻歌なんぞ歌えるのだ。ちょっとは反省した表情を見せたらどうだ。って言うか、ドライヤーが使えないと知った時点で、まずは謝れ。ひたすらに謝れ。ホテルマンならばそれが筋ってもんだ。

心の中ではそう思ったが、なぜかその陽気な表情を見せられると、不思議と文句は言えなかった。これがコート・ダジュールマジックなのかも知れない。自分みたいに気難しい人間の心をも溶かしてしまう、不思議な力がここコート・ダジュールにはあるのかも知れない。

いや、そんなマジックなどあるはずがない。そもそも、ホテルにおいてドライヤーは必須のアイテムだ。もっと自分に英会話力があれば、こんなにおとなしく引き下がることはなかっただろう。つくづく自分の貧弱な英会話力が悲しい。


朝飯を食べて鍵をフロントに預ける際に、帰ってくるまでにちゃんとドライヤーを直しておいてね、と念押しして本日の観光へと出かける。


ガイドの「パッツン女史」に連れられた高台の展望台で、まずは記念撮影タイムである。

とにかく、このパッツン女史の仕切りが凄い。綿パンから浮き上がった下着のラインが激しく自己主張をするさまは、まさに「パッツンパッツン」である。「はい、ではここで10分間の写真撮影の時間を取ります。シャッターを押して欲しい方は、私にカメラを渡してください」
有無を言わせぬパッツンぶりで、有無を言わせず写真タイムとなった。

(シャッターを押して)「はい、次の方」
(シャッターを押して)「はい、次の方」
(シャッターを押して)「はい、次の方」
(カメラをバッグから慌てて取り出しているメンバーに向かって)「はーい、急いでくださーい、急がないと次のツアーが到着してしまいますよー」

うーん、一体何と言えばいいのか。パッツン女史としては、粛々とスケジュールをこなすことが最優先なのだろうが、こちらとしてはせわしないことこの上ない。って言うか、わざわざフランスまで高い金を払って来ているのに、なぜこんなに貧乏臭い思いをしなければならないのか。こんなことをどこの国でもやっているから、日本人はその経済力にも関わらず、いまだに諸外国からバカにされるのだ。自分だって貧乏臭いツアーメンバーの一員なんだから偉そうなことは言えないが、やっぱりこういうことは恥ずかしい。できれば他人のフリをしたいというのが、正直な気持ちだ。


次に立ち寄ったのは、ニースの旧市街に屋台が軒を連ねる朝市だ。
市場に並んだ野菜たちは、日本の野菜と違って、とにかく色が鮮やかである。トマトやチェリーは見事に赤いし、ピーマンやネギも絵に描いたような鮮やかな緑色をしている。抜けるような青空のもと、まさに絶妙のコントラストを描き出している。まったく絵心のない自分ですら、この素晴らしい風景を絵に収めたいと思ってしまう。フランスが高名な画家を数多く輩出しているという事実も、まさに必然だと思えてしまうくらいの素晴らしい色彩のコントラストだ。


美しい景色と美味いワインと色鮮やかな食材に恵まれたフランスは、やはり日本にはない豊かさがある。こんな条件が揃っていれば、フランス人がみんな太るのもまた必然だ。とにかく道行く人たちが例外なく太っているのだ。そりゃそうだろう、美味いものを食べて美味いワインを飲んで、時間をかけて食事を摂れば、太らない方がおかしい。


異様に肥満率の高いフランス人を眺めながら、フランスに到着してからずっと感じていたことを彼女に話してみた。

「あのさ、前から言おう言おうと思ってたんだけど、フランスの女子って異様にノーブラ率が高いよね」
「はあ? 一体どこを見て歩いてるのよ」
「いや、フランスの青空にノーブラはよく映えるなあ、と思ってさ」
「そんなこといいから、ちゃんと前を見て歩きなさいよ」
「だから、ちゃんと前を見て歩いてるからこそ気づいた事実であってさ、これは純粋にフランスの気候と民族性とに深く根ざした、言わば学術的にも興味深いテーマだと思うんだよね、”南仏の気候と食事が及ぼす女子のノーブラ率”みたいな感じでさ」
「一体、いつから人類学者になったのよ。つまんないこと言ってないで、ちゃんと前を見て歩きなさい」
「はい、ごめんなさい」


