6月8日 天候:大体において快晴



朝起きて窓の外を覗くと、今日もまた快晴。日本を発ってからこれまでずっと快晴続きだ。本当に気持ちがいい。

今日は2泊したアビニヨンのホテルを引き払って、ニースのホテルへと移動する日だ。シャワーを浴びてスーツケースの荷物をまとめて廊下に出し、毎度おなじみの堅いパンの朝食を食べてロビーに集合する。

この日はいきなりバスでアビニヨンからカンヌへの長距離移動である。自分としてはこのロングドライブは大歓迎だ。たとえほんの少しでも車内で眠ることができれば、それだけ旅の疲れが取れる。

旅行も四日目となると、いい加減に疲れがたまってくる頃だ。車内ではあちらこちらでこっくりこっくりと舟を漕ぐ様子がうかがえる。隣に座る相方も目をしばたたいて、なんだか眠そうな様子だ。それにつられて自分も眠りに引き込まれそうになる。しかしその瞬間、藤堂女史の甲高い声が平和な車内の空気を切り裂いた。

「はい、これからカンヌに向かうわけですが、皆さんもご存知の通り、このあたり一帯はコート・ダジュールと呼ばれる地域でありまして、この時期は一年で一番観光客で賑わう時期でありまして」

なんて感じで、バスガイドさんよろしく、マイクを使って頼んでもいない説明を始めやがった。普通のバスガイドさんの説明ならば、心地よく眠りに落ちることもできるのだろうが、藤堂女史はとにかく声が高い。キンキンと響く感じで、寝ようと思っても寝られるもんじゃない。

まったく、この車内の空気が読めないのか、あんたは。誰もあんたのトドっぽい観光案内なんて聞きたくないんだよ。頼むから静かに眠らせてくれ。

少し沈黙ができたところを見計らって、この隙に寝ようと思って目を閉じると、また甲高い声でつまらない説明を始めるトド。しばらく我慢してトドっぽい説明を聞き流しながら、わずかな沈黙を逃さず目を閉じると、また容赦なく襲ってくるトド節。わかったよ、あんたがおフランスに詳しいことは充分にわかった。わかったから、頼むから静かに眠らせてくれ。

そう心の中で願っても、一向にトド節は衰える気配を見せない。「もういい加減にしてくれよ。頼むから静かに眠らせてくれ」と何度トドに直訴しようと思ったかわからない。これが旅行最終日で、隣に彼女がいなかったら、間違いなく自分はトドに直訴しに行ったと思う。平和主義者の相方でさえ、「本当にうるさいよね。静かにしてほしいよ、まったく」と愚痴をこぼしていたくらいなのだ。忙しく観光ポイントを連れまわし、甲高い声でツアーメンバーの安眠を妨害するのが添乗員の仕事ではないんだぞ、藤堂女史。


少しでも疲れを取ろうと乗り込んだバスから降りたときには、乗り込んだときよりもさらにぐったりと疲れていた。まったく、藤堂女史め、放課後に体育館の裏に呼び出しだ。


しかし、3時間近くバスに揺られて降り立ったカンヌの景色は、その疲れを忘れさせるくらいに絶景だった。
おだやかな波に静かに揺れるヨットやクルーザーがひしめきあう景色は、見事に晴れた青空のもとで、何とも言えないくらいに美しい。初日にマルセイユの港をバスの窓から垣間見たときにも、きれいな景色だなあ、と思ったが、あのときは時差ボケも手伝ってとにかく疲れていた。美しい景色を楽しむ余裕などなかった。

しかし、今目の前にしている景色は本当に美しい。藤堂女史の嫌がらせとも思えるガイドも吹き飛ぶくらいに美しい景色だ。

「これって、船橋の船だまりの景色に似てるよね」
そう自分が言うと、彼女は笑いながら答えた。
「もう、あんなに貧乏臭い景色と一緒にしないでよ。せっかくフランスに来たんだから、日本のことなんて忘れて楽しまなきゃ損だよ」

