6月7日 天候:おおむね快晴



朝起きると、昨日と同様空はきれいに晴れている。昨日の夜はようやくぐっすりと眠ることができ、久しぶりに頭がすっきりとした感じだ。

昨日と同じく堅いパンの朝食を摂った後、ホテル横の駐車場に集合し、まずは最初の見学地である「法王庁」へと徒歩で向かう。

14世紀当時の権力の象徴であった法王庁の建物は、とにかく壮大である。ひとつひとつの部屋が無駄に広い。天井も高いので、一層広く感じる。一生懸命説明するガイドさんの話を聞こうと、イヤホンを装着していない自分はガイドさんの真ん前に陣取るが、あまりよく理解できない。ガイドさんの説明が悪いということではなく、自分の世界史の知識が思い切り欠落していることに原因があるのだろう。こういう歴史的価値のある建物を見学するときには、事前に最低限の知識を学んでおくことは必須である。ガイドさんの説明に首をひねりながらそう痛感した。


法王庁を出てバスに乗り込み、30分くらい経って降りたのは、街の真ん中を運河が走る美しい街だった。このエッセイを書きながら手元にあるガイドブックを調べると、どうやら「リル・シュル・ラ・ソルグ」という街らしい。どうでもいいことだが、どうしてフランスって、こうも舌を噛みそうな地名に溢れているのだろう。自分がフランスに住むことになったら、きっと一週間もしないうちに舌がズタズタになるに違いない。いっそのこと舌を噛み切って死なせてください。

その地名はともかく、運河の流れの美しさにはちょっとだけ感動した。思い切り天気もいいし、この美しい流れに沿って心行くまで散歩したいなあ、と考えていると、トドならぬ藤堂女史が例の甲高い声で言った。

「はい、では今からフリータイムとしまあす」

おお、ついに来たか、待望のフリータイム。こんなに素敵な場所でフリータイムを取るなんて、なかなかやるじゃないか、ルックJTB。ほんの少しだけ見直したぞ。よし、この美しい流れに沿って歩いてやる、歩き倒してやる。

「今から20分後にここに集合としますので、それまでご自由に散策なさってくださあい」

思わず腰が砕けた。

20分で散策しろって、どういうことだよ? この美しい街をたった20分で散策しろってどういうことだよ? 自慢じゃないが、自分は4日間かけて多摩川を「ほぼ」制覇したこともある散歩のプロなのだ。散歩の醍醐味を知り尽くしているプロなのだ。その自分に向かって20分で散策してこいなんて、これは自分に対する挑戦なのか? いや、もしかしたら新手の嫌がらせか?

「トドの奴、ふざけてるよね。いや、ちょっとだけおふざけですわよね、おほほ」

遠慮がちに不満を彼女にぶつけると、「まあ、しかたないじゃん。ツアーなんだし。それよりもせっかくのきれいな景色なんだから写真でも撮ろうよ」となだめられた。まったくその通りだ。ツアーで連れられてきているんだから、添乗員の指示通りに行動するのが、ツアーメンバーの義務だ。そうしなければならないのは一応自分もわかっているつもりだが、やっぱり割り切れないものを感じる。それにひきかえ、いちいち大人な彼女が素敵だ。こんなに子供な自分を相手にしてさぞかし疲れることだろう。すまん。

周囲を見回すと、思い思いにばらけたツアーメンバーが、写真を撮ったり、ちょっと素敵なカフェでくつろいだりしている。その中で、微妙な距離を保ってベンチに座る米長夫妻の姿が視界に入った。4人くらいは掛けられるベンチの間を空けて、二人とも思い切り端っこに座っているのだ。さすがは将棋名人夫妻である。まだ旅行は序盤戦、最初は穴熊戦法でお互いの出方を見ようというところか。これからどう対局が進んでいくのか楽しみだ。


散策を終えてバスに乗り込み、少し走って今日の「楽しい会食会場」であるレストランへと向かう。

オープンテラスの頭上に日光を遮るように渡された緑が、なんとも言えずに素敵な雰囲気を醸し出しているレストランだ。なかなか良いじゃないか。飲み物のオーダーを訊かれた自分は迷わず「白ワインのハーフを」と注文した。集団で会食をするスタイルにはいまだに激しく抵抗を感じるが、ワインだけは別だ。フランス三日目にして早くもワインのとりこになってしまった自分が素敵だ。

ほどなくワインが運ばれてきた。ボトルのコルクを抜いて、うやうやしくウエイターが自分のグラスにワインを注ぐ。

うん、苦しゅうないぞ、下がってよろしい。いや、下がりなさい。ただちに下がりたまえ。

しかし、ワインを注ぎ終わったウエイターは、唇の端に笑いを浮かべたまま、下がろうとしない。もしかして、これってワインのテイスティングをしろってことなのか?

