6月5日 天候:快晴


朝起きて窓の外を眺めると、空は気持ちよく晴れている。まさにおフランス日和だ。

緊張のせいで、あまりよく眠れなかった。何せ自分は極端に神経の細い人間なのだ。ここだけの話だが、結婚式の当日も、朝起きて納豆かけご飯を食べた後、思い切り吐いてしまったくらいに小心者なのだ。おっと、この話は他言無用だ。これを読んでいるあなたと自分だけの秘密にしてもらいたい。

本八幡駅から総武線に乗り込み、途中駅で彼女と合流する。

あらかじめ断っておくが、この時点ではまだ彼女とは入籍していない。一月前に引っ越した新居も、自分一人で暮らしている状態だ。つまり、この旅行の結果如何では、籍がきれいなまま帰りの成田空港で別れを告げられるという事態も充分にあり得るということだ。早い話が、この旅行で自分という人間が試されているということに他ならない。ここはひとつ、気を引き締めていかなければならない。

重いスーツケースをガラガラと引きずりながら成田空港に着くと、40代半ばと思しき女子の添乗員さんに出迎えられた。頭の先から甲高い声を出すその女子は、とにかくたくましい体格をしている。一目で「トドっぽい」という形容詞が頭に浮かんだ。

これから先、この女子添乗員さんは、「トド」ならぬ「藤堂女史」と呼ぶことにする。

空港のチェックインを前にして集められたツアーメンバーは総勢16名。
一瞥したところ、男子は自分を含めてわずか3名しかいない。20代半ばと思しき新婚カップル男子と、50代半ばと思しき熟年カップル男子のみ。しかし、二人とも余裕しゃくしゃくの表情で、すでにいっぱいいっぱいの自分とは大違いだ。

とりあえずここで負けてはいけない。思い切り下っ腹に力を入れ、いかにもベテランといった表情を作りながら淡々と手続きをこなしていく。そのくせ、「これってどうするの?」とか、「これでいいの?」とか、いちいち小声で彼女に確認する自分が情けない。


飛行機のシートに着くまでは、色々と笑えることもあったのだが、ここでいちいち書いている暇はない。なにせ先は長いのだ。ここは思い切り端折って先を急ごう。


座席に着いてまず思ったのが、「うそ、狭いじゃん!」ってことだ。
はっきり言って、新幹線の座席と同じか、あるいはそれ以上に狭い。さすがはエコノミー、座席も経済的だ。

狭いながらも楽しい我が家、なんてことを考えながら窓の外を眺めていると、眼下に思いがけず佐渡島の景色が広がった。おお、我が故郷佐渡島。日本地図で見るのと同じ形をしていることに興奮を覚えながら、窓にかじりつく。まじまじと目を凝らすと、母親が地上で自分に向かって手を振っているのが見える気がする。もちろんそんなものは見えるわけもないが。


「前略お袋様
18歳のときに布団袋ひとつで上京したあなたの息子は、今あなたがいる佐渡を見下ろしながら飛行機に乗っています。こんなに成長してごめんなさい。無事フランスに着いたらまた連絡します。
草々」

それからほどなく、機内食が出された。飲み物は何にしますか? と訊かれた自分は迷わず「白ワインを」と答えた。いつもならば間違いなく「ビールを」と答えるところだが、これからおフランスに行こうとしているのにビールでは気分が出ない。やっぱりおフランスにはワインだろう。

「前略お袋様
18歳のときに布団袋ひとつで上京したあなたの息子は、今優雅にワインを飲みながら飛行機に乗っています。こんなに成長してごめんなさい。ビールに枝豆はもう卒業します。
草々」

ワインを飲みながら食べる機内食は意外にも美味い。もちろん美味いとは言っても所詮は機内食だから大したことはないのだが、想像していたよりはずっとまともな味だった。純和食党の自分を心配して彼女がおにぎりを作ってきてくれたのだが、とりあえず後にとっておくことにする。


食事を摂った後は特に何もすることがない。スチュワーデスに促されて窓のブラインドを下ろすと、外の景色も見えない。旅なれた彼女は隣で眠っているから話相手もいない。神経質な自分は枕が変わるとてきめんに眠れなくなってしまう。電車の中で眠るという芸当は、酒に酔ったとき以外にはできないし、ましてや生まれて初めて乗った国際線の機内で眠ることなんてできるはずがない。

遠慮がちに灯した読書灯の明かりでヘミングウエイのペーパーバックを読む。あまりのつまらなさにウトウトとしかけるが、本格的に寝ようと思って目を閉じるとなぜか眠れない。とにかく思い切り足を伸ばすことができないのが辛い。これでシャルル・ド・ゴール空港まで12時間も我慢しろなんて、はっきり言って拷問に近い。


結局一睡もできないまま、飛行機はシャルル・ド・ゴール空港に着いた。

そのまま国内線に乗り継いでマルセイユに着いたときには、午後8時を回っていた。そこからバスに揺られてホテルに着いたときには午後9時を過ぎていた。しかしこの時期の南フランスはまだまだ明るい。今朝起きてからホテルにたどり着く間ずっと明るかったというのは、なんだかおかしな感覚だ。体は疲れているはずなのに、なぜか頭は冴えていて少しも眠くない。


スーツケースを部屋に運び込んで一息つくと、思い切り腹が減ってきた。着陸前に機内で軽い食事を摂って以来、何も口にしていないのだ。彼女が作ってきてくれたおにぎりがまだ残っていることを思い出し、ベッドの上にあぐらをかいておにぎりにかじりつく。

くーっ、美味いぞ、この野郎! 日本人なら米を食え! ぱさぱさした堅いパンなんか、クソ食らえだ! いや、ここはおフランスだ。もっと上品に振舞わねばならない。ぱさぱさした堅いパンなんて、ウンチ召し上がれですわ。おほほ。


枕が変わると眠れない自分を心配して、彼女が薬をくれた。なんでも、これを飲むと良く眠れるらしい。まさか飲んだら最後、眠りっぱなしになるんじゃないだろうな、なんてことは露ほども思わず、ありがたく頂戴した。

おにぎりを食べた満腹感からか、それとも薬が効いてきたのか、まぶたが重くなってきた。

どうやらようやく眠れるらしい。


だんだん重くなっていく頭の中で、早く日本に帰りたいなあと思った。どうやら早くもホームシックにかかっているらしい。我ながら、これから先が思いやられる。




TOP