あいたた、また注意されてしまった。そうなんだな、自分のいけないところは、すべて自分の尺度で物事を見てしまうところなのだ。船橋の船だまりをカンヌの風景になぞらえるのはまだ序の口で、吉野家の牛丼と今半のすき焼きを同列に比較してみたり、赤玉パンチとおフランスの高級赤ワインとを同列に論じたりする人間なのだ。それはいくらなんでもフランスワインに対して失礼ってもんだ。


しばし写真などを撮りつつ散策をした後は、恒例の「楽しい会食」の時間である。


今回自分たちの正面に座ったのは、上品な感じのする母娘ペアだ。母親の着こなしは明らかに「小金持ち」といった風情だ。母親は推定63歳、娘は推定35歳といったところか。他のおばさんたちはツアー中もかしましくつるんでいるのだが、この婦人だけはそういった連中とは明らかに距離を置いて行動している。ついでに言うと、自分の娘とも微妙に距離を置いて行動している。なんだかよくわからない母娘だ。

すっかり白ワインのとりこになった自分は、ハーフボトルの中身をグラスに注ぎながら上品母娘と歓談した。いや、正確に言うと、彼女が母娘と和やかに会話をする横で、自分は婦人からお愛想程度に訊かれた質問に適当に返事をしているだけのことである。こういったご近所付き合いに関しては、彼女が如才なくこなしてくれるので本当に助かる。二人そろって他人と交わらないというのは、やはりこういうツアーにおいては避けるべきだろう。その点、こういう表面だけの会話もそつなくこなしてくれる彼女は本当に偉い。30ユーロを進呈する。

「で、ご主人はどういう仕事をなさっているのかしら? お見受けしたところ、普通のサラリーマンには見えませんけど。もしかして、アート関係のお仕事かしら?」

そう婦人に訊かれた自分は、さて何と答えようかと考えた。相手の勝手な思い込みに乗っかって、ええ、実は売れない画家なんです、とか、売れない陶芸家なんです、なんて答えようかと考えていると、隣にいた彼女が、「いえ、普通のサラリーマンなんです。周りからはよく”サラリーマンぽくない”って言われるんですけど、正真正銘、貧乏サラリーマンなんです」と勝手に答えてしまった。


こらこら、どうして本当のことを答えるのだ。相手に誤解されたままの方が楽しいじゃないか。どうせこの先二度と会うことのない人間なんだから、思い切り誤解してくれた方が面白いのに。


とりあえず相手のことを持ち上げておこうと思い、「最初から思ってたんですけど、すごく上品な感じですよね。彼女と二人で、きっとあの人はかなり”できる”人なんだよ、って噂してたんですよ」と振ってみた。婦人はまんざらでもなさそうな笑みを浮かべながら、そんなことありませんよ、と一応は答えたが、それ以降舌が滑らかになり、千葉の白浜に別荘を持っているとか、毎年必ずヨーロッパに旅行に出かけるとか、旦那が重役だとか、後は忘れたが、とにかく自慢モードに突入した。

こうなるともう自分はついていけないので、後は彼女に任せることにする。そう、自分は振るだけ振っておいて、苦手な展開になるとあとはさっさと相方に後処理をお願いしてしまう、何ともクレバーな人間なのだ。


隣のテーブルでは、P子ちゃんペアと鎌倉婦人ペアの最強おばさん軍団が、若い男子のウエイターを相手になにやら嬌声をあげている。聞くともなしに聞いていると、どうやらウエイターが片言の日本語で「ドウモ アリガトウ」と言ったのに対して、「あらあ、日本語上手ねえ」と感心している様子だ。

あんたら、バカじゃないか。「どうもありがとう」なんて誰でも言える。あんたらだって、「サンキュー」だの「メルシー」だのと連発してるじゃないか。その度に相手から「あらあ、英語上手ねえ」とか「あらあ、フランス語上手ねえ」なんて言われたらどうかね。バカにされていると感じるのが普通だろう。つまりは、「あらあ、日本語上手ねえ」という言葉は、相手をほめているつもりでいながら、その実思い切りバカにした言葉なのだ。それくらい気づかないとは、なんたるバカか。あんたら、一体何年人間やってるんだ。まったく、なぜこんなバカと一緒に行動しなければならんのか。