脇に立つウエイターの表情をこそっと伺うと、微笑を浮かべたまま片手にボトルを持った姿勢で直立している。

そうか、自分がテイスティングをするまでは立ち去らないつもりなんだな。
ウエイターから視線を戻すと、同じテーブルに陣取ったツアーメンバーが好奇の視線を自分に注いでいるのがわかる。困った、自分はこれまでに一度もテイスティングなんてしたことがないのだ。なんとかしてこの窮地を脱しなければいけない。そうだ、困ったときには彼女に訊けばいいのだ。今までも困ったときは彼女が助けてくれたのだ。頼りにしてるぜ、相方。

テイスティングって、どうすればいいの? そう訊こうとして横を振り向いたのだが、その椅子には誰も座っていなかった。そうか、飲み物の注文を取った後、ちょっとお手洗いに行ってくるね、と言って席を立ったまま、まだ彼女は戻ってきていなかったのだ。

生ぬるい嫌な汗が脇の下を伝って流れ落ちるのがわかる。しかし、いつまでも固まっているわけにはいかない。意を決して、ワインの注がれたグラスを手にする。

まずはグラスの脚を持ってワインをグラスの中で回し、立ち昇る香りを確かめた後、一口含んで舌の上で味を確かめてから飲み下すんだったな、たしかそんな手順だったはずだ。何かの本ででそんな記述を読んだ気がする。えーい、ままよ!

周囲の視線に思い切り舞い上がった自分は、そんな手順のことなどすっかり忘れて、速攻でグラスを口に運んだ。口に含む間もなくワインを飲み下し、グラスをテーブルにおいて大きく息を吐き出した自分は、脇に立つウエイターを見上げて、「美味いっすよ、good, good」と声をかけた。それを聞いたウエイターはなにか聞き取れない言葉をモゴモゴと発しながら、笑顔のまま去っていった。

いくら無知な自分であっても、人生初のテイスティングが無残な結果に終わったことだけはわかった。フランスに来るのに、テイスティングの作法を学ばなかったことを激しく後悔した。「旅の恥は掻き捨て」とよく言うが、簡単には捨てられないくらいの恥をかいてしまった。さすがはおフランス、恐るべしである。

拭い切れない恥ずかしさを身にまとったまま、午後の観光へと向かう。

最初の観光地は、ノストラダムスの生家である。ノストラダムスを有難がるバカ者は日本人観光客だけだろうと思いきや、目の青い一行のツアーも同じように見学をしていることに驚く。インチキ臭い予言が受けるのは、なにも日本だけではないらしい。


そこからまたバスに揺られて、山の上に位置するなんとかという街に到着する。

石造りの細い道の両脇に色んな店が建っている。どうやらここは観光客目当てのお土産屋ストリートといった趣の街らしい。隣を歩く彼女の表情が引き締まるのがわかる。男子である自分はお土産のことなんて気にしないが、女子の場合はそうもいかないらしい。彼女は色んな知り合いからお祝いをもらったらしく、そのお返しに買うべきお土産のことで、旅行前から頭が痛かったようだ。

ちょっとこのお店を覗いていこう、と言いながら、あちらこちらの店に入っていく彼女について歩くのがちょっとばかりうっとおしい。まだ旅行は始まったばかりなんだから、何も今から慌ててお土産なんて選ばなくてもいいじゃないか。しかし裏を返して言えば、それくらいお土産のことが気にかかっているということだろう。本当にお土産ってやつは厄介だ。お土産のせいで旅行の楽しみが損なわれてしまうというのは、何かが間違っていないか。


そんなこんなでホテルに戻り、恒例の「楽しい会食」の時間となった。

藤堂女史とガイドさんに連れられてきたレストランの店内には、6人掛けのテーブルが3つ用意されていた。なるべく会話に加わらなくて済むようにと思い、テーブルの端に彼女と向かい合わせて座る。ほどなく隣にP子ちゃん姉妹と鎌倉婦人ペアが腰を下ろした。おお、これは最強のおばさんカルテットではないか。

食事が運ばれてくるとすぐに最強おばさんたちは、いたいけな子羊の自分をターゲットに選んで話し始めた。

「こんなこと訊いて失礼だとは思うんだけど、もしかしてお二人はお忍びで?」
「え、どうしてですか?」
「いえね、最初に添乗員さんから名前を確認されたときに、お二人別々の苗字だったでしょ。だから」
そう訊くおばさんの表情は、まさに興味津々といった感じだ。どうしておばさんって人種は、こうもあからさまに他人のプライベートに興味を持つのか。自分からすれば、そちらの方が興味津々だ。あんたら、自分のことだけ心配していればよろしい。

「いえ、そうではないんです。たまたま別々の苗字で申し込んだだけなんです」
そう答えたのは彼女だ。こらこら、どうしてそこで本当のことを喋るのだ。誤解させておいたままの方がずっと面白いのに。


「お二人はどうやって知り合ったのかしら?」
「どんな感じでプロポーズなさったのかしら?」
「今はさぞかしお幸せなんでしょうねえ、かしら?」

次々に浴びせられる不躾な「かしら?」質問に閉口した自分は、とりあえず失礼にならない程度の仏頂面を作りながら、適当に「ええ」だの「いえ」だのと、単語だけで答える作戦に出た。しかし敵もさるもの、そんなことではひるむはずもない。