このエッセイをここまで読んでくれているあなたにはもうお分かりだろう。そう、自分は彼女には口ではかなわない。いや、おそらくほとんどの分野に関してかなわない。わずかに自分が勝っている分野があるとすれば、それは「いい加減さ」だろう。自慢じゃないが、いい加減さならば誰にも負けない自信がある。「日本全国いい加減人間選手権」なんて企画があったら、おそらく準決勝くらいには進出できるくらいにいい加減な人間である。このいい加減さにこそ彼女は惚れたのだと、自分勝手に勘違いするくらいにいい加減な人間なのだ。


ってことで、いい加減な感じでバスに乗り込んだ。
バスが着いた先は、どこぞのバラ園である。まあ、大したことはない。自分が以前に住んでいた津田沼近辺の谷津バラ園と大差ない。いい加減に見学して、いい加減に「楽しい会食」会場へと向かう。


とは言え、いくらいい加減な自分でも、この「楽しい会食」にはもううんざりだ。いい加減にしてもらいたい。

しかし、このランチがツアーメンバー同志の最後の会食なのだ。この苦行さえ乗り切れば、後は自分の好きなところで好きなものが食べられるのだ。ここはひとつ、グッと我慢しよう。


自分たちの隣に座ったのは、最高齢姉妹ペアだ。妹の方が足が悪いらしく、いつもツアーメンバーの最後尾を歩いているペアである。

自分はもう世間話をする気力もない。もちろん、肉体的に疲れているわけではない。あまりにもくだらない、うわべを取り繕う会話に、精神的にほとほと疲れたのだ。とは言え、同じツアーメンバーとして、やはり何か会話をしないわけにはいかない。本当にツアーってやつは面倒だ。しかし、こういう会話に関しては、彼女が如才なくやってくれるので本当に助かる。

どちらから来られたんですか? とか、足は大丈夫ですか? などと訊いて適当に相手の話を引き出しながら、姉妹で旅行に来られるなんて素敵ですね、とか、旅行経験が豊富で羨ましいです、などと相手の自尊心をくすぐることも忘れずに、如才なく話を終結に持っていく会話術は見事だ。自分も見習いたい。

これが自分だったら、「足が悪いんだったら、こんなツアーに参加したらマズイんじゃないですか」とか、「姉妹で旅行なんか来て、家族は何も言わないんですか? 結構お金かかるでしょうに」とか、「そんなにガシガシ食べたら太りますよ、足にも悪いんじゃないですか?」とか、いきなり紛争の火種を作る会話しかできないだろう。そんな自分の過激な部分をうまく中和する意味で、本当に頼りになる相方だ。面と向かってはなかなか言えないが、実はかなり感謝しているのだ。サンキュー、相方。


ランチを終えると、本当に解放された気分になった。

もうこれで「楽しい会食」に参加する必要はないのだ。今夜からは彼女と二人で、「好きなものを、好きなときに、好きな場所で、好きなだけ」食べることができるのだ。普段の生活ではごく当たり前のことが、ツアーにおいてはとびきり贅沢な行為になる。なんともおかしな話だ。


午後最初の観光ポイントは、シャガール美術館である。

いくら芸術の国おフランスとは言え、もう芸術鑑賞はうんざりだ。ゴッホに始まり、セザンヌ、ピカソ、そしてシャガールである。好きな人にはたまらないかもしれないが、嫌いな人にもたまらない。色んな意味でたまらないツアーだ。


シャガール美術館を後にしたバスは、一路モナコへと向かう。

F1グランプリで有名なモナコは、面積約2km四方(日本の皇居のおよそ2倍らしい)、人口約3万人という、何ともミニミニな国だ。皇居の2倍の広さって、果たして国と呼べるのだろうか。アメリカやロシアやカナダといった広い国土を有する国ならば、個人でこのくらいの敷地を持っている人間なんて、吐いて捨てるほどいるだろう。いや、吐いて捨てたらまずいな。掃いて捨てるほどか。とにかく、こんなにミニチュアな領土が国家として成り立っていることに新鮮な驚きを感じる。


モナコの後はバスに揺られてエズ村へと向かう。

切り立った崖の上に広がる村は「鷹の巣村」と呼ばれ、コート・ダジュールではこういった「鷹の巣村」は数多くあるらしい。戦略的な思惑で崖の上に建てられた中世の城を囲むように作られた村ということで、つまりは日本で言うところの城下町か。昔ならばともかく、今となっては暮らしにくくて仕方ないだろう。村の中には車が通れるような広い道路などないから、大きな冷蔵庫なんて買った日には一体どうやって運び込むのか、思わず余計な心配をしてしまう。