ランチの後は、新しいガイドさんに連れられてピカソ美術館を見学する。

新しいガイドさんは、年齢40代半ばといった感じの、ちょっと迫力を感じさせる女子である。綿パンを穿いた下っ腹は微妙にせり出していて、お尻にはくっきりと下着のラインが浮かび上がっている。まさに「パッツンパッツン」である。これからは「パッツン女史」と呼ぶことにしよう。

パッツン女史は、とにかくマイペースである。自分の仕事だけはきっちりとこなしますよとばかりに、ピカソ美術館を光速スピードで案内した後、それではご自由に見学なさってください、と言ってパッツンパッツンな下着のラインを浮かべたまま立ち去った。

いや、自由に見学しろと言われても困る。
ゴッホにしろセザンヌにしろピカソにしろ、有名な画家だということだけは知っているが、一体何がどう凄いのかがさっぱりわからない。って言うか、ピカソの絵なんて思い切りヘタクソじゃん。あんなの、自分にだって描ける。適当にゆがんだ顔を書いて、適当に奇抜な色使いをすればいいだけのことだろ? こんな絵を有難がっている人間のセンスを自分は疑う。

大体、芸術なんてなくても人間は生きて行けるのだ。しかし、米やパンがなかったら人間は生きていけない。自分に言わせれば、芸術家よりも農家の方がずっと偉い。なぜならば、絵は食えないが、米は食えるからだ。つまり、子供の落書きみたいな絵を描くピカソよりも、美味い米を作る専業農家を実家に持つ永橋新吾の方がずっと偉いってことだ。どうだ、まいったか。

なんてことは口が裂けても言えない。さすがはピカソ画伯、素晴らしい絵をお描きになる。いやあ、心が洗われる気がします。あんた、最高だよ。ビバ、ゲルニカ!


ピカソの崇高な絵に心を奪われてしまい、この後どこを観光したのか、よく覚えていない。たしかどこかの街で買い物をした記憶があるのだが、自分は買い物なんざ大嫌いだ。ってことで、一気にニースのホテルに飛ぶこととしよう。

自分たちの泊まるホテルがあるニースは、南仏きっての観光地で、眼前に広がる海がなんとも言えずに美しい。"Nice" と書いて"ニース"と読む、まさにナイスな観光地である。


ホテルの部屋に入って一息つくと、ドアをノックする音が聞こえた。
「きっと、スーツケースを運んできてくれたんだよ。鍵を開けてあげて」

彼女の言葉に従ってドアを開けると、満面に笑みをたたえた男前のフランス男子が立っていた。不自然なくらいに爽やかな笑顔につられて、自分も小声で「メルシー」と言ってスーツケースを受け取り、部屋に入れる。

顔を上げると、その男子は相変わらず直立不動の姿勢のまま、不自然なくらいに爽やかな笑顔を浮かべている。いや、もう行っていいんだよ、と思ったが、あまりにも爽やかな笑顔なので、思わずしっかりと視線を合わせて「メルシー」ともう一度笑顔でお礼を言った。この瞬間、男前のフランス男子とたしかに心が通じ合ったことを感じた。やはり笑顔は万国共通の言葉なのだ。

早速このことを彼女に報告する。

「やったよ、男前のフランス男子にきっちりと”メルシー”ってお礼を言ったよ。しかも笑顔でさ。いつもは仏頂面の自分が笑顔で”メルシー”なんて言ったんだからすごいよね。俺って成長したよね」
そう興奮気味に話す自分に、彼女は笑いながら答えた。

「もう、何を喜んでるのよ。きっとあの男子はチップを待ってたんだよ。だからあんなに爽やかな笑顔で立ってたんだよ。まったく、君はおめでたい人間だね」

しまった、そうだったのか! あの笑顔はチップを受け取るための偽善の笑顔だったのか。またまた恥をかいてしまった。それにしても相方よ、知っていたのなら教えてくれてもいいじゃないか。ちょっと笑いすぎだぞ。涙を浮かべるほど笑わなくてもいいじゃないか。