「あら、ご主人無口ねえ、おほほ」
「新婚さんだから、まだ”ご主人”って呼ばれるのに慣れてないのかしら、おほほ」
「それとも、こんなおばさん達に囲まれて怖がってらっしゃるのかしら、おほほ」
「なんだかういういしいわよねえ、おほほ」
「そうよねえ、新婚のときにはうちの主人もういういしかったわ、おほほ」
「それが今となってはねえ、おほほ」
「あら、うちも同じですよ。もう旦那なんてかまってもくれないし、おほほ」
「だからこうして女同士で旅行に出かけて憂さ晴らしをしてるのよね、おほほ」
「おほほほほほほ」

次々に浴びせられる「おほほ」攻撃に、自分はすっかりノックアウトされてしまった。

最強おばさん軍団にいいように遊ばれてしまった。ピクピクとこめかみが震えるのを感じながら、まるで針のむしろに座らされているような楽しい会食がようやく終わった。今思い返してみても、そのときに何を食べたのか、まったく思い出せない。ささやかな食事の楽しみさえも奪ってしまう最強おばさん軍団、まさに恐るべしだ。


食事を終えて外に出ると、夏至を間近に控えた南仏はまだまだ明るい。


せっかくだから飲み直そうと、彼女を連れて屋台っぽいオープンカフェが建ち並ぶ広場に出て、ちょっと雰囲気の良さそうな店に入った。

若い男子のウエイターがメニューを広げてテーブルに置いて立ち去る。
白ワインのハーフとトマトのサラダと、甘い物が好きな彼女にはアイスクリームを取ることに決めて、若い男子のウエイターを呼ぶ。

旅行が始まってから今まで彼女に頼りっぱなしで、まったく良いところを見せていない自分は、今こそ卓越した英語力を披露する絶好の機会だと思った。フランスでも観光地であるここアビニヨンならば、英語は問題なく通じるはずだ。このままでは成田空港で別れを告げられてしまうかも知れない。よっしゃ、ここは一発スマートに決めてやる。

若い男子のウエイターを見上げながら、広げたメニューを指差して自分は言った。

「えーっと、このワインとこのサラダとこのアイスクリーム。オッケー?」

しまった、いざとなると英語が出てこない。目の前に座る彼女は、必死に笑いをこらえているようだ。ウエイターも苦笑を浮かべて、うなずきながら店の奥に下がった。

これでも一応、翻訳の仕事でお金を得ている人間なのだ。英語は多少得意なのだ。いや、得意なはずだ。このままでは成田離婚が現実のものとなってしまう。やばいぞ、自分。頑張れ、自分。

白ワインを飲みながら必死に心を落ち着かせる自分は、彼女のアイスクリームが一向に出てこないことに気づいた。

よし、今こそ汚名挽回の絶好のチャンスだ。ここでスマートに、彼女のアイスクリームが出てこないことにクレームをつければ、自分の株はおフランスの朝日同様、うなぎ上りになるはずだ。

意を決した自分は、若い男子のウエイターをテーブルに呼んで、少しロレツの怪しくなった口調で言った。

「シー ハズ オーダード アイスクリーム。 バット ノット イェット」


一言一句正確に、そのときの自分の台詞を再現してみた。


改めて言うまでもなく、極めて怪しい英語だ。大体、"but not yet" という、否定後三連発の表現が笑える。思い切り笑える。しかも、丁寧に "t" で韻を踏んでいるところが我ながら素敵だ。これで自称英語が得意だって言うんだから笑わせる。まったく、我ながら腹が痛い。ああ、痛い。痛すぎて腸捻転になってしまう。

とりあえず、この怪しい英語はかろうじてウエイターには通じたらしいが、目の前に座る彼女は必死に笑いをこらえているようだ。そうだろうな、こんなに貧弱な英語だったら、彼女でなくても笑うしかないだろう。

あまりのダメダメ英語に、思わず自分も吹き出した。その笑い声で顔を上げた彼女も、つられて大きな声で笑い出した。

「まあ、こんな英語でも通じるんだから、とりあえずは良しとしようよ」
「あー、面白かった」
「本当は自分の英語はこんなもんじゃないんだよ。ちょっと実力を隠しているだけなんだからさ」
「そうだね、そういうことにしておこうか」
「まあ、おフランスで本格的な英語を披露したって、もったいないだけだからさ」
「じゃあ、今度は期待してるから。ビシッと決めてね」
「まあ、いつになるかはわからないけどね」

こんな感じで、二人そろって大笑いした。

どうやら成田離婚の危機はとりあえず遠ざかったらしい。まさか自分の貧弱な英会話力が、二人の絆を強める役に立つとは思わなかった。人生どう転ぶかわからないものだ。常に前向きに生きていこう。


今日も良く眠れそうだ。おやすみ、おフランス。




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