エズ村のすぐ下に建つ香水工場が、本日最後の観光ポイントである。

パッツン女史の案内で工場内を見学するが、こんなもの面白いわけがない。女子メンバーは一様に目を輝かせているが、男子メンバーにとってはつまらないことこの上なしである。好感度ナンバーワンの若い男子が自分のところに寄ってきて、「いやあ、我々には関係のない場所ですよねえ」と苦笑しながら声をかける。まったくだね、と返事をしながらあたりを見回すと、やはり所在なさそうに立っているもう一人の男子メンバーである将棋名人の米長主人の姿が目に入る。さすがに「王手飛車取り」とはいかないらしく、手持ち無沙汰な様子だ。いやあ、お互い苦労しますねえ。


一通り説明を終えたパッツン女史は、「それではこれから20分時間を取りますので、自由に買い物をなさってください」と言って、いきなり工場のスタッフと並んで、商品の説明を始めた。

その説明を聞いて、一気に商品に群がる女子メンバーたち。こういう場所での女子は、なんともたくましい。自分たち男子メンバーは、そのたくましさをただただ無言で見守るばかりだ。

それにしても、パッツン女史の見事な売り込みには感心する。まさに立て板に水といった商品説明や、時間を20分と限定して軽いあせりを煽るところなんかは、相当に巧みである。自分の勝手な推測だが、パッツン女史は工場からいくらかリベートをもらっているのではないかと思う。ツアーメンバーが買った金額の何パーセントかが、パッツン女史の懐に入るのではないか。そうでなければ、なぜこんなにも真剣にセールストークを展開するのかがわからない。

なるほど、どうりでパッツンパッツンなわけだ。
ツアーガイドで稼ぎ、さらには香水のリベートで稼いだ金でさぞかし美味いものを食べているんだろう。今ここで買った香水がパッツン女史の下っ腹の肉をさらに膨張させ、はちきれんばかりのパッツンぶりにさらに磨きがかかるわけだ。

お願いですから、それ以上のパッツンぶりは勘弁してください。純真な自分にはまぶしすぎます。


香水工場を後にして、この日の観光は終わりだ。

ようやく終わった。集団行動が大嫌いな自分が、なんとかトラブルを起こさずにスケジュールを消化することができたのだ。これはちょっとした奇跡だ。もう「楽しい会食」もしなくていいし、ゾロゾロとガイドについて歩かなくていいのだ。今日の夕食は好きなものを好きなときに好きなだけ食べられるし、明日は一日自由行動だ。よく頑張ったぞ、自分。やればできるじゃないか、自分。


ホテルに帰って着替える自分の心は軽かった。春風に吹かれてふわふわと飛ぶタンポポよりも軽かった。

部屋を出る前に、バスルームのドライヤーをチェックする。今朝ホテルを出るときに修理を頼んでいたのだが、実は思い切り不安だった。フランス人のいい加減さは、この短い旅行の間でさえ、嫌というほど感じていたのだ。しかしスイッチを入れると、「ブーン」という頼もしい音をたててドライヤーが息を吹き返した。おお、ちゃんと動くじゃないか。やればできるじゃないか、おフランス。


ドライヤーも直ったし、集団行動からも解放されたしで、とにかくハッピーだ。


彼女と二人で、海岸に面したちょっと雰囲気の良さそうなレストランに入る。ゆっくりと暮れて行く海岸線を見ながら飲む冷えた白ワインがなんとも美味い。海から吹き上がってくる風が、額に浮かんだ汗を軽くなでて行くのも気持ちがいい。

「いやあ、美味いね。って言うか、気持ちいいね」
「そうだね。こういう景色を見ながらの食事は、本当に美味しく感じるね。すごく贅沢って言うか、優雅って感じだね」
「それにさ、今日で集団行動が終わったっていう解放感もたまらないよね」
「お疲れさまでした。明日は一日自由に使えるから、思い切り楽しもうね」
「うん、そうしよう。さあ、おフランスに乾杯だ!」


そう言って高く上げたワイングラスの向こうに花火が上がった。


「うそ、タイミング良過ぎじゃない?」

空中でグラスを止めたまま、次々に打ち上げられる花火に目を奪われた。すっかり暮れた濃い藍色の空に開く花火は、文字にできないくらいの美しさだ。

「きっと、自分たちのために打ち上げてくれてるんだよ」
そう言って笑った彼女の顔を、花火が照らした。

「そうだね、そういうことにしておくか」

グラスのワインを一気に飲み干した自分は、新しくワインをグラスに注いで言った。

「それじゃ、改めておフランスに乾杯!」


それにあわせるように、また大きな花火が打ち上げられた。


素敵な夜をありがとう、おフランス。



すっかり気持ちよく酔った自分は、翌日に思いがけない試練が待ち受けていることなど、知る由もなかった。



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