このホテルにはこの日を含めて三泊したので、この男前の男子にはこれから何度となくホテル内で顔を合わせることになるのだが、その度に自分は、「あのときのチップをあげなくていいのかな?」と小声で彼女に相談しては、「あのね、チップってものは何かをしてもらったときにあげればいいの。何もしてもらってないのにチップをあげたりしたらおかしいでしょ」とたしなめられた。

うーん、自分には難しすぎる、チップってやつは。なぜに金をあげる方が頭を悩ませなければいかんのだ。どこか間違ってないか、チップというシステムは。


夕食は、ツアーメンバー揃ってホテルのレストランでの会食である。ドレスアップしてくるように、というトド女史のお達しがあったので、長袖Tシャツを襟付きのシャツに着替え、ジーンズをチノパンに履き替える。しかし、自分にはかすかな不安があった。いや、自分のことではなく、若い新婚カップルの男子のことだ。この間の会食のときに、「やっぱり白いご飯と納豆と熱い味噌汁が一番だよね」と共鳴しあって以来、他人とは思えないのだ。

「あの若い男子ってさ、いつもヨレヨレのシャツとジーンズにスニーカーを履いてるけど、ちゃんとドレスアップするだけの服を持ってきてるかなあ?」
「きっと大丈夫だよ。そういうことは、女子の方が気を使って、ちゃんと用意してるもんだよ」
「そうかなあ、ちょっと心配だなあ」
「そんなこと心配してるヒマがあったら、自分のことを心配しなさいよ。大体あなただって、旅行に行く前は”俺は今のジーンズにTシャツだけで充分だから”なんて言ってたじゃないの。それじゃいくらなんでもダメだよって私が言ったから、そのシャツとチノパンを買ったんでしょ。じゃなかったら、今ごろ困っているのは自分なんだからね」

うーん、たしかにその通り。一言も言い返せない自分が情けない。いや、よく考えると、彼女の言葉にはひとつだけ間違いがある。いつもいつも言われっぱなしでは、やはり面白くない。ここはビシッと反論してやる。

「いや、違うよ。チノパンは自分で買ったけど、このシャツは君からプレゼントされたものだよ」

しまった、さらに自分の立場を悪くしてしまった。「成田離婚」の文字が頭をかすめる。やばいぞ、自分。


オープンテラスのレストランの席につくと、心配していた若い男子がちゃんと着替えていたので安心する。シャツの背中から透けて見えるイラスト入りのTシャツはご愛嬌か。

眼前に鮮やかな青をたたえた海を眺めながらの食事は、とにかく気持ちがいい。よく冷えた白ワインが三割増しで美味く感じる。しかし、同席するおばさん軍団のおかげで、その美しい景色も五割減である。差し引き二割減だ。美しい景色と美味いワインも、かしましいおばさん軍団の前では形無しだ。


ようやく楽しい会食を終えた自分と相方は、解放された気分で、徐々に暮れ行く海岸線に置かれたベンチに座った。

ゆっくりと暮れていく海を眺めながら、とりとめのない話をする。

トドのガイドはうるさくて最悪だったね、とか、ピカソの絵はさっぱりわからなかったね、とか、夕食に飲んだワインは美味しかったね、とか、何とも他愛のない会話なのだが、それがいちいちラブラブに感じてしまうのである。なるほど、これがコート・ダジュールマジックってやつか。すっかりやられちまったぜ。


「でもさ、今日のは笑えたよね」
青から藍に変わりゆく海に視線を据えたまま、彼女が言った。

「何が?」

「チップのことよ。”俺って成長したよね”なんて真顔で言っちゃって、本当に笑ったよ」

しまった、あのチップのことには触れないでくれ。って言うか、今思い切り良い雰囲気なのに、わざわざその話題を持ち出さなくてもいいじゃないか。素人の自分をいじめなくてもいいじゃないか、相方よ。


腹を抱えて笑う相方に、これから一生ネタにされそうな予感を抱きながら、おフランス四日目の夜は更けていった。




TOP